自衛隊の伝説
自衛隊の実力などを拾い集めて紹介して来ましたが、今回は伝説に近い話を紹介します。
海外派遣された自衛隊の宿営地を視察した他国の軍人が、ビシッと揃ったテントを見て驚嘆。
「このような軍隊とは戦ってはならない」
イラクに派遣された自衛隊。地元住民と話し合った結果、給水車に『キャプテン翼』の絵を描いて大歓迎される。
その自衛隊の撤収が噂されると、地元住民が集結。
「自衛隊、帰らないで」とデモ行進が始まり自衛官はアイスキャンディを配って対応。
まさに「自衛隊のいるところは非戦闘地域」を実証する。
後日、アメリカ軍から「先日のあれ、どうやったんだ? 幾ら使った?」と問われるも、自衛隊には「住民の自発的行動です」以外の答えはなかった。
インドネシアへ派遣された自衛隊。
地元住民の対応が他国の部隊より丁寧なので理由を尋ねる。
「お前たちは他の軍隊とは違う。他の軍隊はゴミを散らかして行くが、お前たちはそのゴミまで片付けてくれる。
それに何より、お前たちの先祖が前に来た時には良くして貰ったからな」
長老の言葉に、自衛官は背筋が伸びる思いをした。
サマワに派遣されていた部隊長、佐藤正久一等陸佐の話。
到着早々、現地の部族長と会談して、風習を教わり、髭を伸ばす。後年、「髭の隊長」と呼ばれる端緒。
その髭の隊長が指揮して道路整備を行い、地元住民の要望に応えて、橋の建設に助力した。
「橋が完成しました」と報告があり視察に向かうと歓迎式典が開かれ、橋は「SATO BRIDGE」と命名される。
とある駐屯地から災害派遣される事になった部隊の話。
災害救助の活動に必要な資材や装備は当然隊として準備し、出発前に徹底的に点検する。
隊員の持つ背負い袋なんかも全部それらを開けさせて部隊長が確認する。決められた装備をちゃんと持っているか、軽くしようと携行品を抜いたりしてないか、また、隊員達はよく指定装備を詰めた空きスペースに、タバコとか菓子とか音楽プレーヤーみたいな物、小説など、休憩時にちょっと嗜むものなんかを入れているが、不適切なものは持参してないか、など徹底的に調べる。
隊員の袋を開けさせたら、赤ちゃん用の缶ミルクがごろごろ出て来た。自衛隊も公務員で、特に色々と制約がありもちろん災害派遣においても、例え救援になる物資でも任務と別に個人の判断で運んだりするのは禁じられている。
「なんだこれは!」
「はい、ミルクです!」
「なんでこんな物を持っている! これは貴様が飲むのか! 飲むんだな?」
「はい! 自分が飲むためです!」
「ならばしょうがないな」
というやり取りの後、点検は続けられたが、その隊員だけでなく、他の隊員達も様々にミルクや離乳食なんかを自費で詰め込んでいた。そしてこの件は将官にも報告が有ったが、誰もそれを下ろせとは言わなかったそうだ。
このミルクの携行は、以前の災害派遣で赤ん坊のミルクがなくて困っていた話を自衛官が共有していたからこそ、起こった事態
。
被災した原発の冷却に、上空から水を掛ける作戦が立案される。
命令できないと判断した部隊長が隊員たちに作戦内容を伝え、志願者のみで行うと募ったところ、「自分が行きます!」と我先に全員が答えて選抜に苦労する。
福島で幼い子供を探す若い母親。
自衛隊は身体的特徴や、被災当時の服装を聞き取り、捜索を継続。
被災してより一ヶ月後、特徴の似た遺体を回収した自衛隊は、その母親に確認を取る。
「我が子に間違いありません」として引き取りに訪れた母親は、我が子の遺体を抱え上げた。
「良かったねぇ、自衛隊のお兄さんたちに見つけて貰って、良かったねぇ。
次に生まれて来る時は、助ける側に入れて貰おうね」
と語りかける。
傍らで聞いていた自衛官は全員が号泣。
母親は感謝の言葉を述べて帰って行った。
東日本大震災で被災した宮城県石巻市などで活動中の陸上自衛隊第14旅団(香川県善通寺市)の隊員が、津波で児童の約7割が死亡・行方不明となった石巻市立大川小の児童とみられる女児から捜索活動に感謝する手紙を受け取った。コピーが他の隊員にも配られ、心の支えになっている。
手紙は動物のイラストが描かれた1枚の便箋に「つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちがみんなしんでしまいました。じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります」とつづられていた。「日本をたすけてください。いつもおうえんしています。じえいたいさんありがとう」とも。
広報を担当する伊丹秀喜2等陸尉(47)は「手紙に大きな力をもらった。気持ちに応えられるよう、一日も早い復興に力添えしていきたい」と話している。
旅団では手紙をコピーし、多くの隊員が財布などに入れて持ち歩いている。




