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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第二章
188/292

ヤーヌスの夢 9.

巨大な『手』に掴み上げられた看護師の霊は、黒い空間の更に下、地下二階の一室に降ろされた。

その一室には幅六十センチ、長さ百七十センチの木製の板が規則正しく床に並べられており、その板にランダムに付いた黒いシミを中心に生えたカビと木の腐敗臭が充満している。

遺体安置室として使われていたそこは、遺体は全て回収されているが、高い湿度が床や壁、天井にまでカビの繁殖を広げていた。


『手荒な真似をして申し訳ありませんでした』

『戻らないと……皆苦しんでる……私が……』

『休息も、必要ではありませんか?』

『行かないと……私が行かないと……』

『では、この子を診てあげてもらえませんか?』


部屋の中央に佇む看護師の霊の前に、いつの間にか子供が立っている。

その子供は、首に一筋の赤い線があり、そこから血が滴っていた。

看護師を包み込んでいた透明の巨大な『手』は、彼女を離れて子供に触れる。


『頼みます、御笠一巳みかさかずみさん』

『早く見せてよね、終わりを、さ』

『もう少しです』


巨大な『手』は所々を金色にきらめかせながら、御笠一巳の霊から離れて行った。

巨大な『手』の本体、包帯の男は思う。

これは死んでいるというのか? 生きているというのか?

脱走者、御笠の肉体はとうの昔に死んでいる。

深谷寿ふかやひさしのテレキネシスで首を切り落とされた。

だが、御笠の『光の帯』は蒸散せずに第二階層に留まったままなのである。

第三階層では白い光の玉となって浮遊し、第二階層との行き来を繰り返しているらしい。

また、第一階層に本体の無い『光の帯』として出現することも出来る。

ポルターガイスト現象を感情の高ぶり無く冷静に意のままに起こせる霊、御笠一巳。

彼の存在が包帯の男にあらゆる『光の帯』の性質を知らしめた。言わば師匠のような存在だった。

御笠は言う。

自分は自由気ままに遊んでいるだけだ、と。

死への遺恨も、深谷や刑事局への恨みも無い。

肉体の死はもちろん認識しており、首が落とされた時の恐怖も覚えているが、幽体だけの存在になった時、全てがどうでもよくなった、と彼は言う。


…生きているというのか? 死んでいるというのか?


それは死者と生者の境目はどこだ? という問い掛けと似ているな、と包帯の男はふと思った。

肉体は重い。

病気になるし、怪我もする。

肉体を失った後に精神だけの世界が存在すると知ったなら、どうして肉体の維持にこだわる必要があるのか。

そんな哲学的な事までふと考えてしまう。


…知らないから、人は生きていけるのだろうな。


かく言う自分も、やはり第一階層属性の、三次元空間属性の肉体の脳で思考する。

だから、肉体を捨て去ることに一抹の不安を覚えるのか。


…達観するにはまだ早い、かな。


精神だけの世界へアクセス出来る鍵を持つ者、『光の帯』の使い手。

今の包帯の男の価値観、世界観では思ってしまう。

『光の帯』の使い手……それは肉体の死に一歩近付いてしまった者か、と。

だが、まだある。

持っている。

怒りと憎しみを。

崖から転げ落ちていく自分、それを客観視したビジョンがフラッシュバックする。

生還は、奇蹟が起きたのでは無い。

助けられたのだ。

既に肉体を失っていた能力者、御笠一巳の『光の帯』に。

気まぐれに漂っていた彼に。


黒い空間の部屋で、ぐったりと椅子にもたれ掛かっていた包帯の男は、顔をゆっくりと上げて、椅子を立った。


美馬みまさん、帆海ほのみさん』

「ん。」

「なんだ。解く気になったか、結界。」

『ここに捜査の手が伸びたきっかけは狩野かのうさんを引き入れようとした一件です。私も賛同しました。あなた方だけが苦しむ必要は何もありません。ですが、ご存知の通り、彼はどうしてもここを動いてくれない』


彼、とは、立ち上がった包帯の男のすぐ背後にいる霊である。

その霊は、今は誰にも意識を向けておらず、人間の輪郭はあるものの具体的な姿は現していない、オレンジ色の輪郭を持った白い光だった。


『彼の記憶だけはどうしても渡せない。ですから、野神のがみさんと喜多室きたむろの脳の海馬を潰しましょう』


海馬を潰す、と聞き、美馬は蒼ざめた。


「ま、待つんだ。短期記憶、今何をしていたのかを忘れさせようということなのだろうが、駄目だ、海馬は全ての記憶の入り口だ。人の海馬を潰すなど……」

『どうしても守らなければならないのです。この……』


包帯の男は背後の霊の方へ身体を向けた。


『この、皆月真人みなづきまさとの記憶だけは、絶対に渡せない』

「それはわかるが、脳の器官を潰すなど……それなら殺した方がマシだ。脳の構造は現代医学でも未解明な部分がほとんどだ。どんな悪影響や後遺症が出るか……」

『あの刑事たちは、浮遊霊の怨念にも、スピリウルの攻撃にも怯まない。忘れさせなければ必ずここに到達します。喜多室は私の……』


私の正体にまで迫った、と言おうとして、包帯の男は意識を遮断した。

美馬や帆海たち脱走者にも自分の正体は明かしていないのだ。

個人的な自己防衛、平等な立場を謳っていながらひた隠しにしている自分の素性、その後ろめたさが刹那、包帯の男の意識を過ぎった。


『……では、美馬さん、何か代案はありますか?』

「ん、そう、ですね……要はこの部屋に踏み込ませなければいい。刑事局が追っているのは我々脱走者リストに名を連ねる者、それと仔駒雅弓こごままゆみだろう。『光の帯』を見せた私と帆海さんが出よう。白旗です。それと同時にあなたの結界を解く。皆月真人の霊は、他の浮遊霊と何ら変わらない者に見えるでしょう。この部屋に踏み入る必要性を無くしてやればいい。」

『それでは、美馬さんも帆海さんも警察に監禁されてしまうでしょう。私は一人になっても行動しますが、あなた方が犠牲になっていいということは無い』

「一度捕まっている身だ。また逃げるさ、な、帆海さん。」

「アタシは!」


ガアン!


帆海は部屋のドアを蹴り、美馬と包帯の男へ振り向いた。


「何も悪いことしてない! 警察に捕まる理由なんか無い! ゆうちゃんと逢えればそれでいいんだ! もう、それで、もう、いいんだってば!!」

「一時的に、だよ、帆海さん。」

「意味わかんねぇっつーの! え!? 晴らすんだろ? 殺された使い手の! 言ってたじゃないか! 思い出してくれる人もいなくて! 一人で死んでって! ゆうちゃんみたいに殺されて! その為にここ守ってんじゃねぇのかよ! なんで捕まりに行くんだよ! 意味わかんねぇ!!」


美馬のクレヤボヤンスに、包帯の男のクレヤボヤンスにも、『紺色』の接近が映った。

『薄緑』が床の穴から地下一階へ降りてきたのも視える。

美馬の目付きが変わった。


「とにかく脳の一部を破壊するなど、刑事局の特殊研究班とやっていることは変わらない。そんな非人道的なことは賛成出来ない。帆海さん、出るぞ。」

「野神! ゆうちゃん! 野神!」


美馬は赤茶色の『光の帯』で自身と帆海を包み込むと、テレポーテーションに入った。

包帯の男は、再び椅子に座った。


…こうも追い詰められるとは思っていなかった。


万全だと考えていたこの廃病院の守り。

外から障害要因を削ってくれると思っていた篠瀬が、穂褄が奪われ、手薄になっていったその原因は何だったのか。


紅河淳くれかわあつし


何なのだ。

あの非能力者は、あの高校生は、一体何者なのだ。

奈執なとりは言っていた。

篠瀬佑伽梨殺害へ誘導したのはあの高校生ではない、穂褄を意気消沈させたのはあの高校生への畏怖ではない、ただの平凡な少年だ、と。

ではなぜ、全てにあの紅河が関わっているのか。

今この廃病院の外にいる狩野佳洋、彼もスピリウルを身に付けた後、紅河と接触していたようだ。

運命の悪戯や偶然が、あの少年に邪魔させているとでも言うのか。

そして……


…赤い魔女、若邑湖洲香わかむらこずか


能力霊体の完全体はおろか第三階層にも入れない赤い使い手。

甘く見ていた、とは思いたくない。


…やはり、独りでやるしかないのか。


包帯の男は美馬と帆海の動向を追いかけつつ、考えた。

何か、ある。

自分に見えていない、何か大きな障害となる力が、どこかにあるのだ。

それは紅河のスナールだとか若邑のテレキネシスだとか、そんなちゃちなものではない。

それを見極めるまでは、美馬も、帆海も、奈執も、まだ使う。

狩野も、仔駒も……


栂井翔子とがいしょうこ深越美鈴ふかごしみすず……


使える可能性のある手駒は、増やせるなら増やした方がいい。

そうだ。

皆月。

皆月岸人。

そろそろ父親の存在に辿り着くかも知れない。

御笠一巳も見ている。

慎重になり過ぎた。

動くのだ。自分で、動かなければ。

更に、最後のピースかも知れない人物……若邑兼久わかむらかねひさの行方も探す……。


西玄関方向から進んでいた野神は、迷路のような廃病院本館の中、十数メートル先に深谷の『光の壁』を視認するに至っていた。

所々に佇む地縛霊は、元は自分と同じ人だ、と考えても、やはり言い知れぬ恐怖を感じる。

背後を音もなく追い掛けてくる霊もあった。

死因を体現したビジョンを視てしまうことは霊障を受けてしまうサイン。

無視する、と言っても、そう容易くはなかった。


『喜多室さん、目前に来た。やはり何も透視出来ない。深谷も一角に張っている』

『こちらは距離にして二、三十メートルか。鏡水かがみずさんは私のすぐ背後だ。合流しよう』

『了解』


野神の『了解』とほぼ同時だった。

黒い空間の外に『赤茶』、『灰色』、『黄緑』の本体を示す明滅する光が現れた。


…三人……ん!


空間が揺らめき、暗がりに現れた本体、人の姿は、二人。

だが、光は三体。


…どういうことだ。


野神は第一階層クレヤボヤンスと第二階層クレヤボヤンスを重ね、集中する。


…な、これは!


野神は歩みを止め、一歩後退ってしまった。


…男、の身体の中に、魂が二つ、なのか。


初めて察知した男の正体に野神は驚愕した。

慌てて喜多室へ伸ばしていた『紺色』を引き戻す。

これといった根拠があった訳ではないが、魂を二つ持つ男の前で無防備に『光の帯』を伸ばしているのは危険ではないか、と思ってしまったからだ。

黒い空間の部屋、その前の通路に現れた男と女。

その向こうに、今しがた姿を現したのは喜多室だった。

彼は背後に鏡水の『灰色』を従えている。

喜多室も、鏡水と深谷も、野神と同じ警戒心を抱いた。

二つの魂を持つ男、背格好は若いが頭髪の左半分が白髪のその男が、野神と喜多室双方へ向けるように両の手を左右に開いた。


「ようこそ、野神さん、喜多室さん。美馬恒征と申します。初めまして、と言うには、もうかなりやり合いましたっけね。」


喜多室と野神は少しずつ間合いを詰める。

二人が最も警戒しているのは女、黄緑の方だった。

近付き過ぎては唐突な精神感応を避けられない可能性もある。

二人は美馬から五メートル程の距離まで近付いた。

喜多室が先に口を開く。


「美馬、か。言うまでもなかろう。傷害罪の現行犯だ。ご同行願う。」

「はい、承知しました。」

「その部屋、透視すると黒いものに覆われているな。何がある。」

「何もありませんよ。これは私の仕掛けたスピリウルの煙幕。第三階層に漂う素粒子の超振動、その影響が残っているに過ぎません。」

「中を改めさせて頂きたい。」

「はははは。他と同じ、怖い幽霊が何体かウロウロしているだけです。」

「その煙幕とやらを解いてもらおう。」


美馬はかすかに眉をひそめた。

…何をしている、早くここから離脱して結界を解け。


「それがね、しばらくはこうなんですよ。入ることも出来ない。さぁ、行きましょう。警察庁ですか? それとも、ご自慢の白楼はくろうですか?」

「仔駒雅弓を捜している。中を確認する。」

「仔駒? 誰もいませんよ。地縛霊以外はね。」

「信じよう。だが、刑事というのは、現場を確かめずに戻ると減給なんだ。その煙幕はいつ解ける?」

「どうでしょう。その時によって時間はまちまちです。五分で解けることもあれば、何週間もこのままの時もある。」

「のがみぃ!!」


美馬の言葉に被るように、女が声を発した。

そして、同時に黄緑の『光の帯』がユラッと女の頭上に現れた。

野神は警戒しつつ深谷の『灰色』にテレパシーを入れた。


『消せ。私の背後まで戻せ。危険だ』

『はい』


そして口を開く。


「武儀帆海だな。『光の帯』を使うことを禁ずる。先刻、喜多室巡査に用いたな、それも傷害罪が適用される。現行犯だ。」

「は! アタシは何もしてねぇよ。なんだよ、出しただけで罪かよ。ざけんなっての。」

「何もしてない、だと?」

「そうだよ! 喜多室に聞いてみろよ。アタシが何か語りかけたか? 触ったか? 火とか水とか出したか? なあ喜多室。」


喜多室の目に少なからず怒りの色が滲んだ。


「肉親の幻覚を見た。何もしてないなどと。」

「は! うひははははは! きひひひはは! 幻覚? なんだよそれ。喜多室、あんたが見たのは本物のエクトプラズムだよ。」

「エクトプラズム? お前自身のか。」

「違うって。アタシのエクトプラズムはこれ、このキラキラ。あんたが見たのはアタシじゃない。母さんだろ、あんたの。」

「な、なに……」


…まさか、まさか……


「母の、私の母の、だと、言うのか……いや、まさか、こんな所に母がいるわけが……」

「第三階層にこんな所もあんな所もあるかよ。本当の、あんたの母親だよ。アタシはね、こういう事で嘘なんかつかないよ。信じないのは勝手だけどねぇ、口寄せってのは、相手がテレパスだとアタシの意思に関係なく呼んじゃうんだよ。」


理屈では有り得ることだった。

心霊考古学を調べてきた喜多室にもそれは理解出来る。


『喜多室さん、辛いだろうが、今それは関係ない。任務を遂行だ』


鏡水の思念が割り込むように入ってきた。


…そ、そうだ。今は関係ない。


喜多室は思念で鏡水に感謝すると、帆海に言った。


「先の通告通り、『光の帯』を収めてもらおう。その部屋を確認し、同行してもらうぞ。」

「嫌だね!」


帆海は野神の方を向いた。


「野神! 思い出せ! 十七年前! アタシとゆうちゃん、来ただろ、あの胡散臭い孤児院に!」

「何のことだ。」


美馬は横で業を煮やしている。

早く離脱しろ、包帯の男……と。


「ゆうちゃん、武儀遊野、お前も見ただろ!」


言葉と同時に帆海の『黄緑』が野神へ向かって一直線に伸びた。

反射的に野神は紺色の『光の帯』を防御目的で放出した。

掛かった、と帆海はほくそ笑む。


…かははは、出せ、思え、精神感応が起これば呼び込む! 野神の記憶の人物を!


武儀帆海は何を言おうとしているのか。

野神の思考が十七年前の記憶を探る。

野神はこの記憶の呼び起こしを特に危険なものだとは考えてもいなかった。

十七年前……

武儀姉弟?……いや……

若邑湖洲香という二歳の幼女が……

佐海局長の父……

政治家……あれは……

遠熊所長が……いや……

白衣の……

あの大人の男性は……


読んでいた。

野神の一瞬の思考を、包帯の男も、黒い空間の中で。


…その人物は呼び出すな!


ドシュルルルル……


黒い空間から、帆海の『黄緑』を追越し、金色の『光の帯』が飛び出して来た。

それは、交わす間も無く野神の頭に透過した。

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