律令の軍制
我が国の軍制を紹介するのは歴史の順を追いたいと思います。
上古、神武天皇が即位される前後から、軍事は大伴と久米の両氏が担っていました。
それに物部氏が加わり、外征は物部氏、
宮門警護や近衛兵としては大伴と久米の両氏と、職分が分かれます。
大連と呼ばれた物部、大伴の両氏は来目部、靭負部、太刀佩部などを率いていました。
このような豪族がそれぞれの部曲を率いて軍事力を保有している様相は、後世の武士団が一族郎党を率いていた状況とは似て非なるものです。
こうした寄せ集めにも似た集団に変革を促したのが推古天皇の時代で、更に白村江の惨敗が決定打となります。
古い因習から脱却して、新しい国家体制を整える手本としたのが、隋や唐です。
大化改新で定められた軍制は「府兵制」と呼ばれる体制を模倣した代物です。
衛府と軍団を整え、更に防人司と鎮守府を設置して、兵士は徴兵制で庶民から集めました。
徴兵されると始めは各国、郡などの地方の軍団に所属して、交替勤務で非番の時は農事に従事する屯田兵のような扱いを受けます。
それから都に上って、衛府に所属して衛士を勤める者もいました。
更に三年間、防人の任に就き、ようやく故郷に帰るのですが、食事や武具は兵士が自前で用意するので、帰郷できずにいた者もいたようです。
さてこの律令制の軍団は、国司の下に編制され千人規模の部隊が三~四個あったようです。
この千人を、五十人ずつの二十隊に分けます。
更に五十人を十人ずつに分けて一火と呼び、五人一組を伍と称しました。
五十人の一隊につき、二人の屈強の者を選んで弩手とします。この弩とは別に抛石という機械仕掛けのカタパルト兵器を二~三基備えていました。
指揮系統は、五十人一隊に「隊正」を置き、百人で「旅帥」、二百人に「少毅」、六百人以上で「大毅」を任命しました。
千人の軍団には大毅一人と少毅二人とありますので、少毅は六百人未満までを監督できたと見るのが妥当でしょう。
平常時はこのような体制ですが、合戦に向かう時には編制が変わります。
大将軍が任命されると、一万人以上の軍団では将軍一人、副将軍二人、軍監二人、軍曹四人、録事四人の体制で編成されます。
五千人以上では、将軍一人、副将軍一人、軍監一人、軍曹四人、録事二人に減らされ、三千人以上では、将軍一人、副将軍一人、軍監一人、軍曹二人、録事二人に減らされます。
大将軍は三個軍団を率います。
この地方軍団から選抜された兵が上京して左右衛士府、衛門府に配属されます。
宮廷警護にはこの他、左右兵衛府があり、こちらは貴族の子弟が任命されていたようです。
後世にはこうした徴兵制は廃止されて、支配層から子弟を募る健児や舎人へと移行していきます。