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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第二章
183/292

ヤーヌスの夢 4.

未だ水蒸気が漂う異常に湿度の上がった廃病院本館の一階で、喜多室きたむろはカウンターを乗り越えてナースステーション内に降り立った。

野神のがみは通路のカウンターの途切れた辺りで壁を背にし、『灰色』の動きに注視している。

地下一階、眼下にある『灰色』は白い筋を脈打たせ、不気味に揺らめいていた。


…我々の下を取ったままだ。何をするつもりだ。


とにかく接近されたらまずい。

肉体との接触には細心の注意を払わなくてはならない。

野神は目を細めて三百六十度視界の第二階層クレヤボヤンスに全神経を注ぎ込む。

そして、そろりそろりと耐熱服の胸ポケットへ手を伸ばし、携帯電話をゆっくり取り出した。

テレパシーを使いたいところだが、この状況で悪戯に『光の帯』を伸ばすと無防備な部分が出来てしまうかも知れない。

油断すると、脱走者ではなく浮遊霊の怨念にやられかねない。


「課長、狩野かのう鏡水かがみず巡査が来てますね。黒い空間について、中に何があるのか、どうなっているのか、知り得る情報を下さい。」

『分かった。待て。』


通話状態のままの携帯電話から、何か言い合いのような声が聞こえる。

やはり狩野は黒い空間について黙秘を続けているようだ。


…!


野神の全身に緊張が走る。

野神と、外にいる深谷ふかやが同時に叫んだ。


「赤茶色! 地下一階の天井付近!」


視え方から、マルサンではない。

野神がナースステーション内の喜多室を意識して付け加えた。


「マルイチだ! 赤茶はテレキネシスを使ってくるぞ!」


喜多室は少しづつ輪郭がはっきりしてくる看護師の霊に意識を向けつつ、野神への無言の返答も兼ねて自分の『薄緑』を一瞬黒ずませた。

喜多室の『光の帯』が第一階層に現れ、臨戦態勢を作る。

それでも看護師の霊への意識は途切らせない。


…泣いて、いる? これは、ん、憐れみ、同情、それに……


『赤茶色』は地下一階の天井と水平に帯を広げたまま動きを止めた。

野神と喜多室の足元、床下に広がった赤茶のマルイチ。

『灰色』が地下一階天井と『赤茶色』の間にぬらっと滑り込んできた。

野神の耳元にある携帯電話から女性の声が返ってくる。鏡水だ。


『報告致します。狩野は黒い空間というものを認識していません。ですが、今ここでそれを視て、あの中に入ったことがある可能性は認めました。位置的にあそこだったのだろう、といった認識です。そこで美馬恒征みまこうせいと接触し……』

「すまない! 一旦切る!」


野神の鼻筋を汗が流れ落ちた。

通路の床に散在する水が、ジュッ……ジュワッ……と音を立てて急激な勢いで蒸発を始めている。

それと同時に樹脂が溶けるような異臭が漂い始めた。


…!


床が巨大なグリルプレートの様に熱くなっていることに喜多室も気付く。

閉ざされた空間で下から熱気が来る場合の対処、そのセオリーは下へ退避、である。

熱気は温度が高ければ高いほど上へ上へと登ってくるからだ。


「ちっ!」


ドゴォンッ!


刺激しないよう看護師の霊への接近を進めていた喜多室は、舌打ちするとナースステーションの床に穴を開けた。

だが、開けた瞬間、再び舌打ちが喜多室の口から漏れる。


「ちっ! この為の『赤茶』か!」


破壊不能な『壁』が、そこにあった。


…斬るか!?


呼吸もままならない、目も開けていられないこの高温の中、そんな余裕があるのか。

野神は一階の天井へ自分の『光の帯』を突き刺し上へ逃れているが、上がってくる熱気はとても人が耐えられる温度ではなかった。

床や壁の樹脂、おそらく古い塗料か何かが変質を始めているのだ、百度や二百度ではないだろう。

だが、外に面したガラス窓が割れ、正面玄関は開け放たれている状態にあり、室温自体はそこまでは上がっていない。

床付近を暴れては消えていく蒸気から、空気の温度差対流が起こっていることが判る。

『灰色』も心得ているのだろう。

床や壁の表面は劣化させてしまうとしても、建物自体、建築材関係に致命的な組織破壊をもたらしてしまう温度には出来ないことを。

このまま上階へ逃げるとどうなるのか。

熱源の『灰色』が上へ上へと上がってくれば、最終的には屋上から飛び降りざるを得ない。

喜多室がナースステーションから飛び出して来た。

フードとマスクの上から、首元に右手を当てている。

小さな隙間すら皮膚をただれさせかねない。


「野神さん! 撤退だ! どうにもならん!」

「了解!」


エレベーター前まで転げ出るように後退した二人は、ナースステーション付近との室温の落差に気付く。

仔駒雅弓こごままゆみのマルサン実演データ通り、気温操作は『光の帯』周辺の狭い範囲に限られるようだ。

特査の検証実験では空気摩擦と空気の圧縮による空力加熱が同時に起こっているとの報告が上がっていた。

第三階層と呼んでいる五次元空間での素粒子振動様態までは解明できていないが、空力加熱が起こるということはやはり『光の帯』自体も空気を押しのける物質として働いている可能性が高い。

それも第一階層の物理概念では異常を通り越した非現実的な速度が、理論上はそこにあることになる。

故に、マルサンが引き起こす現象、能力の結果を、第三階層テレキネシスと称することが妥当とされた。


立ち止まってナースステーションの方を振り返っている二人の眼下に、ゆるりゆるりと『灰色』がせまってくる。

如何ともし難い状況に、喜多室と野神は正面玄関まで後退した。

七月の真昼間、灼熱の陽光を伴った三十度前後の外気が、涼しく心地良く感じる。

喜多室と野神は水面に上がったダイバーのようにマスクとフードを剥ぎ取り、深く呼吸をした。

歩み寄ってくる二人に、深谷がスポーツドリンクを手渡す。

彼らは無言でキャップを開けると、500mlのそれを一息で飲み干し、地面に崩れるように座った。

深谷のやや後ろで、鏡水と狩野が、野神のボロボロのスーツ姿に驚きの表情を向ける。

古見原こみはらは険しい顔で腕組みをしていた。

野神が口を開く。


「狩野君、よく来てくれた。」

「あ、はい……」

「援護を頼みたいのだが、手を貸してもらえないか。」

「はい、あ、や、それは……」

「それは、なんだ?」

「美馬さん、の、その……」


途中で言葉を濁す狩野。

黒いカチューシャで前髪を持ち上げ、スーツの両腕を肘までまくっている鏡水の眉間にシワが寄った。

甲高い怒鳴り声が響く。


「はい、いいえ、はっきり言え狩野! 貴様、何年教育を受けているんだ!」


それを野神が制した。


「鏡水巡査、狩野君は警察官ではない。」

「お言葉ですが、狩野もラボ教育の同意書にサインをしております。このようなていたらくは許されないと考えます。」


野神は鏡水を見て、狩野へ視線を戻した。

そして、ゆっくりと腰を上げる。


「美馬が、なんだ、狩野君。」


狩野は野神の鋭い目から逃れるようにおどおどと周りに視線を泳がせた。

県警の喜多室がいる。

深谷がいる。

そして、あの古見原医療所長の息子、古見原警視がいる。

狩野が今最も怖いと感じているのは鏡水ではない。

古見原警視である。

彼自身とは面識はなかったが、その背後に感じる亡き古見原所長、それが大きな圧迫感となって狩野にのし掛かる。

教育中、何度思ったことか。

殺されるのか、と。

奇妙な薄ら笑いを浮かべながら手当たり次第に物を壊し、手を切るだの足を切るだのと気の触れたような事を言っていたあの栂井翔子とがいしょうこを、たった一週間で静かにさせた古見原所長。

その息子が、腕を組んでそこに立っている。


…視た感じ、この人は使い手じゃない。だけど、迂闊な事を言ったら何をされるか。


最も恐ろしかった記憶は、起きたら手術台に寝かされていた時のことだった。

そこで、脳のこの部分をこうするとこうなる……といった、人間を壊していく話を延々と聞かされた。

何だかよくわからない注射もされた。

もちろん脳の手術などされなかったが、この禿げた医者は自分を人間扱いしていないな、と本能的に感じた記憶。


…この警視も頭おかしいのかな……


「どうなんだ、狩野君。」

「あは、はい、あ、いえ、みみ、み、みま、さん、が……」


何と言えば助かるのか。

古見原息子を刺激しない言い方は……

横にいる鏡水も噴火寸前である気配が判る。


…なんだよこれ、刑事局は拷問集団じゃないか、恐怖で抑えつけて、言いたいことを言えなくして。


意識が逃避方向に逸れているか、と感じ取った古見原が、穏やかな口調で言葉を挟んだ。


「狩野君、鏡水巡査は今、君になんと言ったかな。」

「はい、え、と、サイン、同意書にサインしただろ、と……」

「その前だな。」

「え、ああ、何年教育を……あ、はっきり、はいかいいえか、はっきり言え、と……」

「そうだな。明確な意思表示は人としての基本だ。正しいか正しくないかではないよ。」


…そうやって安心させて、間違えるとお仕置きだろ、所長と同じように。


「確約が欲しいのかな?」

「え?」

「危険なことはさせないよ、という安心が無いと、君は意思表示が出来ないのかね?」

「き、危険とか、そんなの、いいです……」

「答えになってないな。」

「え……」

「確約がないと意思表示できないのか、と聞いている。この質問への答え方はイエスかノーだ。」

「あ、ああ、えっと、確約、あ、ノー、です。」

「では野神主任の要請に戻ろう。援護の手を貸してもらえるか?」

「そ、それは、み、美馬さんも、考えがあって、あ、あるかも知れないし……」

「順序が違うな。理由づけはイエスかノーかを表明した後だよ、狩野君。」

「あ、ああ、そういう……だって、ノーって言ったらまた、もっと厳しい、その、また何年も閉じ込められて、って、なるんじゃないのか、ですか?」


古見原の表情が心なしか緩んだ。


「ノーなのか?」

「だ、だから、あんた怖えし、迂闊に答えられないだ、ですよ。」


古見原の表情は更に砕け、笑みを浮かべている。


「私が怖い? ははは、それで答えられないのか?」

「だってさ、所長にはマジあり得ないことされたし……」

「うはははは、そうかそうか。狩野君、私と古見原所長の、君に対しての最大の違いはな、所長は君を直接教育する立場にあり、同時に権限と責任を持っていたが、私は君をここへ呼ぶ権限すら無いことだ。この後の処置に怖がるのは私だよ。君には何も降りかからんよ。」

「そうなの、ですか?」

「そうだよ。」


狩野は目を合わせることを避けていた古見原の、その目を見た。

確かに古見原所長とは違った目をしている。

その目を読もうと、思慮深い一面を持つ狩野は考えた。

今の会話はどういう意味合いがあるのか、を。

要は、警視はなぜ狩野が答えられなくなっているかの原因を表面化するために誘導した、その原因を解消した、そういう会話か、と狩野は結論付けた。


「あ、じゃあ、あの、ノーです。協力したくないです。」


古見原は話の続きを振るように、野神へ視線を投げた。

野神は、ふっと軽く息をはくと言った。


「そうか、わかった。今はその理由を聞く気はない。狩野君はここにいて傍観をしてくれ。傍観の意味はわかるな?」

「え、手を出すな、ってことっすよね。」

「そうだ。我々の援護もしない代わりに、邪魔もしないでくれ。いいな。」

「は、はい。」

「鏡水巡査、」

「は。」

「着替えたいのだが、右手が思うように曲がらない。ちょっと車まで一緒に来てくれ。」

「は!」


野神と鏡水が鉄柵門の前に横付けされている車へと離れて行った。

古見原が地面に座り込んでいる喜多室に聞く。


「どうだ、少しは前進したか。」

「はい、収穫はありました。」

「どんな状況だ。」

「『灰色』と『赤茶色』は一階への侵入者を追い出す役目。主にマルサンで侵入者の肉体にダメージを与える攻撃。『黄緑』は地下一階への侵入者を足止め、精神攻撃で追い返す役目。やはり黒い空間を守る動きで、無益な殺生を望んではいないようです。それと……」


喜多室も立ち上がった。


「一階に理性を残している霊を発見。その感情は憐れみ、同情、それに献身的な慈悲のような感情。おそらくその感情は不幽霊たちに向いています。次の突入でその霊と会話し、上手くいけば不幽霊たちを盾にして地下一階の黒い空間へ進もうと考えています。」

「ふん。リスクは?」

「脱走者の能力攻撃はもちろんですが、不幽霊を盾に使うというのは、やっていることは脱走者と同じであり、不幽霊たちの精神暴走が何を引き起こすか未知数なことです。」

「君らに跳ね返る精神汚染、か。」

「理性を残した霊とどの程度の関係性を築けるかによるでしょう。」

「ふむ……深谷、」

「はい。」

「君にも突入してもらう。二手に分けるぞ。」

「は!」

「喜多室君は鏡水と正面から、深谷は主任と裏手の入り口から攻める。」

「はい。」

「承知致しました。」

「狩野君、」

「え。」

「中の様子を透視して、状況だけ伝えて欲しい。頼めるか。」

「え、でも、傍観て……」

「ほら、ドラマなんかじゃよくあるだろう。傍観者がしきりに解説まがいな説明セリフを言ってるのが。あんな感じだな。」

「あ、ああ、はい。」


野神が狩野に言った傍観とは本当の傍観のことではないな、と古見原は察していた。

脱走者に肩入れしているならば、野神達の再三の突入に何かしらの感情移入をしてくるだろう。

その狩野の感情移入を感じ取り、脱走者たちの人間性を推し量ってみよう、と古見原は考えていた。

野神が狩野をここへ呼んだ真意は、マルサンによる援護ではなく、狩野を通して脱走者の有り様を探ろうというものだ、と古見原は解釈していた。


脱走者が狩野を仲間に引き入れようとしているとするならば、こうして刑事局側に身を置かせていること、泳がせていること、それには必ず何かしらの意図がある。

そして、狩野は脱走者への肩入れを隠そうともしていない。

この事実が示すもの、それを見極めておかないと、思わぬ落とし穴に陥ることになるだろう。

脱走者たちの目的が伴瓜ともうり警視正や紅河くれかわ少年への仇討ちだけだとは到底思えない。

それはもしかしたらただの煙幕だ。

その証拠に、あの古見原所長の息子で刑事局の警視である自分がここにいるにも関わらず、襲いに来ない。

真の目的を果たすための目くらまし。

今回の捜査で古見原が掴もうとしているのは、その脱走者たちの真の目的だった。

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