プロローグ 幽かな導きに誘われて
異世界トリップ、と言う単語を聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。
物語の設定。空想を描くために使われる演出。妄想から出たたわごと。世迷言。少なくとも、この現代日本に生きる人間ならば、特定の場以外で持ち出されるその言葉を、好意的に受け止める人間は少ないだろう。
だけど、それでもかまわない。
俺の夢はただ一つ。
異世界に行きたい。
形はどうあれ、この身を縛る理不尽のしがらみから、解放されたかった。
規則正しく並べられた電灯が照らす、住宅街を縦横に走る路地の一角。
このところ一段とうるさくなった羽虫の声を耳に留めながら、俺は静かに、自宅となっている小さなアパートへの帰路を歩いていた。
道中に見つけたゴミ捨て場横の時計を見れば、時刻は夜の10時前。バイト先のシフトは6時から9時だったのだが、何でも俺の後に来るバイトが体調を崩してしまったらしく、店長が代わりの人員を確保するまでの一時間、追加で働くことになったのだ。
給金が増えるから文句はないのだが、途中からでも見ようと思っていたバラエティを完全に見逃してしまったのは残念である。今日は特に楽しみにしていたのだが、どうこう言ったって過ぎた時間は戻ってこないのだ。大人しく、家に帰り付いてから使える2時間の有意義な使い方を検討するとしようか。
妙な気配に気づいたのは、それからほどなくして。残りの2時間で明日分の宿題を消化して、30分くらい夜更かししてから寝ようと決めた、その直後だった。
「……?」
はたと足を止めたその先に、何かがいる。何が――と聞かれればとても形容しがたいのだが、ともかく俺から少し離れた位置には、何かが居た。
だけど、人であるならばそうとわかるような気配を、そいつからは感じない。まるで影のような、幻のような、そんなつかみどころのないあやふやなままで、そいつはじっと佇んでいた。
――こういう時、普通の人間ならばどうするんだろうか。そんなことを考えながら俺がとった行動は、「接触してみる」というものだった。
「えっと、誰ですか、で合ってるの? ……あの、此処で何してるんですか?」
なんともしどろもどろな口調で、俺はそいつに話しかける。幸いと言うべきか、そのあやふやな何かには明確な意思が存在しているらしく、振り向いた気配を見せた。
――あぁ、ようやく会えた。
かと思えば、何処からか聞こえる声。誰が発した物だろうか、誰のものなのだろうかと思考を巡らせかけたところに、再び目の前の存在とよく似た、おぼろげな幻聴のように声が響いた。
――今日はとても運がいい。君にとっても、我にとっても。
「え?」
少し気を散らせばただの雑音に成り下がりそうな、そんな声が紡いだ言葉。それがどうしても気になって、俺は反射的に疑念の声を上げて。
――すまない、時間が無い。
――君の意思と意向を尊重せず、こちらの勝手な思惑に巻き込んでしまうことを。
――いつか、直接詫びさせてほしい。
だんだんと鮮明に聞こえるようになる声に導かれるような感覚を覚えながら、俺はその場で静かに、抗う暇もなく、意識を闇に溶かしていった。
これが、この後の俺に待ち受ける物語の始まりだということを、知ることもないまま。