はじまりの日
いつか見た冒険者の背中を覚えている。
誰もが恐れる強大な敵に、果敢に立ち向かっていく男の後姿を。
あの光景が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
あれはそう、僕が10歳になったばかりの頃、住んでいた村が一体の巨大な震魔に襲われ、一夜にして壊滅した。
辺境の名もなき村である。
まともな戦力は自警団のみ、それすらも震魔の圧倒的な力の前に一瞬で薙ぎ払われた。
助けを呼ぼうにも、冒険者が到着するより早く、小さな村は容赦なく蹂躙されていく。
なすすべもなく、それが自然の摂理と言わんばかりに。ただ、ひたすらに殺戮をまき散らす一匹の獣が、働き者の父を、優しかった母を、まだ幼かった妹を……僕の世界のことごとくを奪い去り、故郷を血と炎で真っ赤に染め上げる。
そして、ただ茫然と声もなく――いや、もしかしたら苦悶の叫び声をあげていたのかもしれないが――佇んでいた僕の前に、遂に殺戮者が舞い降りた。
狼のようなフォルムの、醜悪とは程遠い美しい外見。銀色の毛皮に覆われた巨躯は、しなやかな動作で獲物に襲い掛かる。
――筈だった。
ガシイッと重い金属音が響いたかと思うと、ファサッと目の前に漆黒のマントが翻る。
一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、よく見ると一人の壮年の男が巨大な得物を手に、震魔の鋭利な爪を受け止めていた。
一瞬の拮抗の後、震魔が大きく飛び退る。
ただ虐殺を楽しんでいた獣の目から、強敵を前にした猛者のそれへと気配を変えて。
「坊主一人か? ……ッ、ちっとばかし遅かったか」
圧倒的な敵の殺気を浴びながら、それでも男は落ち着いた声で語りかける。
「少し待ってろ……今、片付ける」
言うや否や、マントを翻し目の前の敵に切りかかっていく。
強い。
震魔のパワーもスピードも圧倒的だった。だが、それすらも軽く受け流しながら、容赦のない反撃を加えている。
見慣れぬ片刃の曲刀の切れ味もさることながら、男の剣捌きはどこか舞のような優雅さを携え、僕の心を惹きつけていた。
そこで起きた悲劇すら掻き消すほどに。
男の剣が前足を裂き、牙を砕き、横っ腹に大きな切り傷を付けても、震魔は怯むことも逃げることもない。もとより生存本能などなく、破壊衝動にのみよって衝き動かされている災厄の獣は、その命が尽きるまで破壊と殺戮を止めようとはしない。
傷口から漆黒の血をまき散らしながら、渾身の力で爪を振るう。
「悪くなかったぜ……が、終ぇだ」
両者が交錯した瞬間、男の剣が一閃する。
そのまま流れるような動作で、鞘に納めると同時に。
ドサッ。
あれほど強大だった震魔の首が、あっさりと地面に落下していた。
そして、ゆっくりと胴体も崩れ落ちていく。
すべてが終わったのを見届けてから、僕はようやく理解していた。助かったのだ、と。
「おいおい、坊主、大丈夫か?」
緊張の糸が切れたのか、その場に崩れ落ちる僕を見て、男が駆け寄ってくる。
そうして、僕に怪我がないのを確認して、少しだけホッとした表情を浮かべていた。
そんな彼の顔を見て、僕は冒険者になることを決意したのかもしれない。
僕は泣いた。ここで起こったことも、これからのことも、すべてを洗い流すように大泣きした。
「お、おい……」
そんな僕を見て、男は少しだけ戸惑っていたが、何も言わずに抱き寄せると、僕が泣き疲れて眠ってしまうまでそのままでいてくれたらしい。
翌朝、僕達は家族と亡くなった村の人達を埋葬し、簡易的な葬式を執り行った。
ほとんどは男がやってくれたが、家族の分は自分で必死に穴を掘った。豆ができ、それが破れて血がにじんでも、弱音は上げなかったし、男も決して止めようとはしなかった。
震魔に丸呑みされた妹の墓穴も。両親の墓穴の間に作った妹の墓には、彼女の大事にしていた人形を代わりに埋葬することにした。ボロっちい人形だったが、それを僕が壊して妹に大泣きされ、父親に拳骨を食らい、母親が綺麗に直していたのを思い出し、また少しだけ涙が零れてしまった。
もう、この人形のように、壊れたものを元に戻すことはできない。
だからこそ、命はかけがえのないものなのだろう。
最後に、男が作業している間に僕が近くの野原で摘んできた花を供えて、一日がかりの葬式は幕を閉じた。
夕日に照らされた100足らずの墓標が、ここで起こった悲劇を語り継ぐだろう。
それから、僕は男に連れられ、人里離れた森の奥に住んでいる男の知り合いの女性に引き取られることになった。
魔女という前情報に最初は怯えていた僕だったが、実際に会ってみると若くて美しい女性にびっくりし、さらに男より遥かに年上だと聞いて二度びっくりし、暴露した男共々鉄拳制裁を食らうことになる。
それから15歳まで魔女の家で下働きし、近くの町へお遣いに出ながら溜めたお金で冒険者として独り立ちすることになった僕は、世話になった魔女に別れを告げ、彼女の紹介で冒険者ギルドに新米冒険者として登録された。
ここから、僕の冒険者としての新たな人生が始まる。
その、筈だった。
あの事件が起きるまでは……。