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立皇嗣礼

 現行憲法では初めての儀式ですが、明治以前であれば「立太子礼」となります。

 日嗣皇子(ひつぎのみこ)を定めておくことで、皇位継承を滞りなく行う目的で発生しているのですが、皇位と権力が密接関係にあった平安時代は皇太子を差し置いて別の皇子が即位したりという事もありました。

 その中でも鮮烈なのが、宇多天皇こと定省(さだみ)王の事績です。

 宇多天皇の父は光孝天皇で、その即位の経緯が陽成天皇の不祥事による譲位で、光孝天皇は次の天皇を陽成天皇の弟宮貞保(さだやす)親王にと考えて、即位と同時に自身の子ら二十六人を全て臣籍降下させてしまいました。

 第十五皇子であった定省王も例外なく臣籍降下し、源定省として陽成院の侍従も務めたようです。

 光孝天皇が即位して三年、皇太子も立てないままに天皇は病を得て重篤化します。

 関白の藤原基経は自身と不仲の貞保親王を避けて、定省王を皇籍に復帰させて親王宣下を行い、翌日には立太子し、その日の内に天皇は崩御しました。

 この電光石火の早業で、宇多天皇として即位します。臣籍にあった者が、ほんの二日間で皇位に践祚するという離れ業でした。

 宇多天皇の即位後、同母兄弟は皇籍に復帰が許されています。これは官職には皇族が就けない原則から、官職に空席を作ることを目的とした措置と思われます。

 後年に、臣籍降下して政治改革に取り組んでいた方が、理由不明のまま皇籍復帰させられて政治の場から遠ざけられた事例もあるぐらいです。

 現代の我が国でも、皇籍復帰で政治の場から遠ざけられそうな御方が散見されますね。

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― 新着の感想 ―
[一言] ふむ。 いつの世も権力闘争というか派閥争いというかは尽きないものですね。
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