パパラ、悪霊から天使に昇格したようです!
チョーシークは多忙だ。
彼は人の長である。人の長とは、人の面倒を見ることが仕事である。
彼はよく人を見て、話を聞いている。パパラによってより砂漠の民達の定時帰りは厳守されることになったが、それより以前もチョーシークは臣下達の体調の変化に本人以上によく気がつき、何かあればすぐ休ませていた。
その一方で本人が誰よりも働き動き回るので、部下達もなんだか申し訳なくなり付き従っているうちに集団オーバーワークに……というのがパパラが来る前までの生活であったようだ。
彼女が狙撃するようになってからは、シークは動じず書類チェックなど自分だけでできる仕事を続けていることもあるが、休憩を取ることも増えた。
本人が狙えないならばと、精密狙撃が手元の文具や書類だけパンパンパンパン撃ち落としてくるため、結局休まざるを得ない事も多々あったのだ。
「そんなところに技術の粋を使うな!」
と拳を振り上げるも、狙撃手がどこにいるかわからねばこちらも対処しようがない。
真面目な時のパパラは強敵だった。
「一日に三時間しか寝ていないあなたの方がおかしいのです。我が王のなすことにあまり否やを唱えたくはございませんが、これだけは改善していただかなければなりますまい!」
と、砂漠の悪霊(仮)は熱い決意を語る。
そういうお前はいつ寝ているんだよ、と言う顔になったシークに、
「これでも真夜中から翌朝までの六時間は緊急事態がない限り休み時間に充てておりますのよ? そのほか臨機応変に。我が王がたくさん寝て下されば、わたくしもその分ほっとできる時間が増えます」
等と自己申告した通りならば、たぶんその六時間でなんとかしているのだろう。
実際、確かに夜中の一定時刻から朝までは、女は姿を現さない。
最近になるとむしろ半日見えない方が、
「どうしたのだろうか。風邪でも引いたのだろうか」
なんてふと思ってしまうことがあるから、全くこしゃくな女よと感心すればいいのか、己の情の安売りを嘆けばいいのか、悩むシークは目元を押さえる。
ちなみにその日は日が傾いてから、
「今日は皆で砂漠の魔物を狩って参りましたの! 陛下はジビエはご存知? 案外珍味でおいしいらしいのですわ! 捌き方も習ってきましたのでバッチリでしてよ!」
なんてウッキウキで戦利品(推定イノシシの魔物)を背負ってきたので、不審者の安否は無事確認されることとなった。
呆れるよりも前にどこかほっとしてしまった自分に、度しがたい、とシークは更に大きくため息を落とす。
「しかしそなた、一体どこで寝ているのだ? というかどこから毎度毎度来ているのだ」
よっぽど力が抜けたのだろう、なんだか流れでついそんな言葉までかけてしまった。
パパラは目を丸くした後、
「女には秘密が多いんですの!」
なんてヴェールの下の唇があるらしい場所に指を当てウインクしてみせた。
やっぱり心配なんかするんじゃなかったと苦虫を噛みつぶしているシークの前で、けれど彼女はもじもじと身体を動かす。
「その……いえその、まさかとは思いますが……万が一、寝床の待遇などについてお考えのようでしたら、わたくしは大丈夫ですので……いえその、もちろん整っている方がありがたいですけれど、岩場でも休息は取れますので……」
少々恥ずかしそうに言う。
そういうことを時々するからこっちの調子も狂うのだと思うシークは、自分の口元が緩んでいたことまでは気がつかない。
そしてこっそり、臣下の一人に「それとなく寝場所の世話をしてやれ。ただし私の寝所から充分距離の取れた場所で」と耳打ちしてしまうのだった。
「近頃王はお変わりになられました」
ある夜のこと、談笑中の側近がそんなことを言い、ぎょっとシークは瞠目する。
古参の臣下と久しぶりに酒を交わしていた最中の出来事だった。
飲みかけでなくてよかった、口の中に物があったら吹き出していたかもしれない。
「顔色が良くなって参りましたな。たくさん眠れているおかげでしょう」
思わず息を止めていた若き王は、続けられた言葉に、「ああなんだそちらか……」とこっそり安堵で胸をなで下ろしている。
「まあ、寝るしかないからな。しかし確かに、その分以前よりも研ぎ澄まされた感覚がある」
「ようございまする。これもジブリール様のおかげでしょうな」
「……至高天使?」
神からの使い、天の声を届ける良き精霊とされている最も位の高い天使の名に、聞き慣れないなと王は訝しげに眉を顰めた。
「ほれ、神出鬼没の例の女人のことで」
と言われれば、思い当たるのは一人である。
「いつもぱっと天から現れては消えていくもので、召使い達が言い始めましてな。我々の間ではもうその名で通るようになっておりまするぞ、我が王」
元は悪霊呼ばわりだったのにえらく出世したな……と喜べばいいのか悲しめばいいのか微妙な気持ちになっているうちに、ふと好々爺が真面目な顔になっていることに気がつく。
「我が王。あの方をお妃様にお迎えなさるご予定は?」
「正気か、爺」
「至って通常通りですとも。あれほどたくましければ、暗殺の心配はまずございますまい。お身体の状態は不明ですが、若く健康そうです。御子を授かるのも容易いかと」
「知っているか、爺。子を産むには父親が必要だ」
「まあそうなりますな」
「たくましすぎて私がその気にならないという問題が懸念されていない」
「と仰るほど、無関心というわけではございますまい? アバヤで覆われておりますから定かではございませんが、あれはおそらく黙っていれば砂漠一の美女ですぞ。そうでもなくともやりようはありまする」
「黙っていないから問題なんじゃないか」
「ではそのようにご命令なさればよろしい。かの方は従うでしょう。それにもとより、王はさほどあの方とのお喋りを嫌がっておりますまい。面白がっているでしょう、あの破天荒ぶりが一周回って」
「それは……そうなのかもしれないが。仮に事実として、では結婚しよう、とはなるまいよ」
「美女に好意を向けられてその気にならぬのは男ではござりませぬ」
相手の全く冗談を言っているようにはない様子に、王は困惑気味に眉を垂れさせた。
「血が途絶えることを案じているのか?」
「それも一つ。そしてもう一つには……そろそろ王も――若君も。家族を得てもよろしいのではないか、と」
すると途端に王の口元が歪んだ。自嘲の表情を作り、手元の杯に目を落とした彼に、臣下は悲しげな眼差しを向ける。
「……いや。ならばやはり、なおさら結婚など考えられんよ。血の事を思えばそれこそ今すぐ手当たり次第、と行かねばなるまいが……いや、駄目だな。母上は父なし子を守り育てるのに大層苦労され、私が十三の年に最後まで私の行く末を案じ続けながら逝ってしまった」
「若君……」
「父も兄達も、そなたの知っている通りだ。前回は三年前。その前は十七年前。その更に前は四十年前だが……明らかに年々短くなっている。もちろん日々準備を怠ってはいないし、私の番になったならもっと時間を持たせるつもりだ。けれど、飛び込む日は明日になるのやもしれぬ。それがわかっていて未亡人にするのは、男として無責任とは言わぬのか?」
「ですが……」
「この話はもう終わりだ。ちょうど明日は月に一度の見回りの日。今日はもうお互い休もう。せっかくジブリール殿が与えたもうた健康を無碍にすることもあるまい」
若い青年にしては、あまりにも老成した微笑み。
臣下はそれ以上かける言葉を見つけられず、深く頭を下げ退出したのだった。