第73話 明かされる真実
ベル・シレイラ男爵が仕掛けた『美の革命』は、フィリスティア王国に空前の好景気をもたらしていた。
王都の女性たちは、エステティックサロン『レクラ・ドール』で磨き上げた美貌を競い合い、その活気は街全体を華やかに彩っている。
黄金郷シレイラ・ドリームランドと並び、ベルが生み出した二つの経済圏は、今や王国の富の源泉とさえ言えるほどの勢いを見せていた。
だが、光が強ければ影もまた濃くなる。
国民が謳歌する平和と繁栄の裏側で、国家の根幹を揺るがす巨大な暗雲が、刻一刻とフィリスティア王国に迫っていた。
王城の最奥、国王執務室。
窓の外に広がる賑やかな王都の風景とは裏腹に、室内の空気は氷のように冷たく、張り詰めていた。
「―――で、状況は?」
玉座に深く身を沈めた国王イラーフ・フィリスティアが、低い声で問う。その顔には、いつもの豪放な笑みはなく、一国の王としての険しさが刻まれていた。
彼の問いに答えたのは、王国宰相テルミニ・イメレーゼ侯爵ただ一人。幼馴染でもある二人が、二人きりで話すとき、そこに堅苦しい君臣の礼儀は存在しない。
「最悪だ、イラーフ。聖九柱教の総本山、アンティゴノス古王国が、ついに『神敵フィリスティア討伐』の勅令を発した。ウガリット、プランシー、サリデの三国は、これを大義名分に、すでに国境付近へ兵を集結させている。聖戦の名の下、四カ国連合軍による侵攻は、もはや時間の問題だろう」
テルミニは、執務室の中央に広げられた巨大な軍事地図を指し示した。
フィリスティア王国を示す青い駒は、三国を示す赤い駒に完全に包囲されている。まさに、袋の鼠。
「正面からぶつかれば、どうなる?」
「勝てん。万に一つもな。いかにウチの騎士団が精強でも、物量が違いすぎる。国が焦土と化すだけだ」
テルミニの冷静な分析に、イラーフは忌々しげに舌打ちした。
だが、その瞳の奥の光は消えていない。絶望的な状況であればあるほど、この王の闘志は燃え盛るのだ。
「なら、奴らの背後を突くしかねえな」
イラーフの太い指が、地図の上を滑り、カナン地方の西、巨大な山脈を越えた先にある広大な草原と森林地帯――トリア地方を叩いた。そこには、緑色の駒が一つだけ置かれている。
「獣人王国チャタル、か。お前と現王ケルヌンノスが、若い頃に冒険者仲間だったというのは知っているが……人間の戦争に、あの誇り高い獣人たちが易々と乗ってくるとは思えんぞ」
「だからこそ、だ。幸い、国立エクロン魔法学院には、ケルヌンノスの娘御、バステト・チャタル王女が留学に来ている。彼女を丁重に本国へ送り届けるという名目で、俺の親書を持たせた全権大使を派遣する」
挟撃作戦。現状を打開しうる、唯一にして最善の一手。
テルミニも、その戦略に異論はなかった。問題は、そのあまりにも重要な使者を、誰に任せるかだ。
「大使の人選だが……」
テルミニが口を開きかけたのを、イラーフが手で制した。まるで、最初から答えが決まっていたかのように、静かに、しかし断固とした口調で、その名を告げる。
「―――ベル・シレイラ男爵。あいつに行かせる」
一瞬の静寂。
テルミニは、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「……正気か、イラーフ」
「ああ、本気だ」
「本気で言っているなら、いよいよ耄碌したか! 考えてもみろ! ベル・シレイラは、確かに規格外の功績を立てた。だが、まだほんの子供で、爵位も男爵に過ぎん! 一国の存亡を賭けた交渉の使者として、獣人王国に示すには、あまりにも格が低すぎる! 無礼と取られ、交渉の席に着く前に叩き出されるのがオチだぞ!」
長年の冷静沈着をかなぐり捨て、テルミニは激しくまくし立てた。それは、王国を思う宰相としての、心からの叫びだった。
イラーフは、そんな親友の激昂を、ただ黙って受け止めていた。
やがて、テルミニが肩で息をするほど言い終えると、イラーフは深く、そして重いため息をついた。
「……お前だから、話す」
イラーフは、ゆっくりと椅子から立ち上がると、窓辺に歩み寄り、王都を見下ろした。その背中には、深い苦悩と、父親としての悲しみが滲んでいた。
「これから話すことは、俺たちフィリスティア王家の、最大の秘密だ。誰にも言うな」
ただならぬ雰囲気に、テルミニはごくりと唾を飲んだ。
「ベル・シレイラは……」
イラーフは一度言葉を切り、絞り出すように、衝撃の真実を告げた。
「―――俺と、アシエラの息子だ」
「な……に……?」
テルミニの思考が、完全に凍り付いた。
アシエラ王妃が産んだ子は、生まれてすぐに亡くなったと、公式に発表されているはずだ。
「第五王子、べアル・ゼブル・フィリスティアは……死んではいない。あいつこそが、ベル・シレイラなのだ」
雷に打たれたような衝撃。
イラーフは、苦渋に満ちた表情で、封印してきた過去の断片を語り始めた。
「べアルは……生まれた時から、呪われていた。5歳まで、あいつは“無属性”の無能だった。王家の血を引く者が無属性など、前代未聞。周囲はあいつを“出来損ないの王子”と蔑み、存在しないものとして扱った。俺も、アシエラも、必死で庇ったが……結局、あの子は後宮の片隅にある、陽の当たらない小さな部屋に軟禁されることになった」
イラーフは、悔しそうに拳を握りしめる。
「そんなべアルの唯一の味方が、アシエラの義理の妹、サーヤだった。彼女だけが、実の母親のように、べアルに愛情を注いでくれた。だが、2年前……べアルが5歳の時、あいつは後宮から忽然と姿を消した。同時に、俺たちの中から、べアルに関する記憶が、急速に薄れていったのだ」
「記憶が……薄れる……?」
「ああ。まるで、最初からそんな王子はいなかったかのように。今にして思えば、それが呪いの正体だった。闇魔法の中でも最も邪悪とされる『精神操作』。対象者の存在そのものを、周囲の認識から希薄にし、やがては世界から消し去るという、禁忌の術だ」
テルミニは息を飲んだ。そんな恐ろしい魔法が存在するとは、聞いたこともない。
「母親であるアシエラでさえ、今ではべアルのことを覚えていない。心のどこかに空いた穴を感じながらも、それが何なのか思い出せないでいる。……俺が、この呪いの存在に気づいたのも、ごく最近のことだ」
「どうやって……?」
「ベルだ。ベルの奇跡の報告を受け、実際に会ってみて驚いた。あの歳で、俺に匹敵するほどの魔力。そして何より、時折見せる、アシエラと瓜二つの、あの強い意志を宿した瞳……。まさか、と思った。そこから、王家の禁書庫に篭り、古代の文献を漁り尽くして、ようやく呪いの正体に辿り着いた」
イラーフは、窓の外に視線を向けたまま、続けた。
「だが、確かなことは一つだけだ。あいつは、5歳でたった一人、後宮を抜け出し、この2年間、誰にも頼らず、己の力一つで生き抜いてきたんだ。まだ、たった7歳のガキが、だぞ……」
その声には、王としての威厳ではなく、息子を守れなかった父親としての、深い痛みと後悔が滲んでいた。
テルミニの脳内で、これまでベル・シレイラという少年に感じてきた、数々の謎が、パズルのピースのように、次々とはまっていく。
―――なぜ、ただの平民の子供が、国王に匹敵する魔力と規格外の戦闘能力を持つのか。
(王国最強の剣士イラーフと、最強の女剣士アシエラの血を引く、正真正銘の王子だからだ)
―――なぜ、国王が、一介の男爵に過ぎない彼を異常なまでに目をかけ、時に父のような親密さを見せるのか。
(彼が、守るべき実の息子だからだ)
―――そして……なぜ、サーヤが魔人に攫われた、あの絶望的な現場に、ベルがいたのか。
(攫われたのが、唯一自分を愛してくれた、育ての母親だったからだ!)
すべての辻褄が合った。
黄金郷、魔導船、エステティックサロン……。神の御業としか思えなかった数々の奇跡も、全ては、この国で最も優れた血統を受け継いだ王子の、隠された才能の発露だったのだ。
「……呪いをかけた犯人の目星は?」
テルミニが、震える声で尋ねる。
「……まだだ。だが、王家の中枢にいる人間だろう。だからこそ、今もべアルは、ベル・シレイラでなければならん。真実が暴かれれば、敵は必ず災いを仕掛けに来る」
イラーフは、ゆっくりとテルミニの方へ向き直った。その瞳には、再び王の決意の光が宿っていた。
「テルミニ。お前なら、分かるはずだ。獣人王ケルヌンノスは、力なき者の言葉には耳を貸さん。だが、己の力で運命を切り拓いてきた“本物”の男の言葉には、必ず耳を傾ける。べアルは……ベルは、その資格を持つ。いや、あいつしかいないのだ」
長い、長い沈黙が、執務室を支配した。
やがて、テルミニはゆっくりと立ち上がると、イラーフの前に進み出て、深く、深く、頭を垂れた。
「……分かった、イラーフ。俺が間違っていた」
その声には、もはや反対の色合いはなかった。あるのは、驚愕と、そして深い納得だけだった。
「シレイラ男爵――いや、べアル・ゼブル・フィリスティア王子殿下こそ、この度の使者に最もふさわしい。このテルミニ、得心した。俺の不明を許せ」
「……いいさ。無理もない」
イラーフは、長年の親友からの理解を得られ、どこか安堵したように息をついた。
「頼むぞ、テルミニ。表向きは、バステト王女の学友であるベル・シレイラ男爵が、王女の護衛と案内役として同行する、という名目だ。事は穏便に、それでいて、俺の親書を確実にケルヌンノス王に届ける。万全の準備を整えろ」
「御意」
宰相として、完璧な礼を取って退出していく親友の背中を見送り、イラーフは一人、玉座の間の窓辺に立った。
その視線は、眼下に広がる王都を通り越し、遥か彼方、シレイラの地があるであろう東の空を見つめている。
「べアルよ……」
王は、誰に聞かせるともなく、静かに呟いた。
「またしても、そなたに重荷を背負わせてしまうな。すまぬ。だが、これもフィリスティアの未来のため。そして……いつかお前が、全ての呪いから解放され、本当のお前自身を取り戻すための、戦いなのだ」
その頃、ベル・シレイラは、学園の昼休み、アナやフェルと共に、次のシレイラ・ドリームランドの新アトラクションの企画で盛り上がっていた。
「今度は、ジェットコースターを進化させて、途中で水の中に突っ込むやつなんてどうでしょう? 夏は涼しくて最高ですよ!」
「それは面白そうね! でも、服がびしょ濡れになるじゃない!」
「問題ない。出口に全身を瞬時に乾かす魔法乾燥機を設置すればいい。採算性も悪くないはずだ」
まさかその裏で、自らの出生に関わる重大な秘密が明かされ、王国の存亡をかけた外交任務の全権大使に任命されていたなど、ベルは知る由もなかった。
フィリスティア王国の運命と、一人の少年の宿命が、今、大きく交差しようとしている。
物語の舞台は、神秘の森と誇り高き獣人たちの国、チャタル王国へと移る。




