涙の跡
紅河淳の聴取査定を終えた特査班は、次の査定対象のファイルを受け取った。
その査定対象との面談打合せをするため、班長の蓮田、赤羽根、若邑湖洲香の三名は大型モニターの設置されたミーティングルームへ集まった。
蓮田班長は湖洲香へ気遣いの言葉をかける。
「若邑君、連日の激務お疲れ様。明日は最も『能力』を酷使する可能性がある。疲れていないか?」
湖洲香はニコッとして答えた。
「大丈夫です。今日の紅河淳さん、ほとんど嘘をつかないんですもの。素直で、思い遣りがあって、逆にリフレッシュしちゃいました。」
「そうか。では早速…。」
蓮田班長は大型モニターに対象人物データを表示させた。
すると、それを見た湖洲香が、かすかな声を上げた。
「は…!」
皆月岸人、17歳、男、私立城下桜南高校在学中、二年生。
蓮田と赤羽根は、声を出した湖洲香の方を同時に見た。
赤羽根が声を掛ける。
「どうしたの、コズカ。」
湖洲香はモニターを凝視しながら、半開きの口を震わせている。
「あ、あの…皆月…皆月岸人って…」
「え?」
赤羽根は怪訝そうな表情をした。
先に気付いたのは、蓮田の方であった。
「…あ!皆月!」
モニターに目を戻した赤羽根も、やっと気付いた。
「あ…」
16年前、湖洲香を警察が拘束するきっかけとなった一件、心臓破裂の怪死をとげた人物、その名は……皆月陸子である。
皆月陸子には子が一人おり、当時1歳の男の子…
赤羽根は座ったまま椅子をズアッと滑らせ、手近のパソコンのキーボードを叩いた。
その男の子の名は……岸人であった。
蓮田は右手で自分の顎から口元をギュッと覆うと、自分の迂闊さを悔いた。
…なぜ事前に気付けなかった。
…若邑君に見せる前に、なぜ私はフィルタリングしなかった。
赤羽根は湖洲香の方を見た。
湖洲香は顔が真っ青になっており、額に汗を浮かべている。
…コズカに聴くまでもないわ。
…この面談は中止だ。
「蓮田班長、業務の中止要請を。」
「う、む…そう、するしかないな。」
蓮田はパソコンに向かい、業務中止要請の書類を入力し、送信した。
湖洲香は唇の色まで真っ白になり、うつろな目で虚空を見ていたが、右手を額にあてると椅子の上で上体をうずくまらせた。
彼女は目眩を起こしていた…。
40分後、業務中止要請書類が蓮田のパソコンへ返送されてきた。
『要請は却下。業務は遂行する。
但し、聴取要員には別の者を派遣する。
派遣段取りに2日を要する為、業務日時を以下へ変更…』
蓮田は内容を確認すると、業務変更の概要を赤羽根と湖洲香へ口頭で伝えた。
「…と、いうことで、聴取査定は行うが、若邑君は外れてもらう。赤羽根君には『代わりの聴取要員』との通信面談を急遽行ってもらう。」
赤羽根は前髪を頭の上までかき上げる仕草をすると、
「皆月岸人は『使い手』でしょう?対応できる人員がいるとは思えませんが?」
と言い、大きくため息をついた。
蓮田は湖洲香をチラッと見ると、赤羽根に視線を戻し、言った。
「細かいことは後で話そう。本日の打合せは一旦終了とします。」
そして、赤羽根に『若邑君を休ませて』という意味の目配せした。
察した赤羽根は頷いた。
「コズカ、立てる?少し横になりなさい。私も横に付いてるから。」
赤羽根は湖洲香を抱き抱えるように立たせると、仮眠室へ連れて行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
皆月岸人は、担任教師から、警察に行く日が2日延期になった旨、連絡を受けた。
…何を画策している、警察。
…何をされようが、湖洲香を殺す。刺し違えても、殺す。
…まさか、湖洲香を匿うのか?
…それなら、こちらから仕掛けてくれる!
岸人は冷静さを欠いていた。
母親の仇を討つ、それだけを考えて生きてきたと言っても過言ではない彼にとって、目立たない身なりや振る舞いも全て、湖洲香に悟られずに見つけ出すための、言わば潜伏だった。
その仇が見つかったのだ、冷静さを失うのも無理からぬことだった。
岸人は、暗殺を行う決心をしていた。
…問題は一つ。出頭先の警察署に湖洲香は常勤しているのか?自宅への帰宅などをするのか?
今日、学校が放課となった後、下調べに向かうこととした。
…見つけたら、その場で心臓を握り潰してやる。
岸人は勉強道具を全て教室に置いていき、鞄も持たず、手ぶらで正門を出た。
正門を出た直後、岸人の身体が陽炎のようにユラユラ波打ち…スウッと見えない壁に入っていくようにして、消えた。
岸人の視界にあった桜並木は、水面に映った景色のように揺らめくと、一瞬何もない白い景色となり、揺らめきは徐々に建物の形を成し、目の前に現れた。
県警の建物である。
国道の歩道にある街路樹の一本の物陰から、岸人の身体は現れた。
岸人本人にも、このテレポーテーションの原理は解らない。
自身の身体を、空気の膜のように『光の帯』で覆い尽くし、拡散し続ける宇宙空間のようなイメージを頭で行い、『入って』、イメージを目的地の一点に収縮させ、『出る』。
感覚的には2歩、歩くだけである。
異次元空間だとか、空間と空間を繋げるだとか、ネット等で調べてみたことはあるが、岸人にはピンと来なかった。
彼にとって原理などどうでもいいことだった。
この『光の帯』の使い方に至ったきっかけは、帯を通して『見える』不可解な景色、その景色の中に入れるのかどうか、という好奇心だった。
初めて『入れた』時、本能的に気付いたことは、上下の判別もつかないこの空間の中に居続けてはまずい、という感覚。
それは、自分の肉体が『呼吸できていない』という気付きもあった。
息苦しくないのに、呼吸をしていない…この状態が、身の危険を思わせた。
『出よう』と、もとの世界を思い描いた時、岸人の身体は、『入った』場所から数メートル移動した場所に『出た』のだった。
…湖洲香の思念、探すのは一苦労だな。
岸人は、クレヤボヤンスを使った。視覚的に、19歳の女を捜すのである。
外から県警の壁の中へ『光の帯』を侵入させる。
署内で『光の帯』をこの三次元空間に出現させ、『観る』。
…若い女、多いな。
事務仕事に当たっている女性はほとんどが名札を付けており、名札を付けていない署員はその『思念』を覗き『聴取』とか『査定』に関連する思考を捜したが、よくわからず難航した。
…甘かった、難しいぞこれは。
それでも岸人は諦めず、全署員を隈なくあたり、消去法で数人に目星を付けた。
その中には……仮眠を取っている湖洲香もいた。
岸人は、睡眠中の人間の思考はなるべく読まないようにしている。
経験上、頭がおかしくなりそうな奇怪な情報の渦に巻き込まれるからだ。
…湖洲香も『光の帯』を出していれば一発なんだが。
退署する者、署に寝泊まりする者にもあたりを付けた。
岸人は睡魔に襲われ、一旦帰宅することにした。
テレポーテーションで自宅の玄関に『飛ぶ』と、睡魔に耐えられず、そのまま玄関で横になり、眠った。
岸人は夢を見た。
写真の顔しか思い出せない母、その母が幼い女の子を抱いている。
…母さん、その子、誰?
岸人は手を伸ばすが、母はどんどん歩いていってしまう。
…待って、母さん、母さん。
走って追いかけるが、追いつけず、離れていく。
…母さん、母さん、母さん…
ガタンッ!
明け方、岸人は物音に目を覚ました。
見ると、自分の『光の帯』が台所の椅子に伸びており、その足を一本握りつぶしていた。その椅子が倒れた音だった。
岸人の頬には、涙の跡があった。