軍事用語
軍事用語と言いますと、物騒な単語と思われるかもしれませんが、軍需品が民生品になったように、軍事関連の語句が一般的に用いられている例も少なくありません。
故事成語などは顕著で「天高く馬肥ゆる秋」という言い回しは、『漢書』の「匈奴秋に至る、馬肥え弓勁し」に由来します。
意味は「北方の騎馬民族である匈奴が秋になると襲来する。馬は肥えて逞しく弓矢は強いから気をつけろ」ぐらいでしょう。
この匈奴を追い払うのが中華王朝の軍隊の役目で、手柄の取り合いから「先鞭をつけ」られないかと警戒するような手紙もあります。
中国の春秋戦国時代は百家争鳴の時代でもありましたが、様々な故事成語が生まれた時代でもあります。
「臥薪嘗胆」は南方の呉越の争いから生まれた言葉で、先に越に敗れた呉の国王が薪の上で寝て悔しさを忘れずに国力を回復し、越の国を攻めて勝ち、属国にしました。
今度は属国となった越の国王が苦い胆を舐めて悔しさを思い出し、遂には呉を滅ぼした故事から来ています。
それほど相争った呉越も長江を渡る舟の上では協力したことから「呉越同舟」とも言われます。
悔しさをバネにしたのは徳川家康も有名ですね。
戦国時代の終盤、秦の執った政策が「遠交近攻」でした。これは「合従連衡」から抜け出す政策で、「風馬牛」とも言える遠い国と友好関係を結び、近隣諸国を併呑する政策です。
こうして天下統一を果たしたのが始皇帝です。
ですが秦の統一事業は急進的で人心を得ていなかった為に反乱が各地で発生します。
まさに燎原の火の如く広がった反攻は秦の体力を奪い、遂には項羽によって秦は滅ぼされてしまいました。
この時、項羽に先んじて長安に入った劉邦は「法三章」を立てて人心を掴んでいたと言われています。
項羽は「故郷に錦を飾る」として凱旋しますが、「沐猴にして冠す」と酷評されています。
さて、劉邦の配下には「国士無双」と呼ばれた韓信がいました。「韓信の股くぐり」で有名な人物ですが、軍隊を率いさせれば優秀でその手腕は「多々益々弁ず」と言うほどです。
その韓信によって項羽は追い詰められ、籠城した時には「四面楚歌」で圧倒的不利を悟りました。
この時、項羽が詠ったのが『垓下の歌』で、その冒頭部分「力拔山兮氣蓋世」が「抜山蓋世」として故事成語になっています。
「墨守」とは、戦国時代の墨家が守城戦で無類の強さを見せたことから言われるようになります。
楚の国が隣国の宋を攻めると聞いた墨子は楚の国王に謁見して、この戦が無道であると諌めます。
楚王は新兵器「雲梯」を試したい魯班の我が儘だとして責任転嫁しましたので、墨子と魯班で図上演習を行い、魯班の攻城軍を撃退して見せると、楚王は戦争を諦めました。
その他、「血祭り」というのも中国由来のようです。
戦神に生贄を捧げて戦勝祈願するのが血祭りの由来ですが、次のような話があります。
戦端が開かれる前に使者が派遣されて開戦を思い留まらせるのが古代では行われているのですが、交渉が決裂すると使者は見せしめに血祭りに上げられてしまいます。
ところがある使者は弁舌に長け、「そのような神秘の力があるなら、お前たちの太鼓が鳴らないようにしてやろう」と言い出します。
「もし太鼓が鳴るようなら、私には何の力もないから、お前たちは戦で負けるだろう。それでも良いなら殺せ」と迫ると、相手は諦めて兵を返しました。
このように弁舌で合戦を回避した例は多く、中には「蛇足」や「漁夫の利」のような話も伝わっております。
今回、紹介できなかった語句は別稿にて。




