一章 1
3月だというのに未だにトレンチコートにマフラー。春はまだまだ先のようだ。
そんな事を考えながら渡辺は今日も電車に揺られていた。
会社に行くのがこんなに億劫なのは、このぎゅうぎゅうに詰め込められた満員電車のせいではなかった。
東京に出てきて約5年。ほぼ毎日通勤で使っているこの満員電車は慣れたもの。
では何故会社に行くのが億劫なのか。それには理由があった。
神奈川県の大学を卒業した渡辺は東京の企業へと就職した。
就職の氷河期と呼ばれる中、世間一般に勝ち組と言われる大企業への就職。
今日まで順風満帆に過ごしてきて、いよいよこの若さで主任に昇格かと思われた矢先の事であった。
「渡辺さん。越戸商事様からお電話です」
メガネが似合う事務員から電話を取り次いだ。そして慎重に言葉を選びながら応対する。
それもそのはず。越戸商事といえば今渡辺が抱えている大事なプロジェクトの核を担う企業の一つであったのだ。
「もしもし。いつも大変お世話になっております。TLJの渡辺です」
「…もしもし」
嫌な予感がした。取引先の担当の声は明らかに不機嫌だったのである。
「渡辺さん。あんた偉いことやってくれたね…」
思わぬ一言。渡辺の顔から血の気が引いていく。
「先週戴いた資料と今週あんたが発注した品物の個数。全くの出鱈目じゃないか!一体何を確認しているんですかね?このままいくと我が社は少なくても数百万は軽く飛んでしまうのだよ」
何を言っているんだ?渡辺は頭の中で一旦整理する。
受話器を肩で挟み、手元の資料を見直す。
そこでやっと取引先の言っている事を理解した。
(俺の発注ミス?)
次の瞬間には頭の中が真っ白になった。
取引先からの苦情も途中から渡辺の耳に相手の声は聞こえていなかった。ただただ謝るだけ…。
4年かかってようやく任せてもらえた重大なプロジェクトのアシスタントチーフ。
まだ27歳の渡辺には若すぎるのではないかと不満の声もあったが、これまでの渡辺の仕事ぶりを見ていれば賛成する上司も多かった。
これほどの仕事を自分に任せてもらえた。渡辺自身も不安はあったが、実際はやってやる!という気持ちのほうが勝っていた。
現にこれまでも上司を差し置いて主にこのプロジェクトを進めてきたのは渡辺だった。
「もういい!児玉さん出して児玉さん!」
取引先は言いたい事を言うと渡辺の上司である児玉に電話を替わるよう言った。
「大変申し訳御座いませんでした!」
渡辺はゆっくりと保留を押し、プロジェクトのチーフでもある上司の児玉に電話を取り次いだ。
「もしもし御電話替わりました児玉です。……左様で御座いますか。この度はうちの渡辺が大変ご迷惑を… えぇ…」
奥の席で児玉が申し訳なさそうに話しているのを見て、渡辺は更に気を落とす。
今の渡辺に出来る事といえば、ただ茫然と児玉のやり取りを見ている事だった。
しばらくして児玉が受話器を置いた。ため息を吐き、天を仰ぐ。
「渡辺!ちょっといいか?」
そしてすぐさま渡辺を呼び、別室へと連れて行った。