偽悪の重力 7.
穂褄は細い木製の角材を一辺が六十センチくらいの立方体に組むと、四つの面に透明のポリシートを貼った。
上下が空いた筒状の小型ビニールハウスである。
…上に蓋をすると、通気性の確保が問題か。
側面に貼ったポリシートにセロテープを並べて張り強度を付け、そこに青い『光の帯』で小さな穴を開ける。
…ん、これだと中の温度が不安定になるか。
中に設置する温度計を複数箇所にするか……などと考えていると、部屋のコールブザーが鳴り、ドアが開いて遠熊倫子が顔を覗かせた。
「ごめんね工藤君、植物の報告書、書き方判った?」
「あ、ええ。」
「ちょっと急用出来てしまって……分からんことあったら深越さんにも聴いてね。じゃあね。」
そう言うと遠熊は顔を引っ込め、ドアが閉まり電子ロックの音が小さく響いた。
だが、数秒もしないうちに再びドアロックが解錠された電子音が鳴る。
再び遠熊が顔を覗かせた。
「その、エゾノハナシノブ? 紫の可愛い花やし、あまりいじめたらいかんよ。」
言うなり、すぐさま彼女はすっと顔を引っ込め、ドアが閉まった。
穂褄はフッと軽く笑う。
可愛くない花ならいじめてもいいというのか。
無論、そういう意味で言ったのではないことは穂褄にも判っている。
この一言多い感じ。
思い出してしまう。
亡くした母親の面影を。
…さて。
環境に左右されにくく周年開花のエゾノハナシノブ。
気温や湿度への耐性がどこまであるのか調べ、周年開花という性質を持った理由を推察してみたいと穂褄は考えていた。
…いじめるなと言われても枯れかけるまでやらないと何も判らないんだよな。
穂褄はプランターのエゾノハナシノブの所へ行き、葉の裏や茎の状態を調べ始める。
壁際の棚の上には葉にツヤを取り戻した赤いフィットニアが静かにあった。
遠熊は足早に廊下を進み、幾つもの電子ロックドアを通り抜け、所長室へ向かっていた。
こんな時瞬間移動って便利そうだな、とふと考える。
所長室に着いた遠熊は県警捜査課の崎真からの要請を古見原啓子所長へ伝えた。
「あら、遠熊所長なら隔週でいらしていたのご存知でしょう? 湖洲香ちゃんの先生だもの。」
「いえ、調べたいのは湖洲香ちゃんがここに来る前、1997年から前の父の研究詳細なんです。」
古見原は直ぐには何も答えず、丸眼鏡越しにチラリと遠熊の顔を見遣るとデスクから立った。
そしてソファに腰掛けると、
「座って、倫子ちゃん。」
と言った。
その表情は穏やかだが、目はどこか険しい。
「失礼します。」
「ええと? まず知りたいのは、いつの?」
「1993年です。白楼に父がここを使用したという記録が残っています。」
「そう。それと? 若邑博士も一緒だったかどうか、ね?」
「はい。」
「記録はね、多分あるかも知れないわ。でもね、見ることは出来ないわ。」
「それは、誰かの許可がいるということ?」
「そう、だわね。」
「どなたの許可を頂いてくればいいんですか?」
古見原は少し間を空け、言った。
「遠熊蒼甫所長の許可。」
遠熊は二、三度素早く瞬きをした。
「え、えと、そんなら刑事局長のご許可を……」
古見原は静かに首を左右に振る。
「無いわ。佐海局長にも、警察庁の次長にも、長官も、その権限はお持ちではないの。刑事局に一任されて、刑事局がそう定めた。遠熊蒼甫以外の者にその記録を開く権利は持たせない、とね。」
「え、でも、そしたら、父が亡くなった場合の権限移譲とか、何か決められていないんですか?」
「無いのよ。ここの資料室は第一から第四まであってね、その第三資料室は、言わばパンドラの箱なの。」
「だって、それではどうして記録を残しているのか、意味を成さないでしょ?」
「そうね……もうその記録は無い、と考えてもらった方がいいかしらね。あなたのお父様が亡くなったと同時に、無くなった。」
「え、でも、あるのなら事件解決のために……」
「例えばね、倫子ちゃん、例えば、よ。この地球を一瞬で蒸発させてしまう方法を発明したとして、その方法をある箱にしまったら、人はその箱をどうするかしら。」
「そんなん、箱ごと燃やして消してしまう、かなぁ。」
「それと同じ様なもの。パンドラの箱の中身は災いしか詰まってない。だから二度と開かないのね。」
神学を掘り下げた遠熊はギリシャ神話にも当たり前に詳しい。
屁理屈であることを承知で切り返す。
「パンドラの箱言うんなら、そこには『希望』も入っています。全部出して、解決するのが私たちの仕事ではないん?」
古見原の表情がふっと緩んだ。
「ふふふ、倫子ちゃんらしいわね。そういうところ、あなたの良い所ね。」
落とせたか、と遠熊は身を乗り出す。
「開けてもらえます? その第三資料室。」
だが、古見原は首を左右に振るのみだった。
「そもそもね、資料室の遠熊博士関連保管庫は、解錠のナンバーが分からないわ。遠熊蒼甫さんしか知らないのよ。」
「そんなんナンバーは決まってるんでしょうし、専門の人にやってもらえば……」
「ふふふ。その気なら、深越さんや穂褄君ならすぐ開けられるでしょう、ねぇ。」
「なら……」
斜め上に視線を流した古見原の丸眼鏡がキラッと反射した。
そして再び遠熊の方を見る。
「私はパンドラの箱の番人。開けたいなら私が死んだ後になさい。」
遠熊は視線を落とし、落胆した声を出す。
「どうしても、駄目ですか。」
「ええ、あの資料室は開けられないわ。」
遠熊はすっと視線を上げ、古見原の目を見据えた。
「出直してきます。佐海局長にご相談します。」
ソファを立とうとした遠熊を、古見原は制した。
「倫子ちゃん、コーヒー飲んで行きなさい。」
「ありがとうございます。でも、県警も至急言うて、急がんといけないし……」
「せっかちさんは損するわよ。」
「え……」
古見原は立ち上がり、コーヒーメーカーのサーバーから二杯コーヒーを注ぐと、ソファへ戻ってきた。
「恐れ入ります。」
古見原と遠熊は一口ずつコーヒーで喉を湿らせた。
「倫子ちゃん、」
「はい。」
「1993年の遠熊蒼甫の研究の話。」
「はあ。」
「何を聞いても、湖洲香ちゃんへ偏見の目を持たない、と約束出来る?」
「え、湖洲香ちゃん?」
二十一年前、1993年に湖洲香はまだ産まれていない。
古見原は何を言い出したのだろうか、と訝しげな顔をする遠熊。
「そう、湖洲香ちゃん。」
「なんやろ……あの子はあの子やし、今のあの子が全てです。偏見とか、持ちようがないです。」
古見原はしばらく遠熊の目を見つめ、そしてコーヒーを一口飲んだ。
「よろしいわ。……赤い魔女、という言葉、聞いたことある?」
「ああ、湖洲香ちゃんのあだ名ですね。」
「そう。その言葉を最初に口にしたのは、遠熊蒼甫博士よ。」
「え、父が?」
「1993年の脳医学研究で、遠熊博士と若邑博士がここを訪れた。死亡診断された検体を何体か使って人の脳の現物を使った研究をしていた。流産となった胎児も使っていたわ。」
「……」
「実験なんかの経緯は詳しく知らないけれど、内容は……胎児への操作で人為的に使い手を生み出せないか、というもの。」
遠熊は固唾を飲んだ。
「もう知っていると思うけど、あなたのお父様は生まれながらの先天的な霊能力者。『能力媒体』、今で言う『光の帯』を生まれた時から操れる使い手。」
「はい。」
「人が受精してから、いつ肉体に魂が宿り、その魂を意識的に肉体から放出出来るようになる条件は何か、それと脳機能との関連性、そういった研究をされていてね。」
古見原が目を細める。
その瞳には心なしか愁いの色が漂っているのを遠熊は感じた。
「ある仮説がアウトプットされて、研究は実証試験へと進められた。」
「実証、試験……」
「そう。その一年半後、被験体の母体は若邑博士の奥さん、若邑美湖さん。」
遠熊にもわかりかけてきた。
湖洲香へ偏見の目を持つな、と言った、その意味が。
「美湖さんは身籠ってから出産までここで過ごし、研究で得られた操作手法を胎児に施されてその経過を記録されているわ。産まれた女の子は赤い魂色を持った元気な赤ん坊で、ある事を除けば普通の子。」
「あること?」
「時折、赤い魂が肉体から溢れ出るの。その赤ちゃんの意思に関係無く、寝ている時、起きている時、関係無くね。」
「……」
「ある時は布団やベッドが切り刻まれ、ある時は世話をした研究員の手にいきなり切り傷が出来た。美湖さんはね、直接抱く事を許可されなかったわ。その乳児の頃に『能力媒体』のコントロールを指導したのは古見原一成、うちの旦那だったらしいわ。」
「古見原一成さんも先天的な?」
「いいえ、母親を亡くしたことがきっかけらしいけど、その時は能力発現のトリガーも理論がまとまっていなくてね。新世紀理論、なんて大層なサブタイトルが付いて、2000年だったわね、遠熊蒼甫博士がその理論をまとめたのは。それはお蔵入りされておらず、白楼にも文献があるんじゃないかしら。」
「でも、美湖さんと湖洲香ちゃんに施された人為的な能力者の産み方は、闇に伏せられたんやね。」
「そう。『魔女を生み出してしまった、赤い魔女を』……あなたのお父様の言葉よ。」
「そんなんひどい言い方やわ。自分でやっといて……」
「無意識のテレキネシスが問題だったのと、胎児時期の脳の発達にも干渉した操作で、周囲の状況の同時認識能力が異常に高い子なのよ、湖洲香ちゃん。」
「そうなん、でしたか……」
ふと遠熊の頭を過る。
白楼θ棟でサイコスリープに陥った湖洲香が南條探偵事務所に現れた、明確に解明されていない瞬間移動。
その湖洲香の供述にあった、夢の中の遠熊蒼甫の言葉。
『こんな所で君を死なせるわけにはいかない』
これは研究成果の保守だったのか。
それとも湖洲香に対する愛情から出た言葉なのか。
「でもね、倫子ちゃん、湖洲香ちゃんは普通の人の子よ。悪魔でも化物でもない。変わらず接してあげ……」
「当たり前やわ! 何言うてるの! 見くびらんといて!」
「あら、ふっふふふ、これはごめんなさい。」
「あ、大きな声、こ、こちらこそ、失礼しました……あ、そんなら、美湖さんは湖洲香ちゃんのこと、抱っことか出来なかったんですか?」
「ええと、確か生後七ヶ月を過ぎた頃だったかしら、大人の言葉にちゃんと意識を向けるようになって、起きている時はある程度『能力媒体』をコントロール出来るようになってね。それからは親子のスキンシップを認められていたわね。一緒に寝るようになったのは一歳半頃だったかしら。もう湖洲香ちゃんは言葉も話してた頃ね。」
…それで、二歳の時に美湖さんを……
父、遠熊蒼甫は、どうしてそんな研究や実証試験を行ったのか。
単なる研究者の好奇心であったなら許せない、と遠熊は思った。
だが、今は感情的になっている時ではない。
証拠文献やデータを得られなかったが、関する古見原啓子の供述が取れた。
「それで、若邑兼久博士はどうしてしまったんでしょう。」
「それは私も知らないの。湖洲香ちゃんが産まれてからの経過を記録しに来たのは遠熊蒼甫博士だけで、若邑博士は来られなかった。消息を絶ってしまって。だから湖洲香ちゃんは父親と会ったことが無いのよ。」
「そうですか。」
本当に若邑兼久は娘と一度も会っていないのだろうか。
『父のことはよく覚えていない』といった湖洲香の言い回しが少し気になる。
若邑美湖が生きていれば何か判るのだが、それは望むべくも無い。
「その研究、誰の指示で行われたかわかりますか。」
「私は携わったわけではないのでねぇ……書類やデータも見せてもらってないし。ただ、刑事局の研究の一環と見れば、研究を承認したのは当時の刑事局長、皇藤満秀だわね。」
「目的は、何のために使い手を人工的に産ませたかったんでしょう。」
「それも明確なものは知らないわ。そうね……投入された医療機材は高価なものが多くて、薬品は湯水のように使っていたし、常識で考えたら刑事局の年間予算だけでここまでの研究は無理でしょう、っていう規模だったから、外部に出資者がいた可能性はあるわね。」
「外部に、出資者……」
関連する人物として最初に想起されるのは衆議院議員になる前の実業家、杉浜光平か。
仮に杉浜が出資していたとして、その研究成果をどう回収……
…回収? 産まれた使い手を、回収?
若邑兼久の蒸発。
湖洲香の回収。
もし若邑兼久が、娘が杉浜に引き取られることを拒んだら。
拒まれた杉浜はどういう行動に出るか。
これが若邑兼久失踪に関係しているとしたら……
更に、母親の元で普通に育てられていた幼児の湖洲香を回収することを、杉浜が諦めていなかったとしたら……
…湖洲香ちゃんが刑事局に回収されなければならない状況を作る。
蓮田忠志は杉浜と内通していたと言う。
それが……それが皆月陸子殺害の裏だったとしたら……
「いや、飛躍し過ぎやわ……」
「え?」
「いえ、古見原所長、話して下さってありがとうございました。蹴蘭山研究所所長の供述として県警の崎真に報告させて頂きます。」
「ええ、構いませんよ。くれぐれもお願いね、湖洲香ちゃんが変な目で見られないよう守ってあげてね。」
「はい。」
まずは報告だ。
遠熊は所長室を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「崎真だ。……遅いぞ堀田、たった一日の事件履歴ごときで何時間掛けている。」
『すみません、警部。メール添付のデータが全てです。それで、その1998年7月29日の事件で、ちょっと気になったものが一件ありまして、それに関連付く事件も調べていて遅くなりました。』
「なんだ。」
『これも添付したので後で見て欲しいのですが、伴瓜警視正の母親が通り魔に襲われているんです。幸い傷害未遂で終わっていますが、同年の8月、9月、と合計三度に渡り警視正の母親は襲われています。』
「なに?……その犯人は捕まっているのか?」
『はい、三人とも未遂、抑えられており解決しています。』
一見『能力者狩り』とは関係性の無い事件に見えるが、あらゆる仮説を組んではバラし組んではバラし、を頭で繰り返していた崎真には引っ掛かるものがあった。
「いいか、これはお前一人で秘密裏に調べて欲しいのだが……その三人の暴行犯と杉浜光平の関係を探れ。」
『え、杉浜光平って、あの国家公安委員の、ですか?』
「そうだ。頼むぞ。」
今し方遠熊倫子班長代理からもたらされた、遠熊蒼甫と若邑兼久の蹴蘭山研究所にて行われた研究の実態。
そして思い掛けず舞い込んできた情報、襲われた伴瓜の実の母親。
関係性の見えなかったあらゆる事象が、崎真の頭の中で複雑怪奇な姿でその全貌を現して来た。
だが、まだ確証の無い憶測に過ぎない部分がある。
…あとは皆月真人。彼がそこに位置していたなら、繋がる!




