天使と悪魔 #天使
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欲望の街 下層
歓楽街
大娼館"ヨシワラ"#大倉庫
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「無茶しやがって…!」
アイがインジェクションしてから、1分ほど経った。
バーチャル・リージョンと現実では流れる時間の早さが大きく異なる。
通常インジェクションは、現実世界では一瞬で終わることが多い。
しかしハッキングに対する抵抗が強ければ強いほど、指数関数的に時間を要するようになる。
1分は、インジェクションとしては非常に長い時間だった。
よほど苦戦しているのか、あるいは…
レグルスは浮かんできた最悪の結末を、頭から締め出す。
(苦戦してるなら、こっち側から助けてやるしかない…!)
レグルスは薄闇の中を駆け、M500を撃つ。
そして考える。
(今、アイがコアにインジェクションしてる筈。という事は、)
「ステラ!サーマル・センサー!」
インジェクションを受けているはずのコアは、それに対抗するため多くのエネルギーを使っている…つまり熱エネルギーを放出しているはずだ。
レグルスの視野に、熱源探知による補正が加えられる。
「そこか!」
レグルスはひと際赤く表示されている、高熱を発している部分を撃った。
途端に、その周囲に点在していた流体が劇的な反応を見せる。
コアを守るように流体が凝縮、弾頭を受け止めてしまった。
流体の後方が爆発するように膨らむ。
しかし弾は貫通せず、膨らんだ流体は瞬く間に元に戻っていく。
さながらコアを守る盾といったところか。
続けて引き金を引くが、弾は全て受け止められる。
しかし連続して大口径の銃弾を撃ち込まれた流体は、元の形状がわからないほど大きく変形している。
それが復元する前に、レグルスはコアに向けて奔った。
ナイフを抜いた右手を、コアに突き出す。
切っ先がコアに触れる…その直前。
別の流体が刃に絡みついた。
そのまま右手全体が覆われる。
レグルスは構わず、そのまま突きこんだ。
コアに拳が叩き込まれる。
しかし流体が緩衝材となり、全くダメージは与えられていない。
右前腕から肘、上腕へと黒い触手が這い上がって来る。
だが…
(狙い通りだ)
「ステラ、右腕に超電スパイクをかけろ」
『警告…過度の電圧は電気系統に致命的な損傷を与える可能性があります…』
「構わん、やれ!!」
換装式強化義身の動力炉から、異常な電流が放たれた。
落雷のような電流は電気回路を駆け巡り、破損した右腕からディアブロへと伝わる。
凄まじい電圧に、ディアブロが硬直した。
「ぐあっ…!!」
荒れ狂う電流は、レグルスのエンチャントメントにも深刻なダメージを与えた。
身体が動かない。
レグルスは小柄な少女の姿を思い浮かべた。
娘のような年頃の彼女に望みを託すのは遺憾だが、もはやそれ以外に手は無い。
(後は頼んだぜ…!)
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生物機械間神経回路《Biomechanical Neural Circuits》#ノードd0001_000001
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『…っ!?』
全身を締め上げていた触手が、突如動きを止めた。
仮想領域全体が激しく揺らいでいる。
何が起きているのか分からないが、チャンスは今しかない。
『う…あああああっ!!』
アイは四肢をめちゃくちゃに振り回して触手を振り払った。
腕も、脚も、物凄い激痛を発している。
アイはゾンビのように、女性研究者の方に向かった。
彼女は…緑色のカプセルを握り締めて硬直していた。
そしてその胸には、黒い触手が突き刺さっている。
「ご…め………さい……」
彼女は壊れてしまったスピーカーのように、雑音混じりの譫言を呟いている。
「わ……したち………いと……い……メラニア………だれ………とめ……あのこ……とめて………」
彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
アイはそっと、カプセルを掴む。
背後では、徐々にディアブロが動き始めている。
アイは振り返る。
床の下から、途轍もない大きさの黒い球体が迫り上がって来ていた。
全ての触手は、その球体に繋がっている。
アイはカプセルを握り締めると、全身全霊の力を込めて、地面を蹴った。
痛みがつま先から頭の先まで駆け抜けるが、無視する。
折れた脚で何度も地面を蹴り続ける。
黒い球体の中央が裂け、大きく口を開いた。
無数の牙が並ぶ。
アイは迷う事なくその中に突っ込んだ。
口が閉じる直前に、口腔内にカプセルを叩きつけた。
緑色の液体が溢れ出し、ディアブロが、バーチャル・リージョン全体が大きく、途轍もなく大きく揺らいだ。
崩れゆく世界の中で、アイはゆっくりと目を閉じた。
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欲望の街 下層
歓楽街
大娼館"ヨシワラ"#監視ルーム
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「はっ…!?」
アイは飛び上がるように、上半身を起こした。
「あ…れ…?どうなって…?」
状況が呑み込めず、兎にも角にも自らの状態を確認する。
アイは何故か、布団のようなものの上に寝かされていたようだ。
薄汚れ毛布を除けて、立ち上がろうとする。
「目が覚めたか」
レグルスが手を貸してくれた。
「あ、ありがと。」
その手を握り、アイは立ち上がった。
「それで…ディアブロは…!?」
唐突に自分が何をしていたのかを思い出し、勢い込んでレグルスに確認する。
と同時に、バーチャル・リージョンで味わった痛みが蘇ったような気がして、血の気が引く。
「大丈夫か?かなり無茶したな」
レグルスが素早く体を支えてくれる。
「え、ええ…ごめんなさい…」
「いや、構わん。お前のおかげで助かった。俺も、あいつらもな」
レグルスが指し示す先を見ると、二匹の子猫がすやすやと眠っていた。
「ディアブロ…いえ、メラニア…」
アイは吸い寄せられるように黒猫に近付く。
「メラニア?ふん…ディアブロよりは良いな。」
黒猫は先ほどまでの怪物っぷりが嘘のように安らかな寝息を立てている。
「もう大丈夫なの?」
「ああ。ナノマシンのコアモジュールが鎮静化されて、元の黒猫に戻ってる。お前のおかげだよ。」
「そう…良かった…」
アイは全身の力が抜けたような感覚に陥る。
レグルスの手がなければそのまま倒れていたかもしれない。
「白猫の方はおとなしいもんだ。こっちは普通の猫なんだろうな。」
あれだけの惨状の中、白猫の方は全くの無傷で眠っていたという。
「まあとにかくこれで、依頼は完了だ。こいつらをさっさと連れて行って…」
「それには及ばないわ」
突然、武装した男たちがモニタールームに突入してきた。
反応する間もなく取り囲まれ、銃口を突き付けられる。
「…随分な扱いじゃねぇか。化け猫退治をしてやったってのによ。」
レグルスが獣のように唸る。
彼のスーツは無数の傷にまみれており、その下のエンチャントメントもズタボロだ。
レグルスが男たちに反応できなかったのはその傷のせいだろう。
「ご苦労様。あなた達は良い働きをしてくれたわ。想像以上に…ね。」
男たちの後ろから、Yがゆっくりと歩み出た。
「最初から俺たちは捨て駒だったってことか」
Yは大げさに肩をすくめる。
「ご明察。でもまさか生き延びるだけでなく、ディアブロを無力化するだなんて思いもしなかったけどね。」
「ちっ…そうかよ…」
レグルスは顔をゆがめて歯嚙みしている。
二人とも立っているだけで精一杯であり、現状全く打つ手がない。
「標的を確保します。」
男の一人が、無造作に白猫に近寄った。
二匹の猫はむくりと起き上がり、目を細めて男を睨みつける。
男は白猫に手を伸ばした。
シィァァァァッ…
黒猫が吠える。
しかし先のような変異は起きない。
黒猫の姿のままだ。
男が白猫を掴む。
アンヘルは苦しそうに身をよじるが、男は手を放さない。
黒猫が男に飛び掛かった。
無謀にも重武装の男に爪を立て、噛み付く。
男は煩わしそうにそれを払いのけた。
黒猫は吹っ飛ばされ、床に激突した。
そのまま身動きしなくなり、やがて痙攣し始めた。
「ちょっと!?何をしているの!?」
Yの注意が一瞬、逸れる。
その隙をついて、レグルスがYに飛び掛かった。
Yに掴みかかるが、しかし軽くいなされる。
「うっとおしい…この死にぞこないが…!」
Yはレグルスに拳銃を向ける。
「Y…」
男の一人がYに呼び掛ける。
「Y…!Y…!」
男たちが口々にYを呼ぶ。
「なによ!?うるさい…」
床で痙攣していたディアブロの身体が、火山が噴火したかのように膨れ上がった。
呆気にとられる男たちに、暴発したディアブロが襲い掛かる。
銃声が響き、無数のマズルフラッシュが瞬いた。
「うわあああああっ!?」
「やめろ、放せ!!放せ…!!!」
銃声に男たちの悲鳴が混じった阿鼻叫喚の地獄絵図。
固まってしまっていたアイの手を、レグルスが引っ張る。
「逃げるぞ!」
「で、でも…!」
「見ろ!」
アイはレグルスの指さす方に眼をやる。
視線の先では黒い怪物が男たちを血祭りに上げている。
しかし黒い流体は、徐々にその勢いを失っているように見えた。
その証拠に、撃たれた流体は活動を再開することなく、蒸発するように消えていく。
「ディアブロが…」
「やつのナノマシンはもう崩壊寸前だった。恐らく変異の負荷に耐え切れなくなってたんだろう。」
再びアイの手を引きながら、レグルスは言う。
「奴はもうすぐ死ぬ…!逃げるなら、今しかない!」
アイとレグルスは混乱を極めているモニタールームから、必死に脱出を図る。
男たちもYも襲い来るディアブロから身を守るのに精一杯で、レグルス達には目もくれない。
レグルスがドアを蹴破り、モニタールームから飛び出した。
アイは逃げ出す直前、最後にディアブロを振り返る。
黒い悪魔は消えゆく命の限り、その猛威を振るっていた。
(造られた生命の行末…)
アイはその姿を目に焼き付けると、後はもう振り返らず、走り去った。
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欲望の街 下層
歓楽街
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Yは悪態を付きながら、ネオン・シティの薄汚れた道を歩く。
最悪の気分だ。
捨て駒の便利屋には逃げられ、ジェルマンが手配した戦闘部隊も壊滅。
さらには目標のうち1体が死亡するという目も当てられない失態だ。
それだけの被害を被って、どうにか確保したこの白猫だが、よりによってこの猫は変異しないらしい。
あれだけの戦闘があったのに、いつの間にか部屋の隅で眠っていた。
Yのインプラント・フォンがコールされた。
ジェルマン…。
よりによって一番話したくないときに、一番話したくない相手だ。
しかし相手が雇い主である以上、出ない訳にはいかない。
「…はい。」
《私のペットは?》
ジェルマンは必要なこと以外、一切話さない。
こちらの苦労など一顧だにしていないのだ。
Yは事の顛末を説明する。
ジェルマンは一切口を挟まず、報告を聞いていた。
そして一言、
《そうか》
とだけ言って通信を切った。
労いの言葉はもちろん、指示すらも無い。
一体どうしろというのか。
Yは激しい憤りを覚えた。
知らず、白猫を掴む手に力が入る。
白猫が苦し気な声を発した。
「ああもう…!イラつくわ…!!」
Yは怒りのままに、白猫を地面に叩きつけた。
グシャッと嫌な音がして、白猫が動かなくなる。
地面に、赤い染みが広がっていく。
「…ちょっと、噓でしょ?こんな…」
Yが慌てて白猫を拾い上げようと腰を屈めた、その瞬間。
プスッ…
「え…?」
胸元に針で刺されたような痛みを覚える。
Yは視線を下げると、小さく悲鳴を上げた。
白く細長い何かが、胸に刺さっている。
そしてそれは、先ほど地面に叩きつけた白猫から伸びていた。
(こいつ…!変異を…!)
見る間に白い身体が不定形の怪物へと変わっていく。
アンヘルの流体から次々と細い槍が伸びてくる。
「この…舐め…るな…!」
Yはそれを手で払おうとする。
しかし、奇妙はほど体の動きが鈍い。
(なに…!?体が…おかしい…)
覚束ない身体に慄いている内に、さらに数本の槍を刺されてしまう。
せるとYは、立っていられないほどの疲労感を覚えた。
(力が…抜ける…エンチャントメントまで…)
脚に力が入らない。
全身をエンチャントメントしているYにとって、それはあり得ない事だった。
電子回路が焼き切れてしまったのか、義身がまともに動かない。
Yは知らぬ間に、仰向けに倒れていた。
薄汚れた夜空が見える。
まるで蝋人形にでもされたかのように、身体がピクリとも動かせない。
(これは…何…?神経毒…だけじゃない…エンチャントメントをハッキングされてる…?こいつ…ディアブロと…違う…)
Yは胸の傷が途轍もなく熱くなって来ているのに気付いた。
何かを流し込まれている。
その事に気付いたYは、始めて死の恐怖を覚えた。
心胆が震える。
怖い…
しかしアンヘルは、さらに槍を突き刺してきた。
今や凄まじい激痛の塊が、いくつも全身を駆け巡っている。
「あ……あ……」
痛みに痙攣しながらも、指1本すらも動かない。
やがて手足の指が、溶け始めた。
生身の部分が急速に溶かされていき、エンチャントメントすらも溶かされていく。
Yは激痛と苦しみの中、薄れゆく意識の中でジェルマンの冷たい声を思い返す。
ジェルマンは指示を出さなかったのではない、
指示など不要だったのだ。
(私も…捨て駒…だった…)
やがて、かつてYだった物体は、地面にこびりつく吐しゃ物と見分けがつかなくなり、排水溝へと流れていった。
天使は満足げにそれを見届けると、尻尾を揺らしながらネオンライトの街に消えていった。
読んで頂き、どうもありがとうございます!
元々ペット探しという題材を思い浮かべて、それを色々連想して作ったのがこの天使と悪魔の章です。
その中でAだと思わせといて実はBだった、というミステリー的な要素を入れてみたくて、2匹の猫のうち黒猫がヤバいと思わせて実は白猫もヤバかった、という風にしてみました。
やっぱり面白い物語って、どこかしらにミステリーの要素があるよなー、と思ってまして、なんとかそれを身に付けたいなと。
感想、コメント等頂ければとても励みになります!
どうぞよろしくお願いします!