さっさと死にたいのですが
前世死ぬ前はしがないOLをやっていた。小さな商社に勤めて、デスクワークの日々。特段変わった趣味もなければ特技もない。平凡を着飾ったただの成人女性はダンプの轟音とともにそのしなびた人生を終えた。別に悪人ではなかったけれど、善人でもなかった。天国か地獄かと問われても閻魔様も困るだろうなと思う。そうやって目を閉じて、開けて、魂が流れ着いたのは天国でも地獄でもなく、異世界だった。砂にまみれた王国、日除けの外套、石を積んだ家々、耳や尻尾の生えた獣人と白い肌をした人間。あれだろうか、流行りの異世界転生。ベッドに身を起こしてはたと首を傾ぐ。あいにくながら、アニメもゲームも漫画も小説も有名どころしか知見がない。こういうのはもっと、こういう世界を熟知した人間が派遣されるべきじゃなかろうか。
「ラフージャさまっ」
淡々とした思考の溝に切迫した声色が引っかかった。鮮やかな日の光のような色をした髪の少女が泣きそうな顔で私に近寄る。瞬時に腹の底がひやりと温度を失ったような気がした。灰色の記憶がカセットテープを巻き戻すみたいに思い出したくもない場面ひとつひとつを脳裏に刻んだ。
ーーまた、生き延びてしまった
そりゃあもう苦しんだのだ。なぜって私はこの砂ばかりの国を治める長の妻だったから。この国ではひどい干魃なんて毎年のことで、飢饉が流行るたびに王政は中央へと権力を集中させた。州官に領地を経営させると必ず悪辣な専売特許を奮って弱者からわずかな金品を奪い取る不埒な輩が出てくるのだ。そうした事態を防ぐために王とその息がかかったものの監視下に置くことで代わりに国庫は潤ったが、権力の集中はよからぬ思想を生み出すものだ。主権の頂点に座する君主を引きずり落とそうと考える馬鹿は腐るほどにいた。砂の国では「坐して待つ」という言葉はない。待つほどに砂風を受ける家屋は削られ、強烈な日差しのもとに作物は絶え、裸体は砂をかぶるからだ。王は常に妬み嫉みの鏃の先にさらされる。たとえそれがいかに不幸な立場であろうと。
私は王の妻だった。それは別段珍しいことではなく、歴代王の後宮には州官の家々から集められた選り抜きの美姫が100に迫るほどいたから、王の妻という称号は単に女貴族としての称号と代わりない。ただ違ったのは、「この代」に王の妻は私一人しかいなかった、ということだ。__簡単に言えば、いろいろとタイミングが悪かった。中央政権のせいでそれまで権威を持っていた家々から人質を取る必要がなくなってしまったし、当の王の世間ウケが絶望的に悪かった。というか、王が王であり続けるとは誰も思っていなかった。貴族位にある家系はことごとくハズレ王との縁談話を蹴り倒し、残る没落寸前の辺境伯の娘である私が人身御供がごとく輿に縛り付けられて後宮へと売り飛ばされたのだった。
私はその事実に割と怒っていた。よくある貴族の人間のように両親は血を分けた娘を政略の道具としか思っていなかったから、ある意味当然と言える処遇ではある。ただ、それが当然であると片付けられるほど老成した思考は持っていなかった。両親からは捨てられたのだ、まして捨て場がハズレ王の元とは。望まれず、認められず、朽ちることだけを誰からも期待されたお飾りの王。脈々と継がれた砂の国の王たちの末尾を穢した「奴隷」の王。
「______、」
「ラフージャさまっ」
返事をしない私に痺れを切らして声が飛んでくる。薄ぼんやりとした意識が呼びかけに応答するように声のした先を追うように滑った。私の左手には、冷えた指先を握りしめて涙を滲ませる侍女のイリヤが寝台脇で身を乗り出している。またか、と冷めた言葉が喉の奥で浮かび上がって、そのまま消える。代わりに萎えた頬の筋肉を無理やりに動かして笑ってみせた。
______結論から言うと、殺されかけた。
望まれない王の妃が大事にされるわけがない。人身御供としれ連れてこられたお飾りの王のお飾りの妃は、そのまま生贄として死ねと言われる。毒も罠も刺客も暴漢も、人智で考えうる限りの暴虐は既に受けた。ただそれでもしぶとく死に戻るような女だったから、私はいまだに生きている。大丈夫よ、と子飼いの従者には笑ってみせる。だって私は強いのだから。でも、毒に灼かれた舌先の痺れも、沙蛇に噛まれた首筋の痕も、刺客に切られた背中の傷も、なにもかも癒えていない。皆に死ねと言われている。本当の本当に息の根を止めるまで死ねと言われるだろう。そして王は、一度だって私を見舞ったりしない。私は誰からも見捨てられた、お飾りの王妃だ。
私は主人公でも、悪役でも、隠しキャラのどれでもない。不思議な力もなければ悪意を跳ね除けるような輝く魅力があるわけでもない。平凡なOLは平凡な人間に転生して、無関心の果てで生きている。ラフージャ・ラーンという人間は、死ねないから生きているだけなのだ。