負け歩 (将棋千一夜 第十五夜)
これまで「将棋千一夜 第十五夜 負け歩」としていたが、
「負け歩(将棋千一夜 第十五夜)」に変更した。(2019.8.25)
あんたにこないして手紙を書くていうのは、考えてみたら初めてのことやないかと思います。こんな手紙書いて、別にどこに出すていうこともあれへんけど、一人で店の中におったら、何や苦しゅうなって、ついペンをとってしまいました。白い便箋前にして、しばらくボーッとしながら、さて、何をどんな風に書こかと迷てたんやけど、やっぱりあんたの思い出話しか浮かんできません。思いつくまま書いてみることにします。下手くそな字ぃやけど堪忍して頂戴ね。
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あんたがこの店にふらっと顔を出しはったんは、三年前の二月でした。えぇ、忘れもしません、朝から底冷えのする日ぃで、お昼頃から白いもんがチラチラしはじめてました。店を出す五時くらいになると風も出てきて、店先に吊り下げた暖簾がハタハタいわせながら小さい白い玉弾いてたんを覚えてます。店を開けてから一時間くらい経った頃やろか、あんたはガラッと戸を開けると、鳶の格好そのまんまに、大きいバッグ手ぇに提げて、ちょっとよろけながら入ってきはったんです。それからゆっくりカウンターに腰を下ろして、熱燗一本頼みはりました。店の中を確かめるみたいにぐるーっと見回して、あとは何にも喋らんと、お酒チビチビやりながら、その手ぇで時々足下に置いてるバッグ一生懸命さわってはりました。何してはんのやろ、と思てたら、しまいに大きいバッグ膝の上に乗せて、端からはみ出てる板みたいなもん何とか中に押し込めようとしてはるんがカウンター越しに見えたんです。よう見たら、それ折りたたみの将棋盤でした。
他に誰もお客さんいてへんかったし、将棋盤ていう珍しいもん見かけたさかい、私「お客さん、将棋しはるんですか?」て訊いたんです。あんたは私の顔も見んと、「これかいな」言うて、結局入りきれへんかった将棋盤ゆっくり抜き出してきて、カウンターに広げたまんま、しばらくの間ジィーと見つめてはりました。それから大分間置いてから、チラッと私の方を上目遣いに見て、独りごと言うみたいに「俺はな、もう将棋はせぇへんね。せぇへんね………」そう言いもって、人差し指でゆっくり盤の桝目なぞってはりました。そのなぞり方、見てると何やこっちまで悲しゅうなるような、そんななぞり方でした。
その日はほんまにお客さんの来ぇへん日ぃで、あんたが帰った後も、常連さんが三人ほど顔を出しただけで、店も早いこと看板にしたんです。最後、暖簾はずす時、狭い路地裏に勢いつけて舞うてる雪見ながら、何でか知らんけど私、あんたのこと思い出してました。
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あんたが将棋に取り憑かれて、従業員二十人もおった鉄工所放ったらかしにして何日も家へ帰れへんかったこと。そのうち大きな借金こしらえて倒産したこと。それからは奥さんにも見放されて一人でその日暮らしの生活をしてること。「将棋はもうせぇへん」と誓うたけれど、どうしても盤と駒だけは捨てられんと持ち歩いていること。そんなことをそれ以来何度か通てくれているうちに聞きました。
こんな商売何年もやってたら色んな話聞きます。ここに来る人の話にいちいち涙しとったらなんぼ涙があっても足りません。まして、お客さんと深い仲になるやなんて、今まで考えたことありませんでした。そやけど、いつやったやろか、遅ぅに店で二人きりになった時、あんたが折りたたみの盤の上に駒あけて、何とも言えん淋しそうな目ぇで駒を見つめながら、それでも指先で綺麗に駒をつまみ上げて、人差し指と中指でいとおしむように盤に置きはった時、あんたはその駒からすぐに手ぇを離さんと、駒が「もうえぇよ」と言うのを確かめてから、ゆっくり手ぇを離しはったんです。私にはそんな風に見えました。それ見て、私、何やハッとして、からだの中に何か熱いもんが走ったんです。
私も過去のある身ぃです。四十を越えてしもうた今、昔を振り返るのも恥ずかしいけど、家族捨てて、そいでついて行った男にすぐ死なれて……。「ああ、ほんまにバチが当たったんやわ」て自分に言い聞かせて、あとは女一人馬鹿にされんとこうという思いで必死に生きてきたつもりやった。そやけど、心のどっかで優しいもんに憧れてたんです。あんたのその指で大事にされている駒みたいに、私も優しゅうされてみたい。あの時、そんな思いがいっぺんに溢れ出たんやと思います。
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丁度私の誕生日の夜のことでした。あんたは小さなケーキ買うてきて、私の歳の数だけろうそく並べて、「さ、願い事しぃや」て言ぅてくれました。私は今までそんなことしてもぅたことなかったし、急に言われたんで何を願ごぅたらえぇのかわからんようになったけど、やっと「私は今幸せや。この幸せがいつまでも続きますように」みたいなことを願ごぅて目ぇ開けたら、ケーキが蝋だらけになってて……。笑いながら二人でちょっとずつ蝋を取り除きながら、ああ、これがほんまの幸せていうもんかも知れへんなぁって感じてました。
その晩、あんたは私を抱いた後、私の手ぇ握りながら天井向いて言うてました。覚えてはりますやろか?
「素人将棋に『負け歩』いうのがあってな。将棋するやろ、もういっぺんやろ思て駒並べるんや。ほんなら歩が一枚足らんことがたまにあるねん。お互い自分の周り探すんやけど、たいがい負けた方に歩が隠れとんね。これ、『負け歩』言うんや。さっきの将棋、この歩があったら、もしかしたら勝ってたかも知れへん。そう思もたりするねん。……俺、考えてみたら今まで生きとって、人生なんぼこれで負けたかわかからへん。目の前のことばっかりに気とられて、自分の手の中からこぼれ落ちた駒、全然見とらんかったんやなぁ」
私、将棋ていうもんよう知らんかったし、あんたの言うてる意味、その時よう理解でけへんかったんです。私はただあんたの指、強う握りながら、薄暗がりのせいか、ちょっと削げかけたあんたの頬ぼんやり眺めてました……。
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二人一緒に暮らせへんかったんは、今まで引きずってきた過去の変なこだわり、お互いよう捨て切れんかったんでしょうね。
あんたが建築現場の二階から転がり落ちて、さよならを言う暇もないくらいあっけのう死んでしもた時、あんたの身体にしがみつきながら、それこそ血ぃの出るほど唇噛んだけど、それはそれで良かったと思てます。それより、あんたが金木犀の香りの中で斎場の煙となって消えてしもうた時、ああこの人、人生の最後の最後まで、どっかにある「歩」に気ぃつかんと逝ってしまいはったんと違うやろかて、そんなことばっかり考えてました。
あんたが亡くなってからすぐ、私妊娠してることが分かったんです。あんたの子ぉです。前の奥さん、子供がでけへんかったんで、あんたいつも「子供欲しかったなぁ」言うてましたやろ。私、もう若ないけど、何とかあんたの子供産みたいと思てます。
ひょっとしたら、人生の一番最後にあんたが気ぃつけへんかった「歩」ていうのは、このお腹の子供のことかも知れへん。最近何とのぅ、そう思うようになりました。
私、この「歩」、絶対「負け歩」にせぇへん。不器用やさかい、駒を持つ手ぇはあんたみたいに上手やないけど、昔あんたが指先で綺麗に駒をつまみ上げて、いとおしゅうなるくらい、丁寧に盤に置きはったんを思い出して、大事に大事に育てていきたと思てます。そう、私、やっぱり子どものことをどうしてもあんたに言ぅておきたかったんです。
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さっきから雪が降り出したみたいです。店の中もだいぶ冷え込んできました。この分やと一晩中降り続けるかも知れません。
私、明日起きたら、店の前にも向かいの屋根にも、真っ白い雪がぎょうさん積もってたらえぇのになぁって、今、小さい子供みたいなこと考えてます。
(了)
もう、三十年以上前、ラジオの30分ドラマの朗読で使用するための原稿が何か書けないものかと、この作品を創った。
その時代、私はある会社の将棋部に所属しており、その機関誌に「将棋千一夜」として、連載を行っていたが、これはその一つでもあった。
もちろん、創っただけで、放送はされていないが、知人の伝手で、ある劇団の人に朗読してもらったのが記念となっている。今回、少し手を加えて投稿させていただく。