偽悪の重力 2.
山間の県道。
疎らに残る民家や商店はそのほとんどが空き家となっている下洛山を過ぎると、道幅は一気に狭まり勾配が急な峠道となる。
その細い県道を登り切った所に車十台分くらいの駐車場があり、公衆トイレと稼働していない古い自動販売機があった。
治信はバイクを停めるとメットを脱ぎ、タバコに火を点ける。
好天に恵まれた今日は陽射しは強いが、駐車場から見下ろせる盆地の眺めは良かった。
煙をくゆらせつつ、盆地の住宅街から更に南へと視線を移す。
沢ヶ浦市という地名の元となった湖は今は無く、そこには田畑が広がっていた。
そこから更に南、低山を少し入った所に今は閉鎖されている孤児院がある。
治信は以前、弟の義継を助ける為にそこを訪れたことがあった。
…緑養の郷、か。
タバコの火を消すと、彼は再びバイクにまたがりメットを被った。
今日訪れる場所は緑養の郷ではない。
目的地は市街地の中にある。
マフラーがブルンと唸り、治信のバイクは沢ヶ浦を目指し細い県道に滑り出た。
六十坪くらいの敷地だろうか。
その一軒家の庭は雑草が生い茂り、縁側の脇には小さな犬小屋が見えた。
門の表札には『鈴木』とある。
鈴木尚子……武儀帆海が十七年間暮らしていた家だ。
一抹の疑問。
帆海は数キロメートル離れた緑養の郷から逃げてきた脱走者だ。
当時の刑事局は捜索に当たる使い手を数名用意していた。
弟の遊野の犠牲を払って逃げ延びた後、この沢ヶ浦市にいながらなぜ帆海は捕まらなかったのだろうか。
治信は鈴木宅の隣にある『久代』と表札の出ている家の呼び鈴を押した。
暫くして玄関の引き戸がカラカラっと開き、四十代くらいの女性が顔を出した。
ボサボサに絡まった長い髪、眼鏡の下の腫れぼったい目、Tシャツにジャージ、どう見ても寝起きである。
「お電話を差し上げた南條です。」
治信は丁寧に頭を下げた。
女性はサンダルを引っ掛けて玄関から出て来ると、眼鏡をかけ直す仕草をしながら治信にぐっと顔を近付ける。
「おお、イケメン。声が二枚目っぽかったからブサイクだと予想していたが。」
独特の体臭が治信の鼻をつく。
七月だというのに、もしかして風呂に入っていないのか、と思ってしまう臭い。
Tシャツの下はブラジャーを着けていない。
相当な物臭か。
彼は苦笑しつつ若干身を引いた。
「ああ、はは、どうも。」
ちらっとガレージを見る。
車は国産だが高級なクラスに位置するラグジュアリーカーだ。
目の前の女性には似つかわしくない。
畳敷きの居間に通されると、意外にも綺麗に片付き掃除もされている。
家具は古いが、エアコンは最新型が音も無く静かに部屋を冷やしていた。
出されたホットコーヒーを見て、治信にはピンと来た。
…そうか、武儀帆海がコーヒー好きなのは……
小さなコーヒーカップに三分の二ほど注がれているコーヒー。
カップと接している表面隅の泡立ち具合、色味、香り、こだわって煎れられているな、と判る。
「頂きます。」
香りを楽しみつつ、治信は一口すすった。
「なるほど……これは美味い。」
「ひはは、イケメン反応来たぁ、きはははは。」
彼女の笑い方は独特だったが、不快なものではなかった。
屈託無い、そんな表現が似合う。
二十九歳の治信からすればおそらく一回り以上歳上であるが、寝起きの顔で笑うその表情は可愛らしく、どことなく魅力的だった。
「ははあ、放送作家さんでしたか。」
「うん。ラジオが多いけど、テレビの本も少し、な。」
その喋り口調、笑い方、きっと影響を与えたのはこの女性なのだろう。
あの武儀帆海に。
「そっか、尚ちゃん、亡くなったか……」
「親しくされていたのですか?」
「んー、そんなでも無い。アタシさ、羽振良くなったのここ数年でさ、良く遊びに来てた尚ちゃんに冷たかったよ、余裕なくてさ、いろいろと。」
「こちらには、ずっとお一人で?」
「もう十年くらいか、親が立て続けに死んで。二人とも癌。んで、その後は男が転がり込んでたこともあったな。」
「ここがご実家、ということですね。」
「うん。一度も実家から出たことない喪女だな、ふひひ。」
「ははは。喪女は男性など引っ張り込まないでしょう。」
「そうか。インラン喪女、くひひ……ん、インラン喪女? 肉食喪女、なんか面白い本書けそうだな、これ。」
「はははは。」
何かを生み出している者、クリエイターというのはどこか魅力的だ。
消費だけで生きている者とは違ったエネルギーを感じる。
「……それで、鈴木さんのお宅に拾われた頃の四歳の尚子さんについてお聞きしたいのです。」
「いやいや、六歳だよ。尚ちゃん来たの。」
「それは具体的に何年のことです?」
「ああーっと、あれはぁ、FM仙台の企画もんを打ち合わせてた時だから、アタシ三十一歳、とすると? ん、1997年か。」
…やはり十七年間だ。
「え、では、久代さん、四十、八ですか?」
「おう、あと二年で五十のババアだ。」
「うそ……若い……」
「ぎゃははははははは、なんだそれ、褒めてどうするこのイケメン探偵! ナンパする気かこのババアを! きはははははは!」
「いえ、正直に言いますけど、私は三十代の可能性もあるなと見ていました。仕事柄多くの人を見てきましたので年齢予測は結構自身あったのですが……」
「ひゃははは、うまいなぁ、こいつ。よし! 一発やらせてやる!」
「あ、いえ、それは結構。」
「あっははははははは! 傷付いて泣いちゃうぞアタシ、いひひはははははは!」
「は、はは……」
久代は大笑いしながら卓袱台を立ち、台所からコーヒービーカーを持って戻って来た。
そして治信のコーヒーカップに二杯目を注いだ。
「お、コーヒー専用のビーカーですね、ドリップサーバーとは別売りのものでしょう。」
「ああ。この丸っこい形が好きでな。」
「なるほど……私も買うかな、いい物を一つ。」
「コーヒー好きそうだな。」
「私もそこそここだわりますよ。これはブルーマウンテンぽいですが、若干酸味が違う。何かブレンドされてますね……キリマンジャロかなぁ。」
「なんだお前、コーヒーまでイケメンか。そうだ、自分で混ぜた。ベースはブルーマウンテンでモカを少し足してる。」
「ほほお……尚子さんにコーヒーをお教えになったのはあなたですね。」
「いや、アタシは何も。何というコーヒーかと何度か聞かれたこともあったが……そうか、そう言えば尚ちゃん、コーヒーに興味あったんだな。もっと教えてあげればよかったか……」
久代の瞳は、あたかも亡くした身内を想うような目をしていた。
仕事柄あまり深い交流は無かったのかも知れないが、隣の家に突然拾われた幼い少女に少なからず関心を寄せていたのだろう。
「話を戻しますが、六歳という年齢はどう知ったのです?」
「鈴木の爺さんも言ってたし、アタシが聴いた時も、こう、指を六本立てて。」
それは変則的な六本だった。
右手の指を四本、左手の指を二本立てて見せる久代。
「六歳だと、尚子さんが言ったのですか。」
「いや、尚ちゃんは暫く一言もしゃべらない子だった。暗い子でな。頷いたり首を左右に振ったりするだけだったな。」
「急に明るくなったりはしませんでした?」
「子供の頃は無かったなぁ。躁状態になる様になったのは、んーと、五、六年前からだったか。正式に鈴木家に養女として籍を入れた頃だったと思うな。」
この話が本当だとすると、帆海は脱走の四歳から十五歳か十六歳まで『薄い黄色の魂色』の非能力者だった、ということになる。
「身寄りのない幼女に、警察が捜索に来たことは無かったのですか?」
「あったあった、尚ちゃんが来たばかりの頃は毎週の様に来てたよ。アタシもさ、うちの両親も、尚ちゃんが鈴木の爺さんのところから出たくないのを知ってたからさ、知らねぇって追い返してた……あ、両親で思い出した! 尚ちゃんな、霊媒師みたいな事が出来るんだよ。」
「それは、どういう?」
「さっき話したろ、アタシの親は癌で死んだって。んで一人っ子だからさ、アタシ、もう三十後半の売れ残りオバサンなのにな、尚ちゃん、毎日来てたんだ、心配そうな顔してな。優しい子だよ。」
久代はコーヒーを一口すすると、遠くを見る様な目をして話を続ける。
「急にな、アタシの喋り方を真似し出してさ、謝りたいことがあるのに死んじまったって落ち込んでたアタシに、『じゃあ話せよ、親と!』って、何だこの子おかしくなったのか、と思ったよ。暗くてほとんどしゃべらない尚ちゃんが、急に、だ。」
治信は黙って聞いている。
「そしたらさ、まぁ信じられないだろうが、死んだ母ちゃんと父ちゃんが現れたんだよ。夢じゃなくてさ、本当に。言えなかったこととか、こんな歳まで実家に噛り付いて、良い人もいない駄目な自分とか、謝った。話したよ、いろいろ。もう、涙止まんなくてさ……その時が初めてか、ハジけてる尚ちゃんは。その後はまたずっと暗かったな。」
心なしか久代の瞳は潤んでいた。
「そうですか、そんな事が……養女に向かい入れたのがその五、六年前なら、鈴木さんはなぜすぐに養女にしなかったのでしょう。」
「それな、多分、警察がしつこかったからだな。養女にして戸籍に入ると、この子は一体何だ、ってなるからな。隠すためだろうな、尚ちゃんを。」
「なるほど。」
「あの爺さん、私服の刑事みたいなのに『家の中に子供がいるな、確認させろ』って入られそうになった時、バットをブンブン振り回して追い返してたよ。塩も撒いてたな。病気の孫だ! 近寄るな! ってさ。」
「そうですか。」
その時の帆海が鬱状態だったのならば、クレヤボヤンスには非能力者として映る。
武儀帆海は鈴木氏にとって守る価値のある子だったのだろう。
もしかしたら亡くした妻などの身内と会わせてもらったのかも知れない。あの鈴木氏も。
年齢を偽ったのではない。
歳を聴かれた帆海は、自分と弟の歳を指で答えていたのだった。
それをそのまま誤認した鈴木氏が、養女とした時の帆海の生年月日登録を間違えたまま行った……という事なのだろう。
何とも切ない年齢詐称だな、と治信は思う。
「どうもお邪魔致しました。」
「いや、一つ仕事片付けた後だったからな、問題ない。アタシも本物の私立探偵と話してみたかったからな。参考になったよ。」
「ほう、どんな所が?」
「部屋の様子を物色する時の目、話を聞く時の目、相手から話を引き出す誘導の仕方、だな。」
さすが放送作家、見られていたのはこっちか、と治信は苦笑した。
「ま、あれだ、気が向いたら、ああ、こんな片田舎もう来ないか。生活臭だだ漏れのババアの所なんか、くふふはは。」
「いやあ、ブルーマウンテンを少し自分なりに試してから来ますよ。あんなコーヒーを出されたのではこのまま引き下がれません。」
「お、おお、そうか、いつでも来てくれ。なんなら抱かせてやるぞ。」
「それは遠慮致します。」
「きはははははは! だったらダミーでも結婚指輪しとけ。アタシの様な喪女に指輪のない手は目の毒だ。」
「業界にいるでしょう、男などいくらでも。」
「いないなぁ、南條さん、あんたみたいな良い男は。」
「それはどうも。」
胸が痛む。
武儀帆海と関わった者は皆、彼女に感謝こそすれど、何かしらの被害を受けたという話は全く聞かない。
人の命とは何に寄って測られるのか。
帆海の命の重さは、ただ無意味に消え去ってしまったのか。
それとも……
…帆海の死を境に心を閉ざした狩野佳洋。その心を房生さんにノックさせる、か。
この無益な使い手抗争のバランスは開かれた狩野の心がどこを向いているかで大きく変わる、帆海の死はそれ程の重圧を持った起爆剤かも知れない……そんな予感が治信の胸中を過った。
彼は腕時計の時刻を確認すると、都内へ向けてバイクを発車させた。
似広悟の勤める会社を目指す。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気が重い、が、考えてはいけない。
謝るだけ謝る。
さっと渡して、ぱっと謝って、じめっと睨まれて、わっと泣かれて、そして逃げる。
さっ、ぱっ、じめっ、わっ、逃亡。
これだ。
放課後、紅河は一年A組の教室を苦々しい顔で覗いた。
小脇には紙袋を抱えている。
そのやや後ろで、譜面を楽しそうに眺めている湖洲香がいた。
「ともちゃん、」
「はい。」
「います。呼んで下さい。」
「誰がですの?」
…うわ、すっとぼけ入ってるよこの人。
仕方ない。
紅河はなるべく平静を装い、低い声で呼んだ。
「京子ぉー、おーい。」
ガタンッ!
京子は廊下の方を見た直後、急に立ち上がり膝を机の裏にぶつけ、また椅子に戻される様に座った。
彼女のこのコント仕込みのズッコケの様な光景を無数に目にしている紅河は思う。
これは儀式か? それをやらないとそこから立てないのか? と。
「え、はい……」
膝を擦りながらようやく廊下まで出てくる京子。
いつにも増して、何かに怯えたような顔をしている。
「どした。」
「え、あ、え……」
「そんな顔して何かあったのか。」
「え、なんにも……呼ばれたから……」
やはりどこかビクビクしている。
紅河はチラッと湖洲香を見た。
常時クレヤボヤンス発動の湖洲香は平然としている。
使い手の危険が迫っている様子はないようだ。
「えっと、まずこれ、ハンカチ、湖洲香さんに貸してたや……」
「ともりん。」
「……ともりんさんに貸してたやつだろ。」
「あ、ありがと。」
「どうして自分で返さないのかは俺は知らん。それとな、ええと、高岡芳美って子、何組だ?」
「え、D組。」
「Dか。んーと、出来れば一緒に、あれ、呼んでもらえると助かるんだけど。」
「え、呼べばいいの?」
「行ってもいい。」
「あ、じゃ、いるかな。」
D組へ向かって歩き出す京子に紅河も付いて行く。
「ふんふんふんふん♫」
鼻歌を歌っている湖洲香がその後に続く。
D組で京子が呼ぶと、鞄と書道具を持った姿勢の良い女生徒が出てきた。
前髪は内側に緩くカールしており、横を編み込んで後ろで束ねている髪が親のお嬢様趣味を彷彿させる。
京子と同じ書道部一年、高岡芳美だ。
「小林さん、もう行くの? 部室。」
「あ、なんか、紅河さんが用あるみたいで。」
「あら、紅河先輩ですか。なんでしょう。」
紅河は芳美を見て思った。
この子は怒り出すタイプではないか、と。
物腰は柔らかいが、どこか気の強そうな雰囲気がある。
その時はその時だ。
謝ったら逃げる。
なんなら廊下を走ってでも逃げる。
「ああ、悪いね、いきなり。あれ、ちょっと返すものがあって。」
「え? 返すもの?」
不思議そうな顔をする芳美の横で、京子は更に不思議そうな顔をしていた。
…あれ、私の陰徳陽報じゃないのかな。
「ふんふんふふふん♫」
湖洲香は譜面を見ながら小さく鼻歌を続けている。
その鼻歌が紅河の苛立ちを誘う。
「えっとぉ、これ、なんだけど……」
紅河は紙袋から二枚の折りたたまれた半紙を取り出した。
丁寧に広げながら名前を確認する紅河。
「こっちが、京子。で、これが高岡さん、かな。」
「え……」
「あら……」
京子と芳美はそれを広げ、驚きの目でその書を見ている。
「あ、の、あれだ、その、穴、焦げてたり、そっちは破れて、その……すんません! ごめんなさい! じゃそういうことで!」
紅河は逃げようと中央階段の方へ歩き出しかけた。
そこへ芳美が声を掛ける。
「あの! 紅河先輩! 待って、これ、どうして、どこで、どうしてあるんですか!」
やばい。
だらだらと説明していたら怒られるか泣かれるか、だ。
紅河は顔だけ振り向くと口早に言った。
「たまたまデパートにいてさ、火事でやばかったから剥がしてきた。そんだけ。じゃあな。」
そして再びつかつかと階段に向かって歩き出した。
芳美はその書を食い入るように見た。
間違いない。
自分の書いたもの、そのオリジナルだ。
天翔ける
龍に射られし
彼の夏よ
思へば珠玉
我に流るる
城下桜南高等学校 一年 高岡芳美
…失くしたと思ってたのに、燃えてしまったと聞いてたのに……
その歌は芳美の尊敬するライバル、小林京子の書を詠ったものだった。
中学三年の夏、市内コンクールで金賞を奪っていった、あの京子の書。
『飛』というたった一文字が大きく書かれた、京子独自に崩された行書体の文字。
芳美にはその『飛』が天高く翔ける龍に見えた。
その龍に射られ、銀賞に甘んじたあの夏。
今思えば、あの京子の書が、その自由な書道姿勢が、芳美自身を大きく変えた。
珠玉の敗北。
この歌が、入魂を尽くしたこの書が帰ってくるなんて……
…あ、お礼を、ありがとうって言わないと……
芳美は再び顔を上げて紅河を目で追った。
ガバッ!
「うっ……」
芳美の視線が捉えた紅河の背に、誰かが走って来てしがみついた。
あの後ろ姿……
「小林さん……」
抱きつかれた紅河はおろおろしながら背後を見ようと首を向ける。
「き、京子、ごめん、なるべく火の粉払ったんだけど、そこだけ、穴あいちゃって……」
何を謝ってるの?
紅河さん、あの大火事の中、これを取ってきてくれたの?
どうしてそんなにしてくれるの?
火傷しなかったの?
命と同じくらい大切な書。
一枚しか書けない書。
どうして?
どうしてそんなに優しいの?
聡美さんいるんでしょ?
私なんか……
どうして……
私なんか……
高岡さんのまで……
どうして……
「う、うう、うう、う……」
言葉が出ない。
嫌がられても、怒られても、このまま背中に抱きついていたい。
駄目。
駄目だ、私。
駄目だよ、紅河さん、私……
…私、やっぱりあなたが好き。




