第十雄洋丸事件
昭和四十九年十一月九日の昼下がり、東京湾内を航行中の大型タンカー「第十雄洋丸」に、貨物船「パシフィック・アレス」が、ほぼ正面衝突に近い形で衝突しました。
タンカーの積荷はプロパン、ブタン及びナフサなどの可燃物で、両船は瞬く間に炎に包まれると共に、海上に流出したナフサにも引火し文字通り火の海となりました。
海上保安庁は巡視船二隻を動員して消火を開始、更に近隣の消防庁や消防局に応援を依頼して消火作業を行いましたが、消火作業は困難を極め三時間後には「第十雄洋丸」の積荷に引火して大爆発を起こしました。
両船はこの間も南西方向に漂流し横須賀市に向けて進んでいました。
事故発生から六時間後に火勢が衰えた機会を捉えて、衝突した「パシフィック・アレス」を引き剥がしたものの、海上保安庁には大型タンカーを曳航できる船舶がなく、民間企業に依頼して横須賀市の対岸の千葉県富津に座礁させました。
座礁させている間に船内を捜索して遺体を回収しましたが、地元住民から抗議を受け、太平洋上まで曳航することになります。
ところが残っていた可燃物が爆発炎上した為、曳航を断念して曳索を切り離したので、黒潮に乗って炎上したまま漂流を始めました。
事がここに至って海上保安庁は「第十雄洋丸」の沈没処分を決め、防衛庁(当時)に災害派遣を要請します。
当時は自衛隊に対する国民感情が冷ややかな時期でしたので、自衛隊では慎重にも慎重を期して、護衛艦隊を派遣しました。
海上自衛隊の護衛艦「はるな」、「たかつき」、「もちづき」、「ゆきかぜ」、潜水艦「なるしお」、更に航空機としてP2VおよびP-2J十機の編制で出撃しました。
目標物の大型タンカーは船内に複数のタンクを持つ浮力の大きなタンカーで、船体外板や上甲板及び各タンクには八~二十ミリ厚の高張力鋼が使用され、船体は極めて堅牢である上に、LPGを爆発させるには空気との相当な混合が必要で、砲弾をタンク内で炸裂させても誘爆は期待できません。
そこで海上自衛隊作戦本部は二次被害を極力抑制する為に、目標物のタンカーを黒潮流域外水深千メートル以深の位置へ沈没させることとし、射撃による舷側破壊、爆撃による上甲板破壊、雷撃による水線下破壊を適切に組み合わせ、ナフサとLPGの燃焼を促進した上、船体浮力の喪失を図り、最小限の弾薬類をもって沈没させることとしました。
十一月二十七日の昼過ぎ、単縦陣を組んだ護衛艦隊はタンカーの背後から近付き、右舷に対して艦砲射撃を加えます。この艦砲射撃で右舷のタンクを破壊し、残留していたナフサに引火、炎上します。
護衛艦隊はタンカーを抜き去ると前方で反転し、次は前方から左舷に対して艦砲射撃を加えました。この艦砲射撃では左舷のタンクを破壊し、残留していたナフサとLPGに引火し、炎の高さは百メートルにも達したと言われています。
翌日は朝から航空機による爆撃が実施されました。
昼前、潜水艦「なるしお」による魚雷攻撃が開始され、二発を命中させましたがタンカーは沈みません。
日暮れ前に再び護衛艦による艦砲射撃が両舷に実施され、二十日も炎上していた「第十雄洋丸」は犬吠埼灯台の東南東約五百二十キロメートルの海域で波間に没しました。
海上自衛隊による災害派遣は人員や物資の輸送、或いは海難事故での救助などが主な任務ですが、こうした実弾を用いた事例は極めて異例と思います。
願わくば、民間船舶に実弾を使う事態が再発しないよう祈るばかりです。