友人
「…では、なぜ空気は目に見えないのでしょう?今日は…出席番号17番の人。」
3年A組、物理の時間。
窓際の席に座っている紅河淳は、クァっとあくびをした。
17番の男子生徒が立つ。
「えっと、分子密度が薄い、から?」
「んー、惜しいな。」
…光が反射しねーから。
紅河は頬杖をついて外を眺めながら、心の中で答えた。
こんな中学で習うような事をなぜクドクド繰り返すのか、それに答えられないヤツがいるというのはどうなのか。
他人のことはともかく、紅河は退屈していた。
もっと高度なことをやりたいという勉学意欲からではない。
学問自体がつまらないのだった。
全てに関心が無かった。
中間考査の後、また進路希望調査だろうか。
彼はうんざりしていた。
…またあの詐欺師、来ねえかな。
社会悪を潰すという正義…紅河の興味はそれに向いていた。
しかしそれは、将来警察官になるとか、進学して検事になるといった展望に繋がるものではなく、無気力な自分に対する苛立ちから発するものだった。
目の前の悪への八つ当たり、とも言える。
自分を納得させられる正当な理由を付けて、良いことをしているのだ、という実感から来る安心感を得たい…という衝動がほとんどを占めている。
しかし、衝動の一部には、辛い想いをしている人を助けたい、という純粋な気持ちも介在していた。
それは、養女である妹の光里を救った一件から、少しづつ強まってきた意識である。
弱い者が、恐怖に怯えている顔を見るのは耐え難い。
安心を得た者の屈託ない笑顔、それに、本心から幸せを感じたのであった。
…でも、面倒臭いことは、やっぱり面倒臭い。
彼は自分の無気力さに自分で呆れ、また、あくびをした。
放課後。
紅河が最も集中力を発揮するのは、サッカーである。
彼のボール操作能力は桜南高校サッカー部随一であり、部内では誰もが認めるエースであった。
瞬発力、判断力、また身体能力も高く、彼の全国大会デヴュー…一年生の冬、交替要員としてではあったが、5分間の出場の中で1得点を挙げている。
それ以来、二年生にして全ての公式戦にスタメンで出場してきた。
紅河淳が三年になった今年、全国の大会常連校が、城下桜南高校を、紅河淳をマークしているのであった。
いつものように二年と三年の混合で練習ゲームをした後、軽くランニングをしてメニューを終えると、正式に入部となった新入生の自己紹介があった。
紅河はこっそり帰ろうとしたが、顧問に捕まり、しぶしぶ参加した。
新入部員の自己紹介が進む。
「1年B組、古藤彰良!夏のインターハイではスタメン狙ってます!紅河先輩には負けません!しゃす!」
威勢の良すぎる自己紹介に、ざわめきが起こる。
この高校で、一年スタメン?無謀な…
紅河先輩に負けないって、失礼過ぎるだろ…
三年もいるんだぞ、馬鹿なやつだな…
紅河も、チラリと古藤彰良と名乗った一年生を見た。
身長は170cmくらいか、そう高くはない。
「うへ…。」
古藤が、希望に満ちたマブシイ目でこちらを見ている。
紅河は、視線を逸らした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紅河は帰宅途中、学校の最寄駅で知人と出逢った。
県立の土蔵西高校に通う、橋石拓実という友人だ。
どうやら彼は紅河を待っていたようだ。
「紅河!」
「おお、橋石。」
「お前さ、確か物理系だったよな。」
「ああ、そうだけど、俺に勉強のことなんか聴くなよ。」
「ちょっとこれ見て、意見くれよ。」
橋石はそう言うとタブレットを差し出した。
何かの図面のようだ。
「なにこれ。」
「リッター100km走る原付。」
「は?」
「いや、さ、改造してんだよ、今。」
「原チャリを?」
「そう。でな、揚力計算とか、いまいち分かんなくてさ。」
「揚力?お前、空飛ぶ気かぁ?」
「いやいや、あ、いや、ある意味近いな、ほら、燃費の悪さって、全て摩擦なんだよ、原因は。」
「摩擦…うん、言おうとしてることは解るけど、揚力がどう関係するんだ?」
「つまりな、走行中に、いかに路面からタイヤを浮かせて走るかっていう。アクセル閉じた時間を多く稼ぐ、と。」
「お前、マジ?」
どうやら橋石は車体を浮かせるために、原付バイクに翼を付けようとしているらしい。
「素材選びと、必要な表面積計算、手伝ってくれ。」
「さいなら。」
「ま、待て、紅河!計算して無理だと解ったら別の方法を考える。行き詰まったんだよ、俺の頭じゃぁ。」
「原チャリなんてリッター20kmも走れば充分じゃね?」
「ハイブリッドカーの時代に、何古いこと言ってんだよ、やってみたいんだよ、頼むよ。」
…面倒臭ぇな。でも、ま、学校の勉強よりは面白いか。
「判ったよ。揚力計算な?ちと調べとくよ。」
「さすが紅河!」
…何がさすがなのかさっぱり分からん。
「それとさ、紅河、いい加減に携帯持てよ。不便だろ。」
「やだ。じゃあな。」
「お、おい、待て、電車でも話そう、おい…」
橋石拓実は、高校二年の時に知り合ったばかりの友人だ。
電車の中でのちょっとしたトラブルが原因だが、気心が知れて親しくなった。
どこか憎めない人柄をしており、また、度胸のある性格で、様々な厄介ごとに先頭を切って介入していくタイプであった。
無気力で臆病な部分もある紅河は、自分に無いものを持つ橋石に好感を持っている。
電車の中で、橋石の携帯電話が鳴った。
「もしもし、今電車、うん…今ちょうど横にいるぞ。待ってな。」
橋石は、車窓から外を見ていた紅河に自分の携帯を差し出し、言った。
「お前と話したいって。義継から。」
…南條クン!?
紅河は携帯を受け取った。
「紅河クン、久しぶり。ちょっと聴きたいことがある。電車を降りたら掛け直してもらえないか?」
「ああ、いいよ、わかった。」
電話の相手、南條義継は、紅河が詐欺師の一件で一年の女の子に言った『知り合いのテレパス』、その人だ。
紅河と橋石は降りる駅が違う。携帯電話を借りて帰るわけにもいかず、二人は次の停車駅で一旦降りた。
橋石が南條の番号に掛け、紅河に携帯を渡した。
「…あ、もしもし、紅河だけど。」
「紅河クン、今、周りにキョウ以外誰もいないか?聞かれたく無い話なんだ。」
「ああ、大丈夫だ。ホームの端に来てる。」
「最近、警察が光里ちゃんのことで電話してきたりしてないか?」
「いや、ないと思うけど。家に確認してみようか?」
「悪いが、ちょっと確認取ってくれ。」
紅河は一度電話を切ると、自宅に掛けた。
母に聴いたが、警察からの連絡は全く無いとのことだった。
南條へ掛け直す。
「…あ、南條クン、警察からの連絡はない。どうかしたのか?」
「警察が僕を嗅ぎまわっているようなんだが、どうも、清州朋代の事件も関係しているらしい。」
『清州朋代』と聞き、紅河の胸中をドス黒い靄が立ち込めてきた。
不気味な清州朋代との対峙記憶が、頭をかすめる。
「もう少し詳しく教えてくれ。」
「ああ、警察が嗅ぎまわっているのは、サイコパス診断された犯罪者の、勾留中の面会者らしい。」
南條は、実父である『徳田将司』の事件から自分の足取りが追われたことは黙っていた。
紅河には関係の無いことだったからだ。
「面会者を?なぜ?」
「それ、その理由が判らないんだ。だから紅河クンに聴いた。何か警察の動きを知っていないか、と思ってね。」
「ごめん、何も知らないな。」
「そうか…何か判ったら連絡が欲しい。」
「わかった。」
紅河は橋石に携帯を返すと、『警察からの連絡』という言葉から、清州朋代の一件に関わっていた押塚警部を思い出していた。
よく調べもせず、清州朋代というモンスターに光里の身柄を戻した無能な警部。
紅河は、警察に良い印象は持っていなかった。
※妹の光里…『少年の小さな迷走』『少年の秘かな決意』参照
※橋石拓実…『少年の些細なトラブル』参照