光、統べる者 22.
語りかけてくる『声』は、『音』ではない。
肉体の鼓膜を振動させないものだ。
楠木万凛にとってはそれが常識であり、『声』の本来の在り方。
この世に生まれ落ち意識を持った時から、『声』は頭の中に直接入って来るもの。
肉体の耳は様々な音を拾う。
音によっては気にならないものもあれば軽い不快さを覚えるものもある。
人間が発する『音』は、大抵が不快だ。
それは恐らく言葉としてなんらかの意味を伴っているからなのだろう、と万凛は考える。
人間から発せられた言葉の多くは要求と言う干渉をしてくる。
これをしろ、それはするな、これをあげる、それを寄越せ。
どうしてこうも干渉するのか。
模倣の偽物が。
彼女が“イデア”という言葉と出逢ったのは十四歳の頃だった。
哲学を論じた本で見た言葉。
その本には、人間の魂はその汚れから地上の世界に追放され肉体という牢獄に押し込められた、とあった。
万凛にとってその本の内容は受け入れ難い部分もあったが、物の真の姿を意味する“イデア”がこの世には存在しないと感じていた彼女にとり“肉体という牢獄”という概念は理解し易かった。
様々な容姿をしている模倣の産物、人間。
自分の肉体もイデアの模倣に過ぎない。
『声』を模倣した『音』を発する人間。それは、文字通り耳障りな雑音だ。
声は、音ではない。
精神感応という言葉も本で知った。
声は、精神感応だ。
だが、その『声』も様々な容態を擁し、故に“イデア”とは言えない。
真の姿イデアは一容態しか存在しないはずだからだ。
精神感応の『声』は、時には暗く冷たく、時には炎の様に心を焦がし、時には明るく柔らかい……そうだ、それが喜怒哀楽とかいうものなのだろう、と万凛は想像する。
『声』のイデアに接してみたい。
人間のイデアを見てみたい。
真の姿、それは本にあったように『天上の世界』とやらに存在するのだろうか。
心の目で見ることが出来るという純粋な真の姿、そんなものは本当に存在するのだろうか……。
『またその事を考えているのか』
声だ。不意に声が万凛の頭の中にゆるりと滑り込んで来た。
ふと我に帰る。
ゆっくりと瞬きをし、万凛は思考を返す。
『……御笠秀重か』
『生きていた時の名前など大した価値はないよ』
『そうなのだろうが、声に個があるなら誰の声なのかと考えるのは自然だ』
『それもね、無意味だよ。そのうちにわかるよ』
『お前は私から生まれ、そしてかえった。なぜ人間の肉体というものはその様な無意味な生死を繰り返すのだろう』
『生と死にはそれぞれ意味があるね。僕は秀重として死に、秀重の記憶を持ったまま一巳として生まれた。輪廻転生というらしいが、魂を少しづつでも浄化させる為に現世に出されて修行をさせられるんだ』
『それも書物で読んだがな……では、死とはなんだ? なぜ肉体は死ぬ?』
『役目を終えて“かえる”ことだね』
万凛はまた瞬きをした。
『修行とやらを終えた、という意味ならば、お前は役目を果たしたのか?』
『それがね、よくわからないんだよ。秀重として死んだ後、修行成果の答え合わせの様なものを視たはずなんだが、記憶に残っていない。一巳の死後はその答え合わせすら無かった』
『役目を終えた、というのは出任せか』
『ははは。なんだろうね。逸れ者ということかな、僕は』
「マリこれ、そこのお茶淹れたの、飲む?」
御笠一巳の霊と対話していた万凛の耳に雅弓の音が過ぎった。
なんと言うことはない、ただの雑音。
万凛の視界には湯飲みを持って立っている雅弓の姿があったが、万凛の意識にその像は単なる景色の一つに過ぎず、届かない。
…また黙り込んでる、つるつる業務用。
「ここ置くからねお茶。」
雅弓は万凛の目が向いている辺りの床に湯飲みを置くと、お菓子袋の所に戻り煎餅の袋を開けた。
ゆっくりと瞬きをした万凛の瞳には、湯気の立つ湯飲みが映り込んでいた。
足跡を追う、という尾行方法の難易度は天候と場所に左右される。
今回の様な人がほとんど足を踏み入れない山中の場合は比較的容易い。
更に尾行対象である仔駒雅弓には追手をまくための偽装意識もない。ただひたすら目的地に向かって走っているだけだ。
生い茂る夏草に判りにくい足跡もあったが、周囲を注意深く見れば押塚が行き先を見失うことはなかった。
…透視を使わない嬢ちゃんなら尾行には気付いていないはずだ。
押塚が注意を払っていたのはむしろ奈執の攻撃だ。
やつがこちらを視ていることは間違いない。
しかし、その気配すら感じられない。
気休めでしかない拳銃ホルダーに伸ばしている右手だが、じわじわと汗ばむばかりだ。
…まあ使い手の攻撃なんてもんは唐突なんだろうが。
いきなり木が倒れてくるとか、天候が崩れ落雷が起こるとか、そういった目に見える変化はこれまで一切ない。
不気味なほど穏やかな女木島の夏山……
「ん?……」
不気味なほど、穏やか……そう言えば心なしか蝉の声が遠く感じる。
この辺の木には蝉がとまらないのだろうか。
それと、野鳥の鳴き声も減っている気がする。
押塚は拳銃を抜き、安全装置を外した。
目を細め、辺りを注意深く見渡す。
木々の隙間から伺える陽光の加減、足元の土の状態まで隈なく見る。
…何も変わらんな。慎重になり過ぎか?
押塚は改めて自分に言い聞かせる。
使い手の攻撃は見えないし気配も感じ取れない。臆するだけ時間の浪費だ。
自分が突然倒れたら南條は退却してくれる。あいつは解決のヒントを必ず掴んで帰るやつだ。
「……無駄死ににはならん。」
そうつぶやき、再び雅弓の足跡に視線を落とす。
そして神経を研ぎ澄ませ、再び歩を進め……
「!」
耳元に妙な声。
即座に後ろを振り返る押塚。
誰もいない。
追って来ている南條の姿も視界にはない。
…なんだ? 早口でごにょごにょと……人、なのか?
その声は小さかったがすぐ近くで発せられた様に聞こえた。
鳥や獣の類ではない。
低い声で、まるで独り言みたいな感じだった。
腰を落とし、改めて周囲を見回す押塚。
暑さと焦燥感からか、一瞬目眩の様に平衡感覚を失いかける。
…う、なんだこんな時に……
『……くだんはんをとり……』
「誰だ!」
確かに人の声だ。
近い。
だが声のする方向が判らず、押塚はふらつく体を懸命に踏ん張りつつ目を凝らし、周囲を見る。
『……がしたままでたお……』
「誰だと聴いてい……む!」
押塚の左後ろ、三メートルほど離れた場所にある大木、その脇。
スーツ姿の若い男性が両膝をつき、両手で腹部を押さえてうなだれている。
…なんだ? 怪我をしているのか?
押塚は周囲に気を配りつつ、そろりそろりとその男に近付く。
これは……
この感じ……
以前見た様な……
既視感というやつか……
『……れるわけには……ぶんが……のしったいで……』
…いや、既視感どころじゃねぇ……俺は、まさか、俺は、俺はこいつを、こいつは俺の……
押塚は立ち止まった。
右手に拳銃を握ったまま、彼は努めて冷静に言葉を発する。
「おい、あんた、どうした、顔を、顔を上げろ。」
『……爆弾犯を取り逃がしたままで倒れる訳にはぁ……自分の失態でぇ……』
顔を上げる男性。
それと同時に見えた腹部は服ごと裂け、腸の様な臓物が飛び出し、右手は手首から先が千切れて無かった。
押塚の身体は震え始め、どう冷静に努めてもその震えは止まってくれない。
既に気付いていた。
しかしあり得ない。
これは夢か。
夢でも見ているのか。
こいつは俺の……俺の……
「……か、かわ……」
一昨年の三月に殉職したはずの捜査課の部下、川端だった。
頭ではわかっている。
あり得ない。
一度死んだ彼が、葬儀まで見届けたはずの彼が、ここにいる訳がない。
『……追わないとぉ……押塚警部ぅ、申し訳ありませんん……爆弾犯をぉ……追いますぅ……』
「……かわ、ば……川端、あれはか、解決……」
押塚は思わず後退ろうとしたが、身体が上手く動かせない。
目眩とも違うふわふわした感覚が彼を襲い、視界がゆっくりと揺れ始める。
落ち着け、落ち着け、と内心で必死に唱え続ける押塚。
だがしかし目の前の川端のリアルさは何だ。
とても夢や幻とは思えない。
川端は左手で腹部を押さえながら手首の無い右手をこちらへ伸ばして来る。
離れろ。一旦退くんだ。
いや、通じるなら、川端と話せるのなら……
駄目だ。霊を操る能力かも知れない。退け。
いや、だが、無念だったろう、川端……
待て。俺はここに何をしに来たのか考えろ。
いや、川端、すまん、俺の采配ミスだった、俺が死なせたも同然……
駄目だ駄目だ駄目だ。南條のいる場所まで戻れ。
いや、川端に言うんだ、犯人は捕まえた、と、せめて安心させてやらなければ……
葛藤。
揺れる視界。
足元のおぼつかない感覚。
退け。
ここは退くのだ。
下がれ。立て直せ。
これは使い手の攻撃だ。
奈執。
そうだ、奈執!
やられるな!
こんなところでやられる訳には……
『……寒い……助けて……手が……痺れて……もう感覚が……』
別の声。
川端の声と折り重なるように、不意に押塚の頭に忍び込む別の声。
足元。
その女性は押塚の足元に居た。
背中に回された両腕は縛られ、両脚も膝の辺りで縛られている女性が恨めしそうに押塚を見上げている。
その顔は蒼白く、頬はこけ、唇はかさかさに割れている、二十代の女性。
落ち窪んだ両目は穴が開いた様に真っ黒だった。
この女性、その顔、押塚には忘れようが無い。
誘拐監禁事件の被害者で、発見された時は既に息を引き取っていた。
第一発見者は事件を担当していた押塚本人である。
捜索中に何度も顔写真を見た。難航する捜索の中、何度も、何度も。
『……誰か……寒い……助けて……』
犯人は押塚が一度検挙している麻薬常習犯。
押塚への恨みからあてつけに元恋人を誘拐監禁、押塚は携帯電話で何度か監禁中の彼女の声を聴かされている。
『……お願い、します……助けて……助けて下さい……』
…俺は言った。必ず助ける、と。
今まさに被害に遭っている被害者と会話をすることは稀だ。
だからこそ記憶に強く残る。鮮明に、生々しく。
その女性が、弛緩した死に顔とは違う苦痛に歪んだ表情で訴えてくる。
『……寒い……寒い……誰か……お願いします……助けて……お願い……』
…辛かったろう、苦しかったろう、すまん、本当にすまなかった……
押塚は縛られている縄を解いてやろうと手を伸ばした。
が、何か感覚がおかしい。
自分の右手は、左手は、どこだ。
あるはずの場所に無い。自分の腕が。
…な、何を、俺は何をされ……
『押塚慎吾さん』
…!
呼ぶ声。
また、別の声。
その声を発する者は、今度は押塚の真正面に立っていた。
四十代くらいの男性で、作業ズボンにウインドブレーカー、そして長靴、一見すると鮮魚商の様な身なりだ。
…この男、どこかで……
見覚えがある気がするが、直ぐには思い出せなかった。
にじり寄る川端、助けを懇願する女性、それらの『声』が押塚の意識を混沌とさせる。
目の前の男は怪我人ではない様に見えるが、顔の血色は悪い。
島の住民なのか。それとも、こいつも亡き者の霊なのか。
「なぜ、私の名を……」
『身体に戻るのも、こちらへかえるのも、あなたの意思次第ですよ』
…身体に戻る? かえる? 何のことだ?
「どうして私の名を? どこかでお会いしているのか?」
『精神は正直だ。嘘は無い。押塚慎吾さん、あなたは本当に心優しい方なのですね』
「質問に答えてくれ。あんたは……あ……」
思い出した。
この男、碓氷巡査の調査報告の中にあった画像の男。
小松島の魚市場、あの事故の死亡者、名は御笠秀重。
そうだ。間違いない。
…てことはやはり死んで……どう見ても生きている人間にしか……
『この彼も、この彼女も、終わらない苦しみの中に自分を縛りつけたままです。戻るのか、かえるのか、御自分で選ばれるといい』
「終わらない、苦しみ……あ、おい、待て……」
小さな笑みを残し、すーっと消えていく御笠秀重。
だが、押塚の精神に緊張を走らせたのはその直後だった。
御笠秀重が消えたその背後に現れた女性。
紺色の合わせシャツとズボン。その病衣の様な見知ったデザインは白楼第二ラボ教育生の服だ。
そして、女性の額には小さな穴があり、そこから滴る血が鼻筋を流れ顎からぽたりぽたりと落ちる。
拳銃発砲の衝撃、手首や肘、肩に残るその感触は一様なはずなのに、妙な話だがその感触の記憶は同じではない。
あの白楼事件の後はしばらくまともに眠ることが出来なかった。
「し、渋木……遥子……」
『……警部ぅ……追いますぅ……爆弾犯をぉ……爆弾犯んん……』
『……お願い……お願い……誰か……助けて……助けてぇ……』
無念だろう。
悔しいだろう。
三人ともまだ二十代、これから人生を謳歌する年齢ではないか。
にも関わらず死を迎え、更にこれからも苦しみ続けると言うのか。
俺が至らぬせいで。
…贖罪の時、か。
忘れちゃあいない。
この島に来た目的、捕えなければならない相手。
だけれども、だ。
成仏と言うのか、死んだ後くらい安らかな眠りにつけるようにしてやりたいではないか。
…自分で選べ、か。
御笠秀重の声は、押塚にとって非常に重みのある言葉を残した。
人として、とるべき道。
何をどうすればこの故人達の苦痛を取り去ってやれるのか、それは押塚には分からない。
であるならば、声を聞いてやる。
そしてその後の状況を話し、安心させるよう努めるのだ。
奈執を追い詰めるのはその後でもバチは当たるまい。
押塚は揺れる視界の中、足元の女性の縄を解こうと身を屈ませる。
その時気付いた。
もう一人倒れている者がいることに。
その男はうつ伏せに倒れており、カーキグリーンのフード付きコートを着て、右手には拳銃を握っていた……。
治信は携帯端末の表示を見て足を止めた。
押塚警視はどうやら立ち止まったらしい。
彼との距離が十メートルを切ったのだが、それ以上距離が広がらないのだ。
位置を知らせる発信機はこっそり押塚のコートのポケットに忍ばせた。それを拾っているため衛星を介するGPSより距離は正確だ。
…すぐそこだな。何かあったのか?
たった十メートルの距離と言えどこうも起伏の激しい場所では視界には入らない。
声を出せば届く距離だが、押塚が問題に突き当たったのなら彼から呼び掛けがあるだろうし、誰かに遭遇しているのなら迂闊に自分の存在を知らせてはならない。
…待つか、それとも……
もう一度端末を見る。
押塚は動いていない。
端末の表示範囲を広げる。
楠木万凛の一軒家はもうすぐそこだ。距離にして十数メートル。
治信は慎重に辺りの地形を見回す。
そして端末の標高情報から押塚がいる位置と自分の位置の高低差を試算した。
高低差は約四メートル。発信機による直線距離が約九メートル、とすると山の傾斜角は二十六、七度といったところか。
…ならば、あの背の高い雑草群を抜けた辺りで警視は見えるはずだ。
使い手との遭遇ならこそこそする必要は無い。クレヤボヤンスを防ぐ手などないからだ。
だが非能力者の敵と遭遇しているのならば、やはり自分の存在は気付かせたくない。
ここは気配を消しつつ、警視に近付く。
先程から野鳥や蝉の声が遠退いているのが妙に気になってはいたが、判断の遅れは手遅れの元だ。
治信はスーツの上着を一度脱いでリバーシブルの裏面に返し、再び着た。
白だった上着が森林迷彩柄に変わる。
…使い手相手なら必要無いと思っていたが……まあごてごてした内ポケットが外ポケットになった分やりやすい。良しとしよう。
彼は左右の手首に付けているブレスレット型のツールフックに忍ばせているアーミーナイフと小型ボーガンをそれぞれ確認すると、忍び足で傾斜を登り始めた。
その直後だ。
前方三、四メートル先、空中に不自然な揺らめき。
足を止める治信。
彼の目は数回素早い瞬きをし、出し掛けた前足を無意識に一歩退く。
…なん、だと……
揺らめきから現れたのは人間だった。
気を失っているのか、それとも最早屍体なのか、首吊りの遺体の様に全身をだらりと弛緩させている。
しかも二人、若い男と女。
その顔には見覚えがあった。
治信の目付きが瞬時に険しくなる。
ドサッ
ドサッ
その二人が夏草の茂みに投げ出される様に落ちると同時に、治信の頭の中に精神感応が投げ込まれる。
『今すぐにこの島から手を引いて下さい南條さん。もう手遅れかも知れませんけど、これは正真正銘最終忠告ですよ。この二人より酷い状態になりたくなかったらすぐ逃げて。あの一軒家から出来るだけ離れて。早く。早く!』
名乗らない精神感応。
しかし、わかる。
私にははっきり判るぞ。
貴様、何をしやがった。
この二人は無関係だ。
貴様、貴様……
…奈執!
その名を口に出して叫ばなかっただけ、治信は自分の怒気抑制を褒めた。
まだ冷静さが残っているということだ。
治信は携帯端末にブラインドタッチで素早くメールを打ち込んだ。
《 田島大佑、小糸真梨、女木島にて意識不明、至急の救助手配求む 》
送信先は崎真警部。
県警本部捜査課の警部である彼なら最速で香川県の所轄を動かしてくれるはずだ。
そして崎真なら無駄な補足文は要らない。
治信自身の現在位置は自動添付してあるし、使い手の能力による犠牲者だと即時に理解してくれる。
奈執は自身の思考を送り付けた後すぐに能力を引き戻したようだ。
あの思念の慌て方、揺れ方、何かに怯えているのか、と治信は刹那感じた。が、精神感応のやり取り経験則が少ない治信には推測の域を出ない。
それよりも二人だ。
周囲を警戒しつつ駆け寄る治信。
…ん、呼吸も脈もある!
胸をなで下ろす治信。
この呼吸の浅さは失神か。
二人の姿勢を呼吸のし易い体勢に直す。
…済まない、本当に済まない、田島君、小糸さん。
本来ならば救助が来るまで応急処置を試みるべきだが、今は押塚警視だ。
奈執のテレパシーが教えてくれた。
『この二人より酷い状態』とは命の危険と解釈するべきだろう。
そして危険の元は楠木万凛か。
あの一軒家から離れろだと?
ならば雅弓はどうなる。
…雅弓ちゃんを見殺しか、奈執!
「雅弓を幸せにするとかほざいていたな。口先だけのペテン野郎が。」
治信は思わず口走り、端末表示を見て再び歩き出す。
『取ってやらなければならんな、仇をよ』と言った押塚の目がありありと過る。
ミネさんはクセの強い人柄だったが、決して嫌いではなかった。
先の押塚の言葉が、その目が、心強く治信の背を押してくれた。
楠木万凛の一軒家から、この島から退却するなど天地がひっくり返っても無い。
絶対に、無い。
押塚が見える場所だろうと当たりをつけた草むら。
しかし、まだ見えて来ない。
端末の距離は五メートルを示している。
おかしい。
機器の不調か、それとも発信機を警視が気付いて捨てたか……いや、気付いても捨てはしないはずだ。捨てる意味がどこにもない。
周囲に気を配りながら、更に発信機に近付く。
…む!
見えた。
押塚は倒れていた。
なるほどこの茂みでは見つけにくいはずだ。
楠木万凛も何らかの能力者であるなら無意味かも知れないが……と思いつつも、治信は夏草に紛れて地面を這う様に押塚に近寄った。
うつ伏せになっている彼の真横まで這い進むと、その首筋に手を伸ばす。
治信の背筋に凍る様な悪寒が走り抜ける。
…脈が、無い……
すぐ様彼の胸元に手を差し入れ、心臓の鼓動を探す。
だが、無い。
呼吸も止まっていた。
…そんな、まさか、まさか……
絶望感に震え出す治信。
震える手を地面につき、ゆっくりと起き上がろうとした時、その背中辺りに気配。
…!
ガバッと上半身を起こし振り返る。
「……あ、う、あ……」
治信は驚きのあまり声なき声を漏らしながら身を引き摺り後退った。
二十センチも無い近さに、薄笑いを浮かべた子供。
その首には真横一直線に切れ目が入っており、血が滴っている。
『うーん』
恐らくはその子供が発したのであろう声。
そしてその子は首をやや左に傾げた。
傾げた分、首の切れ目が離れ隙間ができ、向こうの景色が見える。
「……あ、あくっ、なっ……」
なんだお前は、と言おうとするが言葉にならない治信。
反射的に左腕を子供に向け、ボーガンを放ちそうになる。
だがその子供は離れた首をぴちゃっと元に戻すと、そのまますーっと消えていった。
『……んいちぃ……』
その『声』が聞こえて来たのは子供が消え去る直前だった。
押塚の死を知った時とはまた別の、もっと奥深い悪寒が治信に襲い掛かる。
汗まみれの顔で必死に周囲を見回す。
『……んなさいぃ……れなかったぁ……』
お、おい、待て……
ふ、ふ、ふざけるな……
『……だこわくてぇ……いかあさんをぉ……』
この声……
や、やめろ……
じ、冗談はやめろ……
『……しんいちぃ……ごめんなさぃ……』
やめろ……
やめろ……
「……や、やめ、やめてくれ……」
『……守れなくてぇ……怖くてぇあの人がぁ……ただ怖くてぇぇ……』
震えが回っている全身を必死に奮い立たせ、治信は押塚の手から拳銃を引ったくった。
そして、がくがくと震える膝に耐え、ぎこちないながらも立ち上がる。
その血走った目は、数メートル先からよたよたと近付く“女性”に向いていた。
「……やめろと言っているんだぁ……お、俺の、俺の……」
拳銃を震える両手で握り、その“女性”に向ける。
治信から冷静さは消し飛び、その目からは涙が溢れ出していた。
「俺の母さんを……母さんを使うなああぁぁ!!」




