偽悪の重力 5.
神奈川県のリゾートホテル。
最上階のスイートルームは眺めが良く、ホテルを転々としている雅弓にとって陽光がキラキラと反射する海は魅力的だった。
その感覚がノスタルジックを含むものだとは雅弓自身気付いていなかったが、なにか温もりのようなものを感じ感傷的になる自分を不思議に思う。
にゃあ
門守から貰った注射器の玩具を鳴らしてみる。
独りで猫の鳴き声を聴いてもつまらないな、と感じる。
学校の説明会で関係無い玩具を持って来てはいけないと聞いた。
携帯電話はいいのになんで? と、ふと思う。
雅弓は読みかけの漫画本を持ったまま窓辺のロッキングチェアから降り、ベッドへ行くとドサッと寝転んだ。
彼女が降りたロッキングチェアが反動で揺れている。
文字が読めるというのは楽しい。
まだ知らない漢字もたくさん出てくるが、漫画の台詞には全てルビが振られている。
その漫画は高校を舞台にしたスポーツと恋愛を描いたもので、読めば読むほど学園生活というものへの憧れの気持ちが膨らんだ。
コズカはどんな高校生活を送っているのだろう。
友達は作ったのだろうか。
警察庁で助けてくれた大きいお兄ちゃん、クレカワはどうしているだろうか。
優しいショウジは忙しく事件を追って走り回っているのだろうか。
イオリは怒ってるだろうな……
くまりんはもっと怖そう……
『新しい生活へ踏み出すには、何かを捨てたり別れたりすることが必ずあるものだよ。』
似広の言葉が頭を過る。
学校へ行く為だ。
県警での生活は忘れなければいけない。
…部活ってどんなかな。小学校にもクラブあるって言ってたな。
「あ。」
小学校のパンフレットがあった事をふと思い出し、漫画本にしおりを挟むと似広のスーツケースの所へ行った。
開けてみる。
確か大きい封筒に入っていたはずだ。
…これかな。
雅弓は封筒から中身の書類を取り出してみた。
「あれ?」
色のサンプルが印刷されている紙と、何か難しい文章や数字の入った表が書かれている書類がクリップで留められていた。
…お仕事のかな。
どうやら小学校のパンフレットではないようだ。
書類を封筒へ戻そうとした時、ハラリと何か小さな紙が落ちた。
ちゃんと戻さないと怒られるかも知れない。
雅弓はその小さな紙を拾い上げ、クリップに挟もうとして思わず手を止めた。
「え……」
大人が仕事で使う名刺というもののようだ。
そこには会社名や部署、所在地や電話番号、そして人の名前が書かれている。
難しい漢字は読めないのだが、そこに書かれている名前はすぐに読めた。
白楼で湖洲香を探した時に何度か目にした漢字、それを形で覚えている。
覚えようという意識があったわけではないが、雅弓にとって大事な名前だったそれは脳裏にはっきりと焼き付いたのだった。
仔駒光俊
…コゴマミツトシ……え、なんで……
…同じ名前の人が他にいたのかな。
…でもユウキが言ってたな、仔駒っていう苗字は山梨県の甲府にしかない珍しい名前だって。
それは亡くした父親の名と同じだった。
しばらく雅弓の目はその名刺に釘付けになる。
食い入るように名刺を見ていた雅弓は、そこにある電話番号を見た途端、封筒と書類を落としてしまった。
「あれ、あれ、これ、これって……」
社会の勉強の時、歴史の年号を語呂合わせで覚える方法を門守に教わっていた雅弓は、自分の携帯電話に登録した番号も語呂合わせにならないかやってみたことがある。
それは語呂合わせが面白く単なる暇潰しにやったことなのだが、頭に入ってしまった。
県警総務部の番号、赤羽根の携帯番号、湖洲香の携帯番号、喜多室の携帯番号、そして……
雅弓は自分の携帯電話の電源を入れ、電話帳を開いた。
「やっぱり!」
仔駒光俊という名の名刺に書かれていた携帯電話の番号は、南條治信の番号と全く同じだ。
「なんで、ハルノブ……あ、ああ……」
雅弓は治信の番号へ間違えて発信してしまい、慌てて切った。
かけてはいけないと似広に言われているし、連れ戻されたらせっかく手続きをした小学校への編入が取り消されてしまう。
雅弓は直ぐに携帯電話の電源を切った。
心臓の鼓動が速くなる。
電源を入れていると場所が見つかってしまう、とも似広に言われた。
大丈夫だっただろうか。
いや、それよりも……
…ハルノブ、お父さんの名前、なんで、何してるの。
しばらく佇んでいた雅弓は、その名刺を自分のポケットにしまうと、封筒と書類を拾い上げてスーツケースへと片付けた。
その泳いだ瞳には様々な困惑の色が浮かんでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
古見原警視が紅河淳と野神主任の面会場所に県警を選んだのは、紅河の伴瓜警視正の目の届かない場所でとの要望からだった。
警察庁ではあらゆる部屋に監視カメラがあり、警視正であり組織犯罪対策課の課長である伴瓜にはモニタリング権限がある為、それを避けてのことだ。
また、赤羽根を交えて湖洲香と面談したいということも理由にある。
中代沢のデパートと光が丘署で穂褄の猛攻を退けた特査の赤い魔女、この人物がどういった気質でどんな思考をする警官なのか詳しく知っておきたかった。
刑事局捜査課の使い手は脱走者の攻撃で既に二名重症を負っている。野神も軽微ではあるが廃病院で火傷を負った。
特査の班員は外出捜査という業務が基本的に無いところに『潜入護衛』という特殊な任務を当てがわれたことから、湖洲香には現場判断の全てが当人に委ねられている。
伴い、現場で必要としたあらゆる手配要請について湖洲香が指示を出す権限を与えられているのだった。
県警本部が指令を出したり特査の上司が指揮を執るということは無い。
そういった重責を伴う状況下で、人命保護という使命において優良な結果を出しているのが湖洲香だった。
ただ残念ながら当該施設の保守という点においては始末書を書かされている。
損害状況を見れば致し方無いのだが、古見原の個人的な見解としては近隣への被害を食い止めた功績は評価に値すると考えていた。
城下桜南高校に立ち寄り拾った時に言葉を交わした第一印象は、紅河は礼儀正しいがどこか冷めた少年、湖洲香は落ち着いているがおっとりとしたやや空気を読むのが苦手な子、といった感じだ。
古見原の目には、二人とも勇猛果敢な正義感溢れる若者、とはとても見えなかった。
古見原達四名は取調べ監督室と呼ばれる取調室と併設された大きな透視鏡のある一室へ入った。
一般人は基本的に入室出来ない部屋らしいが、この時期一時的に増加する軽犯罪関係の対策などで他の会議室は全て塞がっていたからだった。
紅河が面会の趣旨を野神に話し始める。
敬語表現、的確な単語、簡潔な言い回し、なかなか賢い少年だと古見原は感心しつつ聴いていた。
「……これは湖洲香さんのご意見も加味しての仮説です。」
紅河の話は篠瀬佑伽梨が警官から発砲を受けた際の、何が警官を発砲に導いたかという内容だった。
彼は言った。
伴瓜警視正が操作誘導した人為的事故だと考える、と。
野神はやや険しい表情で応える。
「確かに辻褄は合う。あの時篠瀬が『光の帯』を一切出現させていなかったことは私自身が見ている。だが、その仮説が正しかったとして、警視正が篠瀬を殺害しようとした、とするのは早計だ。」
「どうしてですか。」
「我々刑事局は、伴瓜警視正も含め、使い手が拳銃の銃弾でやられるとは全く考えていないからだ。」
「あ……」
確かに野神の言う通りだ。
あの義継はSATによる壁越しの機関拳銃の掃射ですら『光の帯』で止めている。
白楼事件ではラボ教育生の一人が押塚の不意打ち発砲で死亡しているが、それは岸人を仕留めることに全精神力を使っていたからだと聞く。
篠瀬は発砲した警官と向かい合っていた。
発砲音より銃弾の方が速い場合でも、使い手ならば拳銃を向けられた段階で防御の壁を張れる。
古見原が口を開いた。
「発砲をさせたのは警視正だったとして、警視正の狙いは殺害ではなく別にあった、ということかな。」
それを受けて野神が付け加えた。
「実は、紅河君、この件は一度私からこちらの古見原へ可能性の一つとして話している。伴瓜警視正は篠瀬に彼女の『光の帯』を出させる事が目的だったのではないか、と見ている。」
紅河の目が泳いだ。
「そう、ですか……」
「我々は脱走者の『光の帯』放出を見たら迷惑防止条例を適用して確保しろと命じられていた。それがテレキネシスかクレヤボヤンスかテレパシーかは関係無い。放出目的を聴取するという大義名分で引っ張れ、ということだ。」
「と言うことは、篠瀬さんを任意ではなく強制で連行する状況を作るために……」
「恐らく、そうだろうな。」
「待って。」
湖洲香が口を挟んだ。
「伴瓜警視正は穂褄さんの時に、私に彼の足を切断しろと命じましたわ。篠瀬さんにも怪我をさせたかったんじゃないかしらと思うの。」
湖洲香の発言の勢いは強く、伴瓜に偏見の目を向けているな、と感じた古見原は努めて穏やかに言う。
「負傷させる事が目的ならば拳銃は使わないだろうね。穂褄のケースはデパート倒壊と警察署の放火という悪質な犯罪者相手であり、是が非でも逃す訳にはいかなかった。足は仮に切り落としてしまっても使い手の応急処置でまた繋がることはこの野神の腕を見てみも……」
「そんな恐ろしい! 後遺症が残りますわ! どうして警視正の肩を持ちますの!? 古見原さんも脱走者を怪我させたいの!?」
「ああ、まあ落ち着いて、若邑君。」
「落ち着いてますわ。私も枝連さんに肩を外されましたわ。あんな優しい枝連さんが、きっとこれも伴瓜警視正の命令だったんですわ。」
感情的になり俯瞰的な状況分析が出来なくなっているな、と古見原は思った。
「いいですか、若邑さん、誰彼の肩を持つとかそういった公平性の欠けた意識は持ち込んでおりませんよ。私もね、伴瓜警視正は何か特別な志しを持って使い手事件に臨んでいるな、と見ています。それが悪意の可能性も考えています。だからこそ冷静な分析が必要です。」
「きっと悪い事を考えているんですわ。警護してて、何か冷酷な感じがしましたわ。」
「若邑君、その、きっと、とか、確証の無いものを断定する言い方は警察官として問題です。聡明な若邑君なら判るはずです。今後も君の力は刑事局としても大きな助けとなるでしょう。ここは冷静に真実を探る証拠になるものを揃えていってみましょうか。」
「……はい、わかりましたわ。」
…おっとり天然娘かと思ったが、相当に気が強い子だな。
なるほど、悪くない、と古見原は思う。
湖洲香は備えている。
強大な犯罪と渡り合うに必要な気質と、透明な素直さを。
「もう少し伴瓜警視正という方について情報共有をしてみましょう。紅河君は初耳かも知れんが、喜多室巡査部長と南條義継君が冤罪を被ったのはある報告書に原因があり、伴瓜警視正の部下がその報告書を改竄し、警視正はそれを黙認した。そのことで都内所轄へ左遷となったのだが、国家公安委員からの圧力で刑事局に戻された。捜査課から組織犯罪対策課へと部署異動にはなったが、組織上の立場や権限は戻っている。」
紅河が不機嫌極まりないといった表情で言葉を挟む。
「それ、白楼事件の惨事を招いたとんでもない悪行じゃないですか。義継クンが捕まらなかったら僕も湖洲香さんも白楼になんか入らなかったです。枝連さんも死ななかった。それで権限が戻ってるって、どれだけ甘いんですか。」
「うん、ひとまず状況を並べよう。今話した件はポイントが二つ、『報告書改竄の黙認』という行動と『国家公安委員の圧力』という人脈だ。で、報告書改竄には亡くなった蓮田特査班長が絡んでいた。更に、伴瓜が三十六歳の若さで警視正まで登り、刑事局捜査課の課長という役職まで手に入れた背景には現国家公安委員の杉浜氏の口添えがある。今回の刑事局復帰も杉浜の圧力だ。」
「伴瓜と蓮田、それと伴瓜とその杉浜って人の関係、どっちがどっちを支配してるか、って部分ですね?」
「うん。その相関とベクトルを探る前に……こう見えないか? 使い手刑事の指揮権を得る、つまり野神君達への責任と義務を自ら握る伴瓜、後でバレてしまうような偽装の罪を自分で被る立ち位置にいる伴瓜、非道な手を使ってでも脱走者を連行しようとする伴瓜……まるで『私は全ての使い手達の恨みを買う警察の悪役です』とアピールしているようだ。」
「え?」
「え?」
古見原の言葉に、紅河と湖洲香はその言いたいことが判らず眉をひそめた。
「私はね、野神主任の前でこれは問題発言であることを承知の上で言うが、使い手刑事達を指揮する立場など内心では恐ろしくて手に余る。野神君達が恐ろしいのではないよ。野神君達を消耗させ、負傷させてしまうことが怖い。使い手の抗争というものは我々非能力者では太刀打ち出来ない次元の破壊力、殺傷力を伴った戦いだ。現に私の指示で札幌へ飛んだ根津君には脳細胞の壊死が見受けられる重症だ。一時的に酸欠になり脳梗塞のような状態になったそうだ。右半身に痺れが出ている。」
紅河と湖洲香は固唾を飲んだ。
「そういった重圧を、伴瓜がもし自らの根回しで能動的に野神君達の上司の座を得たのなら尚更、彼は何かを背負おうとしているのではないか、とも見えてしまう。」
湖洲香が口を開いた。
その声はか細い。
「でも、蓮田班長と同じで、罪のない使い手も倒そうと、そうも見えますわ……」
古見原は両目をつむり、腕を組んだ。
「うん。まあ、何はともあれ、佐海局長は伴瓜を外してこの私を野神君達の指揮官に据えた。若邑君や喜多室君にも、伴瓜は直接指示を出す立場にはない。」
ゆっくり目を開くと、紅河へ視線を向ける。
その表情は穏やかだが、眼光は鋭かった。
「紅河君、ありがとう。あの篠瀬の現場にいた君の証言と推察、大変参考になった。しっかりとこの頭に入れておく。後は若邑君や野神君達と真実を見極め、事態を一刻も早く収束させる。」
その時、取調べ監督室のドアがノックされ、赤羽根が入ってきた。
「まあ、博士。」
湖洲香の言葉に一瞬視線を向けると、赤羽根は一直線に古見原の所へ行き小声で耳打ちした。
古見原の血相が見る見る変わる。
…美馬が、脱走だと!?




