第1話 木漏れ日の只中にて
プロローグとほぼ同時投稿になります。
プロローグを読んでいない方はそちらからどうぞ。
2017/10/21…一部の文字数を削って、読みやすくなるよう改稿しました。ストーリーに関する変更はありませんので、ご理解とご了承をお願いします。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
荒い息を吐き出す。酸素を求めて、喘ぐ。
おぼつかない足どりのまま、ふらふらと歩きながら、「俺」は、森の中を進んでいた。
薄闇に包まれた森林。遠くから響き渡ってくる遠吠え。今の俺には、そのすべてが俺を飲み込まんとする、凶悪な何かに思えてならなかった。
むせ返りそうなほどに濃密な殺気に中てられながら、俺は歩き続ける。もはや走ることもかなわなくなったぼろぼろの脚を動かしながら、ただ前だけを目指す。
再び響き渡る遠吠えを聞きながら、俺はふと、こんなことになったきっかけを思い出していた。
ほんの少し前。俺の身に降りかかった、唐突で不思議な出来事を――。
***
「……ん…………」
小さくうめき声をもらしながら、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。ほどなくして視界を埋め尽くしたのは、眩く輝く緑と白のコントラストだった。
――おや、自分は寝ぼけているのだろうか? という疑問が生まれるが、眠っていたにしては、自分が寝そべっていた布団の感触が存在しない。それどころか、背中から伝わってくる感触は、チクチクと刺さるようなものと、ごつごつとした硬いもの、そしてひんやりと冷たい物ばかりだった。
「……?」
疑問を浮かべていると、徐々に視界に映る景色が鮮明になっていく。
そこにあったのは、緑――風に揺れるたくさんの木の葉と、白――「木漏れ日」と呼ばれる、木の葉の間から降り注ぐ光が生み出す、まるで星空と見まがうような風景が、一面に広がっていた。
どうやら、俺は現在、どこかの森の中で大の字になって寝転んでいるらしい。目の前の光景と、背中から伝わる感触をそれぞれ、とがった草、土と小石に当てはめて考えれば、現在地にはすぐ合点が行った。
しかしそれを理解すると、今度は「どうして俺はこんなところで寝転がっていたのだろうか」という疑問が生まれる。……ともかく状況を確認しないと始まらない、と考えた俺は、腹筋に力を入れてゆっくりと身を起こした。
「……どこだ、ここ?」
そうして視界に映ったのは、まるでそれだけが世界の全てであるかの如く、何処までも続く鬱蒼とした森林。
呆然と周囲を見渡しても、そこに映る光景は皆一様に、最奥が暗がりに包まれているほどに乱立する無数の木々に支配されていた。
全く見覚えのない風景、全く見覚えのない植物、全く知らない不思議な空気。それらに揺り動かされて、俺の口からは、ただつぶやきが漏れる。
そりゃあ、人間だれだって、自分も知らない間に全く見知らぬ土地に来たら、困惑するはずだ。……なにより、そんな場所で無防備に意識を手放していたことを考えると、たまらず身震いしてしまう。
……しかし、本当にココは何処なんだろうか。そして、そんなことを考えている俺は、どうしてこんなところに居るんだろうか? 俺が座り込んでいる森の只中で目を覚ます「前」の俺は、どこで何をしていただろうか?
出来の悪い脳みそをフル回転させ、俺は必死に、意識が途切れる寸前の出来事を思い出そうと試みる。
覚えている最後の光景は確か、コンビニでのバイトを終わらせた後、自宅であるアパートに帰るため、ゆったりと人気のない夜道を歩いている……というものだ。
けれども、そこから先、何があったのかをまったく思い出すことができない。さも最初から何もなかったかのように、気を失う直前の記憶が、すっぽりと欠落していた。
「……ダメだ、思い出せない」
働かせすぎて、頭痛を訴え始めた脳を冷却するために、俺は一端思考を中断してどさりと地面へと寝っ転がる。背中一面に土のひんやりした感触を感じながら、今度は別の方向から思考を再開してみることにした。
そもそも、俺はなんでこんな森の中に居るのだろう。考えられる可能性はいくつかあるが、思い出せる限りの直前の記憶と照らし合わせてみると、すぐに思い浮かんだ可能性のことごとくが潰された。
まず、可能性の一つである誘拐。
これはまず間違いなくノーと言えるだろう。俺は誘拐されやすい女子供じゃないし、そもそも何も特別な力は持っていない、ただのいち男子高校生。誘拐されるだけの理由が無いのだ。
なにより、誘拐したのならばどこかの建物の中に縛って転がしておくだろう。理由あって俺を誘拐したにしても、こんなところに誘拐した人間を放置する理由もない。というわけで、誘拐の可能性はかなり低い。
次に確率が高いのは、夢遊病。
これも正直、確率としては考えづらい。第一夢遊病状態で外をほっつき歩いていたら、事故に巻き込まれるなり警察の人に職質されるはずだ。
それに、覚えている限りだとウチの近くにこんな広大な森林なんてない。事故も職質も無いまま夢遊病出歩いていたところで、森の中に迷い込むことなどありえないのだ。なので、この線も無し。
最後に挙げられるのは、今のこの状況そのものが、眠ってる俺が見ている夢だという可能性。
実のところ、最初に思いついた時には良い線行ってるんじゃないかと思ったのだが、今はどうにも夢と断言することはできないでいる。
その最たる理由は、リアリティだ。これが夢だったとして、ここまで微細な風を感じ取ることができるだろうか? 風に揺られる木の葉が奏でる音を、聞きとれるだろうか?
色々なものが全身に伝えてくる情報量の多さは、とてもじゃないが夢と断じきることはできないものだった。だから、夢と決めつけるのは早計だろうと、そう感じたのだ。
「……ふんっ」
となれば最終手段。自分の頬を思いっきりつねってみる。よく言われている「夢の中ならつねっても痛くない」を実践してみたのだが――
「いってぇ」
ギリギリと音が鳴りそうなくらいにつねってみた結果、非常に痛かった。というか、つねっていた指の皮膚がずれて軋んでいた。どっちかと言うと指の方が痛かった。……ともかく、夢の中と決めつけるのは危険だろう。
この世界が夢であるならば、どんな出来事が起こっても起きて、笑い飛ばしてしまえばいい。しかしこれが現実であり、仮に命の危険にさらされるようなことがあった場合、生半な覚悟だけで挑むのは、良い選択とは言えないだろう。
だから、この世界は「現実」であると仮定して動くのが最良。そう考えるということで、結論を出した。
さて、ともかく自分を取り巻く現状についての大まかな確認は終了だ。となれば俺の興味は、自然と周囲の風景に移っていく。
先ほども確認した通り、俺の周囲を取り囲むものと言えば、周囲360度へとくまなく展開する木々の大群だけだ。
ただし、周囲に生えている木々はどれもこれもまるで見覚えのないものばかり。しかも、その幹は針葉樹のようにほぼ真っ直ぐに伸びているにもかかわらず、天然の天蓋を作り出している木の葉たちは、いずれも広葉樹のような伸び方をしていた。どうやら、木で現在地の気候を推察するのは無駄な試みらしい。
言及し忘れたが、現在の俺の服装は無地のTシャツ一枚にチノパンという、ラフで比較的暖かな季節に着るような格好だ。にもかかわらず、暑くも寒くもないというこの状況を鑑みるに、此処は日本と同じ温帯気候の土地と考えて差し支えないだろう。
問題なのは、これほどまでに広大な――木漏れ日が降り注ぐ日中であるにもかかわらず、遠景が溶け消えるほどの闇に覆われているほどに広大な森林が、日本に存在したか、ということだ。
富士樹海、とかならまだ納得は行くが、あそこは湿度が高い関係で霧が頻繁に発生する、という話を聞いたことがある。
それに、日本は今、降雨量も増える六月。しとしとと降りしきる雨が、一日中続くことも珍しくない季節だ。にもかかわらず、今現在俺が座っている森の中は、時折吹き抜ける風も快適そのもので、湿地帯のようなじめじめとした不快さを、まるで感じさせない場所。要するに、此処は日本ではないどこか、ということになるのだろう。
先に述べた通り、意識の途切れる直前の場面――住宅地に続く路地をぷらぷら歩いていたという状況を考えれば、こんなところに迷い込むには無理がある。
仮にあの後、普通に帰宅してどこかに出かけた先で迷い込んだ、というには、あまりにもおかしな状況だった。……正直な話、どうして俺がこんな状態にあるのか、さっぱりと合点がいかないのが現状である。
現状を鑑みるに、右も左もわからないこの森の中を練り歩いて、勘だけで出口を探すのは自殺行為に等しい。しかし、このままこうしていていも埒が明かないのは自明の理。ならば、今俺が居るこの場所を現実と仮定して、どう動くのが最良だろうか――。
「グルルルルルルル…………!!」
「っ――」
なんて、此処がどこかも理解せずにに考え込んでていたのが、最大の油断だったんだろう。
突然背後から響いてきた、身の毛もよだつような冷たい唸り声。驚いて振り向いたそこには、人の身の丈も軽く凌駕しそうな体躯を持つ、黒い体毛を持ったオオカミがいた。
まるで鮮血で濡れそぼったような、鮮やかな真紅の瞳が、俺の全身を射抜く。そのまなざしの冷たさに、容赦のなさに、力の差を嫌でも理解できる眼力に、全身にぶるりと怖気が走った。
「……そもそもこんな森の中で、のんびり考えてるのがダメなんだよなぁ」
ひきつる口元を抑えぬままに、俺はオオカミを睨みながらゆっくりと立ち上がる。オオカミのまなざしはすでに俺へと固定されており、到底逃げられるような状態ではないということは、誰の目にも明らかだった。
――だが、逃げなければ死ぬしかない。
死にたくない。
あきらめたくない。
生きたい。
生きたい。
俺の立つこの場所の正体を知るまで、死ねない!
生への渇望を、胸中で命の煌めきと変える。そのままぐるりと踵を返すと、俺は森の奥めがけて全力で走り出した。
ここがどこなのかは、わからない。
今、俺がどの方角に向かっていて、何処を目指せばいいのかも、わからない。
だが、迫る命の危機を目の前にして、それから逃げる以外の道を選べるほどの知恵は、力は、勇気は、俺には存在しなかった。
この先、俺はどうなるのだろうか。
この先は果たして、存在するのだろうか。
一抹の不安とぬぐいきれない恐怖を抱きながら、俺は折れてしまいそうな頼りない膝を叱咤して、ただひたすらに森を駆け始めた。
***
――そうして、状況は冒頭へと立ち戻る。
身体が重い。思うように走れない。
時計の振り子のようによろめく、俺の身体を支えているのは、まるで無数の針が突き刺さっているかの如く、絶えぬ痛みを訴え続ける脚。
オオカミに噛まれた、というわけでは無い。道のりも障害物も一切合財を考慮せず、ただ一心不乱に走り続けた結果が、このぼろぼろの脚だった。
そもそも、あの森の中で目覚めた俺が身にまとっていたものと言えば、簡素な作りの薄い普段着である。靴こそはいてはいたものの、所詮それは街中で着用するようなものだ。ロクな舗装もされていない、自然そのままの大地を全力疾走した結果は、ある意味分かりきっていた事実だった。
だが、身体の奥底から湧き上がってくる、生きる者ゆえの生への執着が、限界を通り越してなお、俺の身体を動かし続けていた。
背後からは、いまだ俺めがけて向けられている、むせ返りそうなほどの濃密な殺気。それをしっかりと知覚して、俺は再びゆっくりと、確実に歩を進め続ける。
酷使され、様々な要因でズタズタになった足は、もはや歩く力を残しているとは言い難い。加えて、体中を廻っていた酸素をフルに使用して走り続けていた俺は、もはや気を抜けばその場にぶっ倒れてしまいそうな、這う這うの体だった。
「……逃がして、くれって。頼むよ…………」
森の奥へと溶ける俺の声は、再び深奥から響くオオカミの遠吠えにかき消される。そして、ごく小さな一言だけを発した俺の身体は、再び酸素を求めて喘いだ。
もう動けない。だけど、動かなきゃいけない。逃げて、生きなければならない。
理由も理屈も、何もない。ただ、身体の奥から湧き上がってくる生存本能のみに身を任せて、俺は再び歩き始めようとして――足元にあった太い木の根らしいなにかに足を取られて、盛大に転倒してしまった。
「は、っ……はっ……」
立ち上がらなければいけないと、頭では理解している。しかし全身を、頭を、見知らぬ地に居るが故の、孤独に喘ぐ心を苛む痛みが、身体を動かす行為を拒絶させた。
まるで麻酔でも打たれたような、かすかな違和感を孕むしびれが、俺の心身を麻痺させていく。やがて、何かを考える余裕もないほどに、何が原因とも知れぬ痛みに満たされ――
「――――死にたく、ないなぁ」
ただただ漠然と存在する、生への執着を呟いて。
そう遠くない距離で響いた、生き物の鳴き声を聞いて。
そうして、俺の意識は、静かに闇の中へと溶けていった。