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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第二章
191/292

紫の煙霧 2.

「来てる……」


今まさに机に突っ伏して寝ようとしていた紅河くれかわの耳に、それは微かに聞こえた。

三時限目の教科書を出しつつ手を止めた、湖洲香こずかの声。

紅河はわずかに顔を上げ、眠そうな目を湖洲香へ向けた。


奈執なとり、ですか?」


紅河の言葉に、湖洲香は机に視線を落としたまま首を左右に小さく振り、言う。


「紅河さんはここにいて。」


湖洲香の小さな額には縦じわが寄っていた。

それは、使い手脱走者の『光の帯』を察知した時の呆れと緊張がない交ぜな表情とは明らかに違う。

紅河は気だるそうに上体を起こしつつ、教室を出て行く湖洲香をしばらく横目で見ていた。


「ふあっ……」


大きく欠伸を一つし、隣の机に乱雑に出されている教科書に視線をやる。

『3-A 斉藤知子』と書かれた文字が目に入る。

くしゃくしゃっと頭を掻くと、紅河は怠そうに立ち上がった。


階段を駆け下りる湖洲香の胸中は複雑だった。

出来れば自分の潜入公務中には現れて欲しくなかった。

常時クレヤボヤンス発動の潜入護衛なのだから、気付かなかった、見逃した、は言い訳にならない。

現れたら即確保、県警へ連行、そう指示されているのだ。

器物損壊罪、傷害罪、殺人未遂に加え、殺人容疑も付いているマルタイ。


…キシト君、どうして現れたの。


テレポーテーション初動の隙は説明を受けている。

以前に義継よしつぐが偶然成したテレポーテーションへの追従、それも理論と動作は解明されていた。


…私が……私が捕まえなくちゃならないなんて……


言い訳させて。

もう叱られるのなんか慣れっこ。

逃げられてしまいました、って、本部に言い訳させて。

お願い、キシト君。


…私が行く前に、飛んで。


だが、一階昇降口が見える曲がり角まで来た時、『水色』と『黄色』は、まだそこにいた。

行かない訳にはいかない。

自分は確保指示を受けている県警の警官だ。

湖洲香は軽く息をはずませながら、徐々に気温の上がっていく湿った空気漂う昇降口へ、岸人と京子が立つ下駄箱の列へ、歩み出た。


「キシト君。」


湖洲香の絞り出す様な声に、岸人と京子が振り向く。

二人の表情は逆光でよく判らない。


…どうして、気付いてたでしょ、私の『赤』に。


岸人は慌てた素振りも見せず、逃げるでもなく、廊下の湖洲香へ数歩近付いた。

そして、その逆光のシルエットは、小さく頭を下げた。


「湖洲香、さん、いろいろ、すみません、でした。」


岸人の言葉に、自分でも何の感情なのか判らない涙が、湖洲香の瞳にぶわっと溢れる。


「キシト君……どうして……どうしてそんな……どうしてキシト君が謝ってるの……」


駄目だ。

止まらない。

泣くような場面じゃないのに。

止まらない、涙が止まらない。


「勘違いして、襲って、すみませんでした。」


岸人は再び頭を下げた。

京子は岸人と湖洲香を交互に見ている。

湖洲香は、涙で歪んでいく昇降口の景色を瞬きで振るい、頬を伝うそれを手の平で払った。

それでも、次から次へと涙は溢れてくる。


「ありがとう、蓮田はすだ班長に掴まれた時、助けてくれて、ありがとう、キシト君……」


言わなきゃ。

ご同行願いますって、言わなきゃ。

テレポーテーションは無駄よって、言わなきゃ。

一歳だったのに。

キシト君、まだ一歳だったのに。

お母さん、キシト君のお母さん、優しい保母さん、亡くして。

銀色の『光の帯』、私が気付いていたら。

あの時、横に、私、いたのに。

キシト君のお母さんと寝てたのに。

私、いたのに、あの時、いたのに……


か細く震えた聞き取りにくい言葉が、湖洲香の口から漏れ出す。


「だって……なんにもわからなくて……守り方とか、知らないし……お母さんが、キシト君の……殺されちゃうなんて……ごめんなさい、ごめんなさい、キシト、くん……」


岸人は、湖洲香の繋がらない言葉に刹那顔をしかめたが、どうやら十六年前の母の死を止められなかった事を謝っているらしいと気付いた。だが、どう言葉を返していいかわからない。

京子が湖洲香に歩み寄り、ハンカチを差し出した。


「湖洲香さん、これ……」


その京子ももらい泣きか、目を潤ませている。


「やっぱ岸人か。」


中央階段に通ずる角から、紅河がのそのそと歩いて来た。

彼はチラッと湖洲香と京子を見ると、ため息をついた。


…よく泣くなぁ、この二人は。


「教師に見つかるとやばいんじゃないのか? 次、体育とかあるクラスはここ通るぞ。」

「ああ、もう行く。」


岸人の言葉を聞き、ハンカチで顔を拭きながら湖洲香が彼に走り寄り、左手で岸人の腕を掴んだ。


「ご同行、うっ、願いまふっ、うっ、す……」


岸人は掴まれた腕を振りほどくでもなく、やや顔をうつむかせて言う。


「まだ捕まりたくない。」

「むっ、うっ、無駄ですわ、うっ、うっ……どうして、どうして……」


湖洲香の左手が、力なく岸人の腕を放した。


「どうして……じゃあどうして早く逃げないんですの? 私、私、わたし……うっ……」


京子は目に涙を溜めておろおろしている。

紅河は顔をしかめて頭をぽりぽり掻き、言った。


「岸人、一回警察に行ったらどうだ。湖洲香さん泣いてるし。事実を話すだけ話して、そんでテレポートしちまえばいいだろ。」

「ん、めんどい。」

「仕方ないだろ、義継クンに一度大怪我させてんだし。殺人容疑だけでも晴らして来いよ。」

「捕まって逃げるとか、犯罪者みたいでやだ。」

「令状だけは立派な犯罪者だろ。」

「はっきり言うな、他人事だと思って。」

「思って無ぇよ。」


紅河は声に少し力を入れ、続ける。


「っつーか、俺も行く、警察。岸人、お前のことは他人事じゃねぇんだよ。岸人がいなかったら俺は深越ふかごしに殺されてたよ。刑事犯罪の容疑者ってのはそいつの人間性をすげぇ見られるんだ。俺が知ってる岸人を洗いざらい話す。湖洲香さん、」

「うっ……ともりんですわ……うう……」

「あー、はいはい、ともりんさん、先生に俺を連れて警察に戻るって、理由なんか上手く言って下さい。岸人はトイレの個室にでも隠れてろ。京子は授業に戻れ。時間ないぞ。」

「トイレとか無理。門外の桜並木のとこで待ってる。」


…お、意外とあっさりと警察行く気になったか?


トイレという言葉を聞き、京子は急に思い出した。

トイレに行く為に教室を出たことを。


「あ、じゃ、あの、戻る……」


小走りでトイレの方へ向かい掛けた京子を見て、紅河はあることを思い出した。


「あ、そだ、京子、」

「え……」


京子はそわそわしつつ振り返った。


「ちと返すもんがある。警察から戻れたら今日、戻れなかったら明日、渡す。」

「え……」


返すもの?

なんだろ。

返すって?

何か貸してたっけ。

返す、返す……あ。


…御守り、陰徳陽報の書かな。


返すんだ。

返されちゃうんだ。

そっか。

そうだよね。

聡美さとみさんいるし。

ああ……返されちゃうのか……


京子は紅河の方を向いたままうつむき、再び涙を滲ませる。

紅河は悲しそうに顔を歪ませる京子を見て、頭に手をやった。


…なにまた泣いてんだ、意味わかんねー……


「早く行けよ。」

「う、うん……」


京子は鈍臭そうによろけながら小走りで離れていった。

紅河は周囲を素早く見回し、岸人に言う。


「誰も見てない。早く飛べ。」


岸人は頷き、テレポーテーションに入った。


「紅河さん、キシト君、どこかに逃げてしまったり……」

「しないだろうね。逃げる気ならとっくに逃げてるし、あいつが桜並木で待ってるって言ったら絶対に待ってますよ。そういうやつです。」


…なにかしら、この説得力。不思議な子、紅河さん。


「先生の所に行ってきますわ。先日何人かの生徒さんに見られた狩野かのう君の事で聴取と報告、って言ってきますわね。はい、これ。」

「ん、何です、このハンカチ。」

「小林さんの。お返しするのは紅河さんの役。」

「は? 自分で返して下さいよ。」

「紅河さんが小林さん係ですわ。」


…なんだその役とか係とかってのは。


湖洲香はぐっしょりと濡れた京子のハンカチを紅河へ押し付けると、職員室へ向かった。


紅河が戻ってきた湖洲香と正門を出ると、岸人の姿は見当たらなかった。

少し心配になる紅河。


「湖洲香さん、クレヤボヤンス、どう? 岸人、います?」


湖洲香はニコッと微笑む。


「いますわ。桜並木道の真ん中辺。行きましょ。」


岸人は和歌の刻まれた石碑の供物段に腰掛けていた。

三人はタクシーを拾い、県警に向かう。

湖洲香は思った。

紅河がいてくれて良かった、と。

岸人と二人だけでは、どうにも間が持つとは思えなかったからだ。

しかも、形式上は確保連行であるが、岸人も同意していることは大きな意味を持っている。

紅河が昇降口に来てくれなかったら、こうはならなかっただろう。

岸人が逃亡せずに待っているということを信頼していた紅河。

これは、この信頼感というものは逆が成立するからこそ存在する。

つまり、紅河は岸人に信頼されているのだ、という事が湖洲香にもよく解った。

先の説得力も、別に不思議ではないのだ、と気付く。


…そっか、絶対に人を裏切らないものね、紅河さんは。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


治信はるのぶは区役所の所員を装い、公立小学校の資料室で中途編入生徒の個人データ書類を洗っていた。


…これか。


似広まゆみ。

生年月日、年齢、現住所、通学開始時の新居所在地、幾つかの偽造らしき情報もあるが、治信の知る仔駒雅弓こごままゆみの個人情報と一致する。

そして、証明写真。


「……」


ツインテールを止めているゴムの色、目鼻立ち、仔駒雅弓本人に見える。

だが、どこか雰囲気に違和感を感じる。


…写真というものは往々にしてこんなものか。


疑いの目が無駄にカンを鈍らせることもある。

個人情報と、何よりも『似広』という苗字、それに父親の名前……似広悟にひろさとる


…私を甘く見たな、奈執志郎なとりしろう


お前の失態は弟の義継に接触を図ったこと、その時点で負けていたのだ、と治信は内心で独り言ちた。


「教頭先生、編入の転校生は授業開始の九月一日以前に登校される機会はありますか?」

「ああ、役所指定の保護者説明会は夏休み中にありますね。大丈夫です、ちゃんと行いますよ。」

「そうですか。宜しくお願い致します。」


…ちっ、日程は区役所で調べるか。


小学校の公式サイトには中途編入に関する行事が記載されていない。

仕方なく治信は、小学校を出ると区役所へ向かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


渋谷区松濤。

比較的高級住宅の多い宅地の一角、木目の模様に塗装されている壁が続く豪邸の前に、深谷ふかやは車を停めた。

皇藤こうどうの自宅である。

車を降りた古見原こみはらと深谷は、頑丈そうな木製の門の前に立つ。

古見原が門柱のコールブザーを押した。

インターフォンから女性の声が返る。


「はい。」

「警察庁刑事局捜査課の古見原と申します。満秀みつひで様とお約束を頂いております。」

「はぁ……少々お待ち下さい。」


一分ほど待たされただろうか、インターフォンからさっきの女性の声が言った。


「旦那様はお留守です。お改め頂けますか。」


古見原と深谷は目を見合わせた。

古見原は腕時計を見る。

約束の時間、その五分前だ。間違いない。


「ご本人とお約束頂いておりますので、外出でしたら待たせて頂きますよ。」


古見原の言葉に、意外な返答が返ってくる。


「それが、旦那様はご旅行に出られております。二週間ほど戻らない予定です。」


…なんだと?


皇藤と古見原は電話で直接アポ取りを行っていた。

使い手の精神感応は使わない、といった約束まで取り付けた会話だった。間違いない。

古見原が深谷に耳打ちする。


「透視だ。マルニでいい。中に何人いるか見ろ。」

「は。」


深谷が皇藤邸の中を視る。


「二人います。位置も掴みました。マルイチで確認しますか?」

「待て。」


古見原はインターフォンに向けて言う。


「おかしいですね、確かに本日この時間にと……奥様は居られますか?」

「少々お待ち下さい。」


二分ほどして、やや落ち着いた声の別の女性がインターフォンに出た。


「皇藤の妻でございますが。」


古見原は再び深谷へ視線を向けた。

中に二人。

ということは、女中のような最初にインターフォンに出た女性と、今の妻と言っている女性、二人のみ、か。


「ああ、奥様、恐縮です。刑事局捜査課の古見原と申します。実は本日、皇藤元警察庁長官とお約束頂いておりまして、何か、ご旅行に出られていると?」

「古見原さん? あの、医療班長の?」

「医療班の古見原は私の父です。私目は刑事局の捜査課を預からせて頂いておりまして。」

「あらまあ、息子さん?……ちょっと、ちょっと……」


皇藤の妻は女中を呼んでいるらしい。

インターフォンはブツッとオフになった。


「深谷、マルイチだ。物に触らないよう気をつけてな。」

「は。」


深谷は灰色の『光の帯』を第一階層であるこの三次元空間に出すと、人の魂が視えた場所の透視を再開した。

白かったマルニの透視空間は、現実世界の実体に変わる。


「ん……あ、来ますね、この門に、女性二人です。」

「それ以外は?」

「やはり屋敷の中には二人しかいません。」

「ふん。」


カチャリと内鍵の音がし、木製の門戸が開いた。

四十代くらいの女性がまず顔を覗かせ、その背後から七十代の女性が出てきた。

七十代の女性が言う。


「なんとも、古見原さんの息子さんとは知らず、ごめんなさいね、こんな化粧もしてない顔で……」

「あああ、いえいえ、これは、いやはや、こちらこそ恐縮でございます、申し訳ありません、ここまで出て頂くなど……」


古見原は深々と頭を下げ、深谷もそれにならった。


「急でしたのよ、皇藤は昨夜に家を出て、お約束? まあ、あの人はもう、忘れているのかしら……」


…急、だと? 奥様が事前に知らない旅行?


「ああ、いえ、いらっしゃらないのでしたら出直しますので、お構いなく。長官はよくお一人でご旅行を?」

「あら、もう長官ではないでしょう、ほほほ。」

「はははは。」

「隠退の後は、一人でなんて一度も無かったのよ。私にも突然言って、初めてだわねぇ。」

「どちらにご旅行で?」

「札幌に旧友に会いに行くとか……身仕度も直前にやり出して、あれが無いとかこれが無いとか、まあ、これがてんてこ舞いで。」


皇藤の妻は女中を指差した。

女中が苦笑いする。


…北海道、だと?


「そうですか。お一人で。」

「ああ、お連れの方が迎えに、お若い、なんて言ったかしら。」


皇藤の妻が女中に視線を向けると、女中が答えた。


みやび様とおっしゃってましたね。」

「ミヤビ、さん? 男性の方ですか?」

「そうそう、古見原さんもご存知の方?」

「いえ、存じませんね。おいくつくらいの?」

「三十代かそこいらだったかしら、体格の良い、ニコニコした、ねぇ。」


…三十代、男、体格の良い、ニコニコ……


古見原は警察庁内に心当たりを探したが、三十代四十代は皆殺伐としておりニコニコに該当する男が思い当たらない。

そもそも、ミヤビという名の者は記憶している限りではいない。

警察庁の関係者ではなさそうだ。

警視庁か、所轄か、はたまた全く警察とは無関係の者か。


「そうですか、いや、立ち話までさせてしまいまして、有難うございました。お帰りのご予定は、二週間と申しますと、八月に入った頃ですかね。」

「はっきりと日程は言ってなかったわねぇ、二週間とだけ……」

「ああ、いえ、プライベートなことに、失礼を致しました。」

「いいえ、御免なさいね、せっかくいらしたのに……よろしかったらお茶でもどう? 医療班長は何度か見えてたのよ。粗末な家ですけど、どう?」

「うははは、奥様、この豪邸が粗末と言うのでしたら私の家などはウサギ小屋以下ですよ。いえ、お誘い恐縮ですが、本日はこれにて失礼させて頂きます。」

「あらそう、まあ、いつでもいらしてね。言われてみれば面影がありますわねぇ、古見原さんの。」

「これはどうも……では、失礼致します。」


古見原と深谷は丁寧にお辞儀すると、車に乗り込んだ。


「おい、皇藤満秀、ミヤビ、この名前で航空便利用者、洗っとけ。札幌行きだ。」

「はい。」


急な旅行とは、何か匂う。

約束を取り付けた時はそんな素振りも見せず、日本酒を取り寄せておくとまで言っていた皇藤。

亡き父、古見原一成と付き合いの深い皇藤が、息子である自分との約束を黙ってフイにするというのもおかしい。


…札幌の旧友、ミヤビという三十代の男、逃げるようにいなくなった突然の旅行……


知らぬ人物が浮上し、杉浜や佐海藤吉との裏の絡みもはっきりしない状況に、『能力者狩り』の実態は霞む一方だ。

また、美馬詠泉の『無人テロ事件』はどう絡むのか? 絡まないのか?


「あの子の手、借りるかなぁ。」

「は?」

「いや……」


少々苦手な女性だが、何か知っているかもしれない。

特殊研究班長、遠熊とおくまの娘……


倫子りんこちゃんか、今は県警の特査か? 苦手なんだよなぁ、あの子。

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