紫の煙霧 8.
肌色の『光の帯』が深越の頭部に重なるように揺らめく。
その先端がくるっと巻き、球の表面を形成した。
360度球体透視、これを白楼で教わった時はその空間的な広がりと上下感が薄れる感覚に目眩を感じた。
慣れてはきたが、刑事局や県警の使い手たちのように四キロの距離まで意識を拡げようとすると『溺れ』てしまう。
せいぜい一キロメートルが今の深越の限界だった。
その球体クレヤボヤンスに映る明滅する光は、百数十メートル離れた穂褄の『青』と、目の前の『紫』のみだ。
明滅していない光も視る。
数名の所員、古見原啓子所長、そして遠熊倫子も一キロメートル以内に察知出来た。
少し開けているガラス窓から冷んやりとした山岳の爽やかな風が入り、深越の横にボリュームを持たせたゆるいパーマのショートヘアを小さく揺らした。
…上空、眼下、『紫』は伸びていない。
だが深越はマルサン攻撃への警戒を解かない。
マルサンには視えない部分があるという、その論理が解明されていない限り、透視の届かない範囲に潜ませている可能性もある。
紅河少年の『マルサンを視るマルニクレヤボヤンスにはマルイチが意識の死角に入り視えない』という仮説は湖洲香から特殊査定班に報告と検証要請が上がっているが、未検証、深越にはその情報は全く降りていなかった。
刑事局の検証において、マルサンの使い手、仔駒雅弓は失踪、狩野佳洋は協力を拒んでいる、が現状である。
インターフォンの受話器を耳に当てたまま部屋のドアを凝視する深越の鼻筋を、汗がつつっと流れ落ちた。
もちろん暑さのせいではない。室温計は十九度を指している。
受話器をゆっくりと耳から離す彼女の目に、ドアが、否、ドアの前の空間が水面のように波打つ様が映った。
波打ちは徐々に人の輪郭を成し、ある瞬間唐突に実体がフッと現れる。
…回ってきた写真と同じ、奈執志郎だ。ミヤビカズキは、奈執だ。
恐怖心はある。少なからず動揺している自分を感じる。
だが、深越は難しい年頃の子供たちと何年も向き合ってきた高校教師。
肝の座り方も同じ三十代半ばの女性に比べれば違う。
また、死を覚悟して施した栂井翔子への指導経験が、深越の精神を一回り成長させていた。
「誰が入って良いと言ったのかしら? 奈執志郎さん。」
雅と名乗った『紫』の男は細い目尻を下げ、右手を後頭部へやった。
「あれぇ、もうバレました? いやはや、なんとも、ははは。」
「質問には答えるものですよ。」
「あ、はは、いやいやいや、許可証は? っておっしゃいましたよね、んで、無いけれど、入って良いってことかなーと。」
「この部屋での会話、全部記録されているのは判っているのでしょう?」
「あれ、え、あや、女性の部屋を録画とか? 趣味悪いですねぇ、警察庁さん。」
「おとぼけね。それともあなたには令状が出ていないから捕まえられない、とでもお考え?」
奈執は後頭部に当てていた手を下ろした。
ニヤけていた表情が戻る。
「はい。捕まりません。」
「あらまあ。ではお教えしましょう。あなたは誘拐容疑の参考人ですよ。」
「え、誘拐、それはまた、誰が誘拐されたのでしょう?」
「それは警察でゆっくり聞いて下さい。行きましょう。ひとまず道警に移動かしら。」
「ははは。言いましたよね、捕まりません、て。容疑の参考人じゃあ任意同行でしょ、行きませんよ、私。」
「ええと、私の高校の近くだったかしら、住宅街で、あなた、若邑さんの逮捕行動を邪魔していますよね。公務執行妨害適用、つまり任意ではないわ。強制連行ね。」
「あら、あれま、あれは穂褄君が紅河君たちに怪我させられそうだったので……一応、人命救助、ダメ?」
「仕掛けたのは穂褄君の方よ。ダメね。」
「あやー、これは失敗、私は公務執行妨害でしたか。」
どこまでもとぼけた男だ、と深越は思う。
狙いは何だ。
なぜ穂褄ではなく自分の部屋へ来たのか。
「さ、まず職長の所へ行きましょうか。」
「お、出来た。ちょっと待って下さいねー……」
奈執は両手の平を上に向けた。
何をする気か……全身に緊張を走らせて目を細める深越。
奈執の両手の上が透明の波打ちを起こし、直後、紙コップが二つ現れた。湯気が立っている。
「百八十円の一番高いやつにしました。こっちが砂糖だけ、こっちは砂糖とミルク、深越さんは砂糖だけの方でいいですか?」
通路の自販機のインスタントコーヒーだった。
…物質転送、というやつか。
「残念ね。私はブラックが好きなの。」
「あちゃー、またやった……いやぁ、学校の先生だから頭をお使いになるだろうし、甘いのをよく飲まれるかなと……うー、なんたる不覚!」
深越の警戒心が強まる。
なるほど、とぼけたような人を食ったような言動、いつの間にかそのペースに乗ってしまい、深越の意識はクレヤボヤンスから外れていた。
確かに今やっと、通路へと伸びていた紫の『光の帯』に気付く。
「すみません、今すぐブラックを買います!」
奈執は部屋の中央辺りにある低いテーブルに紙コップを二つ置くと、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。
ジャラジャラと小銭の音がする。
部屋の監視カメラは記録を続けているが、リアルタイムで監視されている訳では無い。
つまり、今ここに奈執が居ることを察知出来るのは穂褄だけだ。
それを知っていての余裕か。
だが、通路の監視カメラはリアルタイム監視だ。
警備班が気付いても良さそうな頃だが……
「結構よ。いらないわ。」
深越は内線電話の受話器に手を掛けた。
「あ、あ、あ、待って、ね、待って下さい、せっかく苦労してこんな素敵な女性の部屋に忍び込んだのに、話、話させて下さい、少し、ね、お願いします。」
…忍び込んだ? まさか、監視カメラを切った?
「無理ね。引き渡すわ、刑事局に。」
「えええ、それは無いですよぉ、だって私、誘拐なんかしてませんもん。穂褄君を助けたのだって大事な友人だし、罪の意識なんかこれっぽっちも無くて、ちょっと、ちょっとだけ、話、ね、お願いします。」
「お断りします。」
「どうして深越さんを訪ねてきたかと言いますとね、同じ使い手として、警察に虐げられてきた事をどう思われているのか、お考えを聞きたかったんです。」
「私は虐げられてなどいません。逆に救って頂きましたよ、警察に。」
「ほおほお、そういう能力者もいるんですね。」
奈執は感心したような表情でテーブルのソファに腰掛けた。
そして砂糖ミルク入りコーヒーを一口すする。
その図々しさ、物腰が、彼の小太りな体型や人懐っこい目鼻立と相まって、コメディアンでも見ているような可笑しさを深越は感じた。
だが、ペースに乗せられてはいけない。
「何を落ち着いていらっしゃるの。そこ、座らないで頂けます?」
奈執はハッと真面目な顔をしてコーヒーを持ったままスクッと立ち上がった。
「はい! すみません! 立ちます、ハイ! それで、その、深越さんは警察に救ってもらったから協力をされているのですか?」
駄目だ。
可笑しい。
奈執の態度に思わず吹き出してしまう深越。
「ご存知なのでしょう? 私の罪状。執行猶予中ですから。本当はこのような部屋、処遇も、私には贅沢なくらいです。」
「はあ、罪の償いとして警察に協力している、ということですか?」
「答える義務は無いわね。」
「そう、ですよね……」
奈執は神妙な顔で、再びソファに当たり前の様に腰を下ろした。
「座らないでと言っています。」
その深越の言葉は半笑いであった。
「あ、ああ、はい、立ちます。それで……」
再び立つ奈執。
まるでコントを見せられているようだ。
「実は、まあ知っているでしょうけれど、私は刑事局に恨みを持っておりましてね、その、深越さんと敵対するような、そんな状況は是が非でも避けたいのです。んく。」
彼はコーヒーを飲みつつ話す。
「敵対?」
「ええ、その、刑事局長の身辺におられたでしょう。ご要請に従われて能力も使われていたみたいですし、んく。」
「刑事局は私に強制はしませんでした。法に従い、正しいと思ったことは手伝わせて頂いた、それだけよ。」
「んく……それで、あの、その腕、結果的にって話かも知れませんが、大怪我されて。同じ使い手が傷付くのは嫌なのです。心苦しいのです。本心です。私の心、覗いてもらって構いません。」
深越は手を掛けていた受話器から手を放した。
チタン製のギプスを当てている左腕に目をやる。
「これも自分の意志です。どちらかと言えば教育者として、かしら。」
「そうですか。素晴らしいご意志です。あの子、栂井翔子さんも高圧的な教育を強制的に受けさせられて、一度は魂を抜かれて、戻されて、良いように使われて、被害者ですよ、可哀想に。」
奈執はソファの前に立ったまま、顔をうつむかせた。
「奈執さん、」
「はい。」
「あなた、詐欺の前科がお有りね。申し訳ありませんけれども、心を読むまでもなく信用していません。これ以上お話する気も無いわ。でもね、そんな悪人にも見えない。行きましょう、職長の所へ。人は、話し合いで事を解決するから人なのよ。」
「お言葉ですが深越さん、もう……もう言葉が通じる相手だとは思ってないんですよ、刑事局は。使い手を何人殺してきたか。それも、罪も無い子供の使い手ですら、ね。」
「……」
「お話が出来て光栄です。コーヒー、砂糖入ってますけど、よかったらどうぞ。もう行きます。」
…罪も無い子供の使い手。
テレポーテーションに入る奈執を、包み込む『紫』がほんの一瞬だけ白い光の過るその瞬間を、深越はマルイチテレキネシスで抑える行動を取れなかった。
透過状態の『紫』の中でまだ第一階層にも肉体が在る瞬間。
テレポーターを捕らえられる唯一の一瞬を、深越は情で逃してしまった。
迷い。
正義の立ち位置、その正当性。
刑事局捜査課や県警捜査課、そして特査ほどの情報は聞かされていない深越だが、白楼事件の折にテレパシーで何人かの使い手の意識に触れた。
断片的にではあるが、過去にあった使い手への残忍な仕打ちを知らない訳ではない。
何よりも、今の奈執の目。
『もう言葉が通じる相手だとは思ってないんですよ』と言った彼の眼差し。
それが、深越の心に一筋の影を落とした。
奈執達に加担する気は毛頭無い。
だが、警察の目に止まらず普通の生活をしてきた自分は、もしかしたらあり得ない幸運の中で生きてきたのではないのか。
能力者としては奇跡の自由、だったのか……
穂褄とは接触せずに消えた奈執。
もう少し話すべき、だったのだろうか。
深越は内線の受話器を取り、所長室の短縮ナンバーを押した。
今起きた事の報告書も作成しなければならない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
治信は雅祐実の情報をパソコンから携帯端末へ転送すると、バイクのキーをデスクの引き出しから取り出した。
耳には回線電話を当てている。
「賢永学園初等教育部だ。……ええ、今から雅祐実の履歴書と受験記録を確認してくる。」
『住民票は入手した。間違いなく雅和希と祐実は親子となっている。それと、新たな速報だ。奈執志郎が雅和希を名乗り札幌に現れた。』
「現れた? 道警には誰か行っているのですか?」
『特査の遠熊班長代理が行っている。関連施設の深越美鈴の元に堂々と瞬間移動して来たとのことだ。取り逃がした経緯や、同施設に拘留の穂褄と接触しなかったことなど、少々気になる報告書が降りてきている。』
「そうですか。詳細は今夜、例の場所で、崎真さん。」
『了解だ。』
治信は探偵事務所を出た。
バイクにまたがりつつ、考える。
奈執が深越に接触した、とは一体どういう意図なのか。
表面的には、能力者である深越を刑事局から引き剥がそうという考えだろう。
だが、それはおそらく真の目的ではない。
関連施設とは、湖洲香が幽閉されていた研究施設のことか。
その施設の情報も、以前佐海局長からある程度は流してもらったが、不充分だ。
…要は、奈執があっさりと雅である事を警察に掴ませた、その理由だ。
札幌。
テレポーテーション。
関連研究施設。
深越美鈴。
…皇藤も札幌か。札幌で杉浜への要求文書を書かせた、か。
となると、警察の捜査力は札幌へ投入されることとなる。
囮を使う詐欺師、奈執志郎。
そして奈執は、似広悟として本日会社へ出勤している。
午前八時頃、外回り営業という名目で会社を外出。
その後、札幌に現れた、という事になる。
この行動が示すものは何か。
偽物の似広悟を使えば、関東の取引先に顔を出している、というフェイクも一時的なら演出出来る。
顔を知られていない取引先に限られることにはなるが。
雅祐実が本物の仔駒雅弓だろう、という確証めいた感触がある反面、何かまだ、立ち込めている。
治信の視界を、一見クリアーな視界を、『紫』の煙霧が立ち込めているような気がしてならない。
…深越美鈴の報告書とやらを見てから、か。
今追っているのは雅弓の所在だ。
治信はバイクのアクセルを吹かし、私立賢永学園小学校へ向かった。




