ヤーヌスの夢 3.
金色と白の球体の光が、その部屋には無数に浮いていた。
光の直径は様々で、小さいものは数ミリ程度、大きいものは二十センチ近い。
その光は水の中の空気の球の様にゆらゆらと形を歪めているが、基本形である球は保っている。
光でありながら、輪郭が判る。
この部屋をスパッと切った断面を見たならば、それは金色の『光の帯』そのものの様態を見せるだろう。
逆に言えば『光の帯』に厚みを持たせ立体化した像、それが正にこの部屋の景観だった。
その部屋の中心には、全身に包帯を巻いた病衣の男が、椅子に座っている。
両手は左右にダラっと伸びており、頭をやや俯かせている。椅子で眠ってしまったような姿勢だ。
その包帯の男の他に二名、この部屋には人がいる。
腕を組んで立っている男が一人、そして椅子に腰掛けて萎縮したように肩をすぼめている女が一人。
その男女の周囲四十センチには金色の光の球が無い。
腕組みの男が歩くと、その男を避けるように金色の光の球が動く。
あたかも見えない膜が四十センチ離れて男女を囲っているかの様に、男女に金色と白の光が接触することは無かった。
腕組みの男からは灰色と白が混在した『光の帯』が何本か出ており、それは部屋の壁を透過して外に伸びている。
その男は、何かを透視するように壁を見つめながら、座っている女に話しかけた。
「大丈夫ですか。」
女はぎこちない仕草でシャツのポケットから眼鏡を取り出しつつ、か細い声を出す。
「あ……うん……」
腕組みの男、美馬恒征はチラリと女を見て、すぐ様また部屋の外のクレヤボヤンスに意識を戻した。
…黄色、非能力状態か。
座っている女、武儀帆海は特異な使い手である。
まず、ほとんどの使い手に共通して起こるサイコスリープを必要としない。
過度の能力酷使の後に起こる耐えられない眠気が起こらないのだった。
その代わりに、これが最も異質な点で、能力を発現出来ない状態が訪れる。
その時の精神色はレモンのような薄い黄色をしており、第二階層クレヤボヤンスで見たその魂の光は明滅していない。
対し、能力を発現出来る、魂の光が明滅している状態の時は、その黄色に緑が薄く掛かる。
その精神は両極端な様相を示し、黄色の時は鬱状態にあり、黄緑の時は躁状態になる。
その二様態が訪れるタイミングはランダムで、数秒ごとにコロコロ入れ替わることもあれば、丸一日どちらかの状態が継続することもある。
そして、その変化は自分では操作出来ない、と帆海は言う。
「喜多室の引き寄せたエクトプラズムは、彼の母親だったようだな。」
「う、ん……気の毒、喜多室さん……」
「うん?」
「口寄せ、本当の……お母さんなのに……信じてなかった……」
「無理もないだろう。刑事というものは疑うように教育されているだろうから。」
「あ……気付いて、ない……」
「ん?」
「喜多室さん……自分がお母さん、呼んだこと……自分が、自分、じぶ、じ、が、っかっ……かんっ……んっ……」
…来る、黄緑。
「じぶじじ自分が呼んだくせに! 消せとか! やめろ武儀とか! ざっけんな馬鹿! アタシの精神感応は! テメェの願望が呼び寄せるエクトプラズムの通り道なんだよ!! 気付けこのノータリンが!!」
…口寄せ、とか、いたこ等と言われる能力は昔からあるが、この人は相手の記憶に眠るビジョンをも鮮明に再現する。
「まぁそうイライラしないで。さすが喜多室、と言うべきだろう。普通は愛する故人に『帰れ』と言われたら迷わず出て行くものだからな。」
「母親の身にもなれってんだ親不孝もんが! 武儀、武儀って、誰だそれはってハナシだオタンコナスが!!」
「で、だ、帆海さん、」
「なんだ。」
「追い討ち、やはり手を貸してはもらえないか?」
「アタシは! 地下一階の通せん坊! だいたい精神感応しか、口寄せしかできねぇし。」
「いやいや、その精神感応が一番怖いと私は思っているのだが。」
「それ、起こして、やってもらえばいいだろ。」
帆海は顎で包帯の男を指した。
「ん、この結界は彼にしか張れないからな。仕方ない、いささか手強い二人の刑事だが、一人で追い出すよ。」
美馬の右眼だけが、グリッと一瞬上を向き白目になった。
その瞳は数秒間痙攣し、元の中心に戻る。
彼の身体から出ている灰色の『光の帯』の隙間から、赤茶色の『光の帯』がゆるりと伸び出す。
二つの精神を操る美馬。
医学的に言う二重人格と違うところは、交互に別の精神が現れるのではなく、同時に出現させられる点だった。
ただ、全く違う人格を持つ二つの精神であるところは、多重人格の性質と同じである。
美馬は、包帯の男に賛同はするものの、どうしても忠誠心の様なものは持てなかった。
それは他の脱走者も同じであり、包帯の男も忠誠など求めていなかったのだが、自分はいつか皆を裏切る、と感じていた美馬は、刑事局のラボ教育の中に忠誠心の本質を探した。
精神色を『灰色』にしてみようとする自分。
それに反し、自分で自分を洗脳するような真似はしたくないと拒む自分。
その葛藤と容赦ない自己暗示教育が、結果的に理性を保った二つの精神に分裂させた。
同時に独学した脳医学では、現在判明している脳の構造からは有り得ないという所までは判っているが、脳の使われていない部分の活動までは研究の手を伸ばせていない。
後から発現した『灰色』の精神は右脳に偏って使われているらしく、先天色の『赤茶色』は必然的に左脳が受け持つ部分が多い。
今、『赤茶色』の発現で右眼の外眼筋だけが動いたのはその為だった。
そして、美馬の頭髪は、右半分は黒々としているが、左半分は白い。
帆海が椅子の上でガバッと顔を上げた。
…ぬ! 狩野! もう一人は、あれはどいつだ。
帆海の黄緑の『光の帯』が、廃病院の鉄柵門に繋がる内壁の辺りに出現した『青緑』と『灰色』を察知した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
城下桜南高校、昼休み。
三年B組の教室で、小川樹生は今し方食べ終わった菓子パンのビニールを丸めながら、おもわずガタッと音を立てて席を立ちかけてしまった。
桐山さん! と廊下から呼び掛けたその声が、斉藤知子の声だったからだ。
小川はこそこそと瞳だけを桐山に向けた。
桐山が出て行く廊下の所に、ニコニコしている斉藤と、横を向いて眠そうにしている紅河が見える。
…あれ、確か桐山と紅河、前に付き合ってたよな。
そこに新しい彼女の斉藤?
これは修羅場なのか?
だが、合流した三人は険悪な雰囲気も無く、B組を離れていく。
…い、行くか、聞く、だけでも、あ、でも、紅河が、うざいな。
小川は、すれ違う度に丁寧な挨拶をくれる斉藤が気になって仕方がなかった。
一体どういうつもりで、冷たくあしらった自分に挨拶をしてくるのか。
彼女の様子を見ていると、誰でも彼でも挨拶をしているというわけでは無いようだった。
ピアノ部はないのか、と聞いてきた斉藤。
合唱コンクール予定表の『緒川華音』の名にバツ印を付け、小川樹生と書き入れた斉藤。
コンクールでの小川の代奏を、楽しみが増えた、と言っていた斉藤。
…聞く、だけなら。
小川は鞄の中からボロボロの『ハノン』を取り出すと、よろけながら席を立った。
菓子パンの丸まったビニールがポトっと床に落ちたのにも気付かず、小川は廊下へ出て行く。
ずれた眼鏡を整えつつ、威圧的な紅河の背に気後れしながらも、小川は声を絞り出した。
「あ、あれ、さ、いとう、さん。」
湖洲香が足を止め、振り向いた。
長い黒髪がさらっと肩を滑り、その丸顔で色白の笑顔に、小川はドキッとする。
「まあ、樹生さん。」
遅れて足を止めた紅河と桐山も後ろを振り返った。
話しにくいな、と思いつつも、どうせ自分は空気みたいな存在、馬鹿にされてもすぐ忘れてくれるだろ、と勇気を振り絞り、小川はハノンを両手に持ったまま湖洲香へ言った。
「ピアノ、学校で弾きたいって、なんか、こだわってたなと思って、あれ、その、ハノン、あ、いや、ハノン、なんか、もうやってないか、あ、ちょっと、弾くとこ見れば、アドバイスとか、で、出来るかなと、あ、あれ、斉藤さんの方が上手かったら、馬鹿だよな、俺……あ、い、急いでた?」
…うわ、やめときゃ良かった。寒いぞ、俺、超絶寒いぞ、ショパンの木枯らしのエチュードが流れてきそうなくらい……
話しかけた事を早くも後悔し始め、額に汗を浮かべ下を向く小川に、湖洲香がスススッと歩み寄った。
「まあ! ピアノ教えて頂けるの?」
思いの外明るい斉藤の声が返ってきた。
恐る恐る顔を上げると、スッと背の伸びた姿勢の良い彼女が満面の笑みを浮かべて目の前にいる。
…か、可愛い、人だ……
「あ、や、おし、教えるとか、ほら、あれ、俺程度のピアノが良いって言ってたから、もっと、あれ、斉藤さんは、どのくらい弾けるのかな、と……」
「私? 弾いたことありませんわ。一度も。」
「え……」
…やっぱり弾いたことないのか。
小川は再び視線を落とすと、右手で眼鏡の縁を軽く触った。
三年の一学期も終盤。
大抵は受験勉強で部活離れが始まる頃。
からかわれただけ、なのか。
それとも、最後の夏休みに勉強の息抜きとして……斉藤がピアノに対してどの程度向き合いたいと考えているのか思考を巡らせる小川。
もう一度斉藤の目を見る。
…からかっている目には見えない。
「え、と、どうして、急にピアノ……」
言い掛けた小川の目に、桐山と紅河の視線が映った。
小川には二人の視線が迷惑しているように見えた。
「あ、あ、桐山、ひ、引き止めてごめん、じ、じゃあ……」
おどおどと教室に戻ろうとした小川を呼び止めたのは、紅河だった。
「小川、話、途中じゃねぇの? 俺らなら待ってるから気にすんな。」
桐山も口を開く。
「そうだよ。別に急いでないよ。」
片やサッカー部のエース、片や女バスのキャプテン。
そして二人とも成績は学年上位に入っている。
何の取り柄もない自分と比べると、どうしても自己嫌悪を感じて萎縮してしまう。
と言うか、人付き合い自体が苦手な小川は、被害妄想的な意識まで出てくる。
こういう優等生達は陰で自分を馬鹿にしているのだろうな、と。
紅河の新彼女かも知れない斉藤に、偉そうなことを言ったら怒り出すのではないか……
「ああ、いや、斉藤さんが、どのくらい……あや、い、いいんだ、後で。」
「それ、なに。」
紅河がずいっと手を伸ばし、小川が持っていたボロボロのハノンを掴んだ。
そして、パラリと最初の方のページをめくる。
「ああ、あれか、ドミファソラソファミ、だろ、音階の、運指? 良く聴くやつ。」
「どれどれ。」
桐山がハノンを覗き込む。
湖洲香も紅河の横から背伸びをして覗き込んだ。
「すごい、音符がびっちり。使い込んでますわね。」
小川はゴクッと唾を飲み込んだ。
…このまま取り上げられて、今さら基礎かと笑われて、ハノン廊下に投げ捨てられて……
小川の被害妄想をよそに、紅河は丁寧にハノンを小川の方へ向けて返した。
「流石だな。基礎をやり続けてるやつはやっぱすげぇよな。」
あ、あれ。
なんだ、馬鹿にされないのか。
「あれ、いや、ハノンはね、アクセントの位置を変えたり、テンポを変えたり、ダイナミズムでいろいろな表情を付けてみたり、一生使うんだ。これをやってると速いフレーズへの対応がスムーズになるんだ。」
「なるほど。」
「へぇ。」
「すごいですわ。」
なんだ。
なんだよ。
普通に話せるじゃないか。
桐山とも、紅河とも。
勇気を出した甲斐があった。
…紅河も、別におっかなくないな。
「私ね、」
湖洲香が小川に身体を近づけ、話し始めた。
…ち、近っ。
「紅河さんが、部活から学ぶことが多いって言ったので、何か部活動したいなーと思ってたの。そしたら、樹生さんの素敵なピアノが聴こえてきて、やりたいなと思ってしまって。教えて頂けるならやってみたいな、ピアノ。」
「あそ、そう……」
…部活をやりたいのか。
小川は考えを巡らせた。
ピアノ部というものは無い。
合唱部や吹部では初心者は通用しない。
なぜなら、校外のコンクールや発表会に出ることが前提としてあるからだ。
かと言って、斉藤が一人でピアノを弾くところを自分がアドバイスするだけでは、おそらく斉藤の言う『学び』にはならないのだろう。
「ど、同好会、ピアノ同好会、あれ、同好会って規定人数、何人だっけな……」
桐山が指を三本立てた。
「うちは最低三人だね、確か。」
「三人、あと一人か……」
「同好会って何かしら。」
「ああ、部にするには規定人数や校外活動なんかの条件に届かない、部と同じだけど格下な、そういうやつ。」
「まあ。」
「あ、あそっか、俺、一人で先走って、あれ、斉藤さん、同好会とかじゃ、やだよね、やっぱ……」
「やりたいですわ! ピアノ同好会!」
「そう、か、あ、じゃ、俺探す、もう一人、探しとくんで、斉藤さん、どういう活動にしたいかとか、考えて、あ、迷惑か、あ、俺がそれも……」
「私がやりたいのに、どうして迷惑ですの? いっぱい考えますわ。」
「あそっか、そっか、そうだね、はは……」
「白鳥の湖とか弾きたいですわ。うふふ。」
…ピアノ曲としては中級ではあるけど、ど素人にスワンレイクは無いなぁ。
「あ、まあ、おいおい、じ、じゃあ、あれ、引き止めてごめん。」
「ああ、楽しみがまたまた増えましたわ!」
小川は屈託無い湖洲香の笑顔を間近で見て思った。
転校して来て間も無い謎のお嬢様だが、この子が喜ぶ顔を見ると、なんとも言えない幸せな気持ちになるな、と。
なぜか、この斉藤知子という女子だけ鮮やかな色が付いて見える。
他の女子は皆モノクロームなのに、不思議だ。
「あ、ね、小川君。」
歩き出した桐山が、不意に振り返った。
「え。」
「ピアノ同好会、人数集めに困ったら言ってね。協力するから。」
「あ、ああ……」
…協力する? あの桐山が、俺に?
「小川、この人な、ともりん、て呼ばないと機嫌悪くなるから気をつけろよ。」
紅河が湖洲香を指差して言った。
「あ、あ、はは……」
なんだ。
なんだなんだ。
なんだこれは。
あの紅河と友達のように話してしまった。
あのお高く止まった桐山が、協力?
いや、お高くも何ともないじゃないか。
ちょっと、おい。
おいおい。
文化祭の時だけちょっと気にされ、すぐ忘れられる空気みたいな俺が。
紅河がハノンを見て流石とかすげぇなとか言ってた。
え。
どういうことこれ。
俺、もしかして、空気じゃないのか?
足が軽い。
自然と身体が踊り出しそうになる。
早く探そう。
同好会メンバーを……
「あ……」
小川は三年B組の教室の前で、不意に足を止めた。
…いない。一人も。同好会どころか、声掛けられる友達がいない……




