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背筋と鼠径溝

作者: XI
掲載日:2023/03/11

挿絵(By みてみん)

イラスト:フリー素材(タイトル:洗いざらし)

作:ウバクロネ様

*****


 大学の学食にてたがいに薄いカレーを前にしている。私たちは向かい合っているわけで、なんだか不穏な空気が流れ――否、空気を作っているのは私だ。目の前の彼は私のカレシである「はず」なのだけれど、最近、浮気をしているという噂が飛び交っている。飛び交っているといっても出所が友人の琴美であるため(彼女はとにかくヒトの不幸を喜ぶところがあるため)、にわかには信じがたいのだけれど、火のない所に煙は立たぬともいう。それって真理なのではないか。


 カレシ――マサトくんを問い詰める。「浮気、してないっていうんだったら証明してよ」って。マサトくんは「マリはなにを言っても信用してくれないだろ?」と返してきた。マリ。久しぶりに呼ばれた気がする――それは私がしばらくのあいだマサトくんに抱かれていないことを示している。セックスをしている最中に耳元で名を呼んでくれない男なんていないだろう。


 私の双眸にはじわりと涙が浮かぶ。

 その様子を目ざとく見つけたらしいマサトくんは慌てたような顔をした。


「なっ、泣くことないだろ。俺、おまえのこと、嫌いだなんて言ってないじゃんか」

「でも、好きだとも最近、言ってくれてない」

「好きだよ。好きに決まってるじゃんか。だって俺たち――」

「ほんとうに付き合ってるの? 私、都合のいい女になってるだけなんじゃないの?」

「そんなことないよ」

「だったら、行動で示してよ」


 湯気が立つカレーの向こうで、マサトくんは腕組みした。


「抱くよ、抱く。ほんと、メチャクチャに抱く」


 声が大きかったので、視線が集まった。


「やだ。その言い方、なんだかすごくやだ」

「だったら俺はどうすれば……」

「すぐにセックスに結びつけようとするのがやだ」

「でもマリはセックス好きじゃんか」


 ぐっ。

 図星だ。

 指摘されると意外とつらい。


「でも、嫌なんだもん」

「じゃあ、抱くのはやめる」

「あっ、やっぱりそれはやだ」

「えーっ」

「今日抱いてよ、今夜」

「俺、バイトあるんだけど?」


 イラっとした。

 いまの私の心境からすれば、それは止むを得ない感情だ。


「私とバイト、どっちが大事なの?」


 殺し文句だ。

 マサトくんは「ぐっ」と歯噛みした。


 ――結局、夜になると朝まで抱いてもらった。マサトくんの趣味は筋トレで、だからその身体はごつごつしていて、筋肉の繋ぎ目とでも呼ぶべき箇所は著しく窪んでいる。胸筋もそうだし、腹筋もそうだし、鼠径溝や、そして背筋がそう。私は特に背筋の窪みが大好きだ。事の際、背に腕を回しているとき、それはもう、この上ない快感に浸ることができるから。



*****


 私はセックス――すなわち性欲だけ満たされていれば充足感を得る阿呆な女らしい。青山のカフェでそれはもう高いコーヒーを飲んで、次は服やバッグでも見て行こうという話になった。私はそれなりにご機嫌でにこにこ満足だった。


 しかし、とある出来事をきっかけに私の機嫌は悪くなった。その下降線たるやほとんど直滑降だ。拓けた通りを歩いている最中に女と出くわした。身体が小さく、なんというかこう、女の私から見ても守ってあげたくなるようなタイプだ。出くわした途端、マサトくんは「うげげっ」と身を引いた。そんな態度などおかまいなしにその小さな女のコ――女はマサトくんに抱きついた。「マサトくん、マサトくん、マサトくん!」とか言って明らかに強く抱きついている。私は性欲だけが満たされていてもダメなのだと知った。


 私は一気に駆け出した。これから楽しい楽しいショッピングだったはずなのに……。


「マリ! 待ってくれ!!」


 後ろからそんな声がしたけど、折れてなんかやるもんか。



*****


 私は自宅であるアパートでベッドに突っ伏し、えぐえぐと泣いていた。マサトくんの身体はイヤラシイからその身体を好んで求める女性くらいいるとは思っていたけれど、こんなのあんまりだ。現象だけ観察すればそう簡単に「浮気」だと決めつけるべきではないのかもしれない。女にただ抱きつかれたというだけなのだから。にしたって、私からしたらショック以外のなにものでもない。


 えぐえぐ。

 えぐえぐ。


 さっきからケータイがしきりに唸り声を上げている。マサトくんだろうけれど、その表示を見るのも嫌だ。でも――つい応じてしまうあたり、私はよほどのお人好しなのかもしれない――と思う。


『マリ、良かった、繋がった』

「やだ……もう電話してこないで」

『そう言うとは思ったけど、誤解だからさ』


 私は「女と抱き合っといて誤解だって言うの!!」と大声を上げた。


『い、いや。抱きつかれただけじゃん。抱き合ってはいないって』


 ぐしゃぐしゃになった顔を、私は右手で覆った。


「そうだけど、そうだけど……」

『いいよ。いいんだ。だけどマリ、三日後、三日後には必ず会ってくれないか?』


 私の怒りは頂点に達した。


「どうして三日後なのよ! すぐ会いに来るのが誠意ってもんでしょ!!」

『それでもいいんだけど、ごめん、どうしても三日後がいいんだ』

「わかった。もうわかったよ。マサトくんは私のことが嫌いになったんだね」

『そんなわけないだろ。好きだよ、好きだ、大好きだ。それだけは信じてほしい』


 ぐすぐすと鼻を鳴らしつつ、私はマサトくんに「私はマサトくんの窪んだ鼠径溝と背筋が好きなんだ」と意味のない告白をした。「ジーンズから覗く鼠径溝も好きだけど、窪んだ背筋だって好きなんだ」と繰り返した。


『そんなふうに言ってくれるの、いまはマリだけだよ』

「嘘っ」

『ほんとうだってば。正直、マリが初めてだってわけじゃないんだけど……』

「ほら、ほら! やっぱりそうじゃない!!」

『だけど、それはどうしようもないことだからさ』


 場違いとも思えるほどに、マサトくんは明るく「ははっ」と笑った。

 それがあまりにも「らしい」ものだから、肩の力が抜けてしまった。


「……わかった。信じる」

『ほんとうに?』

「うん。最悪、別れることまで考えとくから」

『そんなことにはならないよ。うん。俺、自信持ってるから』


 じゃあな。

 快活にそう言って、マサトくんは電話を切った。

 なんだかほんとうによくわからないけれど、確かに自信満々に感じられた。



*****


 学食。本日私の目の前にあるのはチャーシュー増しの味噌ラーメンだ。丼をそっと横によけて、真っ白なテーブルに突っ伏す。今日もえぐえぐ泣く。えぐえぐ、えぐえぐ。だって、マサトくんが知らない女二人を向かいに迎え談笑しているからだ。もはや怒る気にもならない。マサトくんが指定した日はもう明日に迫っているけれど、やっぱりお別れを告げるつもりなのではないのだろうか。そう考え、涙する以上、私はマサトくんのことが好きで好きでたまらないのだ。盲目的? 純情すぎる? だけどどうしたって好きなんだよぉぉぉ……。



*****


 当日の夜。コスモクロックにマサトくんと乗った。マサトくんは向かいの座席でぶるぶる震えている。「高いところ、ダメなんだよぉぉぉ」と泣き言を漏らす。どれだけ好きでも今日は妥協してやらないと決めている。だから隣に座って「だいじょうぶだよぅ」と肩を抱いてやることもしない。むしろ戸を開けて突き落としてやりたいくらいだ。今夜の私は覚悟を決めている。マサトくんが好きな気持ちは変わらないから、いっそ心中してやろうって。――だけど、できない。マサトくんだって前途ある若者なのだ。足だけは、引っ張りたくない……。


 ゴンドラから降りると、マサトくんが「俺んちに行こう!」と弾んだ声で言った。この段になると私はかなり冷静になっていたので、特に抵抗感も覚えることなく、「いいよ」と笑った。そう。私は「いいよ」と笑ったのだ。



*****


 マサトくんは自宅に入ると――いきなりのことだった。トレンチコートを脱いで、カーディガンを脱いで、シャツまで脱いで、上半身裸になった。両手を突き上げ「やるぞーっ!」と大声を発した。私は目を白黒させた。ななな、なんだ? いったいなにをやるんだ?


 にしても……相変わらず、マサトくんの肉体は美しい。ごつごつした感が大いにあって逞しい。――不本意ながらもまた抱かれたいなと思ってしまった。


「マリ、ビールでいいよね?」


 キッチンからそんな声。「う、うん、いいよ!」と少々どもってしまった。どうしてだろう。緊張している。どんな状況でも別れを告げられるのかもしれないという感が拭えない。目にもじんわり涙が浮かぶ。


 ジーンズだけのマサトくんがキッチンから出てきた。両手にそれぞれ缶ビールを持っている。キリンの某ラベルだ。たかが学生のくせにマサトくんはきちんとしたビールを飲む。――私はそのへんのこだわりがわりと好きだったりする。


 深く露出した鼠径溝を見ると問答無用でドキドキする。背中を二つに分かつような窪んだ背筋を目にしたらもっとドキドキすることだろう。


「うーん、うーん……」と私はうめいた。「やっぱり好きだ!」と言うべきシチュエーションであるように思えたから。だけどそんなこと、言ってやらない。こいつは最近ほかの女と寝たかもしれない男なのだ。そんなの受け容れてやれるはずがない。私にだってプライドってものがある。


 私はビールをこくりと飲んだ。細かい泡が喉の奥ではじける。おいしいだなんて思ったことはないのだけれど、シュワシュワ感は結構好きだ。ピザとか食べたくなる。脂っこいものを欲するということだ。


 私はドキドキしている。

 ドキドキドキドキしている。


 なんてったってやっぱりマサトくんの上半身が丸見えだからだ。ああ、くそぅ、ちくしょう。どう考えたって私はマサトくんの筋肉質な身体が好きで好きで――あれ? となると、マサトくん以外の男でも筋肉質ならいいのかな? ……わからない。わからないから嫌になってしまう、私という個人、ニンゲンが。


 ビールを飲む、飲む。


 突然、マサトくんに、「マリ、立って」と言われた。勃たせるのはおまえだろうという下ネタが思いついたのだがそれは言うまい。マサトくんはソファに投げ出してあった黒いジャケットのサイドポケットに手を突っ込み、なにやら取り出した。私に向かって「マリは直立不動でいてね?」などと大仰な口を利く。こういうところがあるんだ、マサトくんって。


 私が立っていると、マサトくんは左膝をついた。そして――「マリ、結婚しよう」と言いつつ差し出してきた箱に入っていたのはどう見たって指輪だった。


「えっ、えーっ、」と私が驚くのは無理がない話だ。マサトくんは「結婚しよう」と繰り返す。私は最近泣いてばかりでいるように思う。今夜もまた涙があふれる。なんというかこう、いままでとは違った意味で。


「どうして今日なわけ?」

「だって今日、マリの誕生日じゃんか」


 そう言われて、はっとなった。確かにそうだ。マサトくんとごたごたしていたせいですっかり忘れていた。でも、そうか、マサトくんはきちんと覚えていてくれて、その上でいきなりプロポーズしてくれたということか。記念日として私の誕生日を選んでくれたということか。目元を両手でぐしぐし拭いながら私はえぐえぐ泣く。しかしだ、どうした、マサトくん。ともすればプレイボーイにも見えてしまうきみにそんなロマンティックな真似は似合わないはずだぞ。しかも上半身裸でなにを言っているんだ。


「全部、誤解だ。俺はやましいことなんて一つもしてないんだ。だからさマリ、わかってほしい」


 私はなおもえぐえぐと泣く。


「信じて……いいの?」

「俺、ほんとうにマリのことが――マリだけが好きなんだ」

「だったら、いい。私も、なんだかんだ言っても、マサトくんのこと、好きだし……」

「ほ、ほんとうに?」

「背筋と鼠径溝が好き。彫りがとっても深いから」

「そう言ってくれる女性は少なくなかったなぁ」

「うっわ。最悪、馬鹿、死んじゃえ!」


 マサトくんは立ち上がると、「うぉーっ!」と雄叫びをあげた。


「抱かせてくれよ、抱きたいよ、マリ。俺、スッゲ―がんばるから」

「あんたねぇ、フツウ、そういうこと言う?」

「うぉーっ!」

「待って待って。指輪、つけるから」


 左手の薬指にぴったりだった。


 マサトくんがすごい勢いで抱きついてきて、そのままベッドにまで引きずられた。逞しい身体、肉体。鼠径溝をなぞってから、深い背筋に両腕を回す。


「やだ、電気消して……」

「うぉーっ!」

「……馬鹿」


 私はやっぱりマサトくんのことが大好きだ。


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