ヤーヌスの夢 1.
野神はエレベーター前まで戻ると、一度振り返った。
診察室が連なる通路は解けかけた氷があちこちに小さな水溜りを作り、今し方現れた炎の帯に炙られ水蒸気を立ち昇らせている。
右へ一瞬視線を流す。
十数メートル先の正面玄関は、暗がりに慣れた目に真っ白に映った。
現れた炎は依然として空中をゆっくりとうねり、じわじわと野神との距離を詰めている。
…もういつでも噴射出来るはずだ。これも単なる脅しだというのか?
野神はすぐ左側にあるエレベーターの稼働孔へ、そして右側の正面玄関の外へ、同時に二本の『光の帯』を伸ばした。
第一階層クレヤボヤンスで視たエレベーター稼働孔内、ケージはすぐ下に視える。
地下一階か、それより上の中途半端な位置か、とにかく一階より下に止まっている。
正面玄関の外では、透視で廃病院本館内の状況を随時報告していた深谷が、野神の『紺色』の接近に気付いた。
「課長、主任の『帯』が来ます。」
「ん、今見えたな、主任に炎が迫っているようだ。灰色に赤茶、それに黄緑も出現か……」
状況は悪化、切迫している。
深谷にどう動いてもらうか判断を急がねば……と考える古見原へ、野神が外へ放ったテレパシーが入ってきた。
それは深谷にも同時に送られている。
『課長、お願いがあります。狩野をここへ呼んでもらいたい』
返答に詰まる古見原。
狩野が置かれている立場を考えればそれは出来るはずもない。
無茶振りもいいところであるが、野神自身がそれは良く分かっているだろう。
その上での要請……判断に躊躇していると取り返しがつかなくなる。
『課長! 今の彼なら一瞬でここへ飛んで来られるでしょう。深谷のテレパシーで呼び付けて下さい。私が、野神が呼んでいると伝えれば、狩野は必ず来ます!』
再び失踪、逃亡、そんな言葉が古見原の頭を過る。
そうなった際の責任は誰が取ると言うのか。
『……考えるまでもない。私が責任を取る。了解した、狩野をここへ呼び付けてみよう』
狩野を使う権限は古見原には無い。
承認を取って廻っていては日が暮れてしまう。
越権行為だが、野神と喜多室を失うよりはクビの方が遥かにマシというものだ。
「深谷、」
「は。」
「聞いたな。鏡水君にテレパシーを送り、狩野をここへ呼んでくれ。」
「承知致しました。」
野神のテレパシーには、切迫した状況への対処の思考が浮き沈みしつつ混ざっていた。
どうやら野神は動きを止めている喜多室を助けるために地下一階へ降りるようだ。
その喜多室は黄緑の『光の帯』に抑えつけられたように立ち止まっている。
妙な事は、その『黄緑』は第二階層にいる、という点だ。
第一階層テレキネシスを発動しているでもなく、マルサンによる攻撃でもない。
金縛りにあったように、喜多室は動かない。
深谷が第二階層クレヤボヤンスで視る喜多室の『薄緑』は、だが健在の証しである明滅をしている。
失神しているわけでも、寝てしまっているわけでもない。
…野神、お前、どうやって降りるのだ。
灰色のマルサン、相手が言うところのスピリウル、その能力に阻まれて後退している野神が正面玄関越しに古見原と深谷にも見えている。
ふと、古見原の脳裏に県警の崎真警部補の報告、その言葉が思い出された。
『使い手が相手では肝心な時に何も出来ません。足が竦むばかりです。自分の無力さを痛感致します。』
…歯痒いな。全くその通りだ、崎真君。
覚悟だとか勇気だとかいう言葉で何とかなるようなものではない。
手の打ちようが、どう行動するべきかが、思いつかないのだ。
『光の帯』が見えない非能力者にとって、音も気配もなく突然襲い来る超能力者の攻撃。
そんなものに、刻一刻と状況が変化する現場で、何をどう判断しろと言うのか。
あの高校生。
いくつかの報告書にその名が出てくる城下桜南高校の学生。
非能力者だという彼は、一体どうやって、あの報告の数々は本当に事実なのだろうか……そんな疑いまで持ってしまう。
…彼は野神に面会の希望を出しているとあったな。私も一度会ってみなければなるまい、紅河淳という少年に。
鏡水へのテレパシーを行っていた深谷が表情を一層険しくした。
「課長、狩野は脱走者の肩を持つような発言を全く撤回しないようです。宜しいのでしょうか。」
「構わん。野神君が呼んでくれと言っているんだ。敵地で今まさに戦っている彼がな。一刻も早くここへ来るよう私の名で命令しろ。」
「は!」
その時、廃病院本館内に見えている野神に、炎の放射が直撃した。
「!」
「!」
言葉もなく見守る古見原と深谷の顔を、いく筋もの汗が流れ落ちていく。
防火マスクを下ろし肌をどこも露出していない野神は、炎をまともに受けても尚エレベーター前を動かなかった。
耐熱防火服の外側に着ているスーツから煙が出て火がつきはじめる。
水蒸気が漂う中、火のついたスーツをまとったまま、野神から紺色の『光の帯』が通路の奥へと勢いよく飛び出した。
…舐めるなよ、灰色。
ズザッ……バキン!ビキビキッ!……
野神の『紺色』が床の穴を塞いでいた氷に突き刺さり、それを刮ぎ取る。
と同時に、空中の炎の帯に沿うように視えている『灰色』を、炎を分断するように切り払った。
切られた部分から先の炎が床にゴウゴウと音を立てながら落ちる。
そして野神は、床にメラメラと広がった炎の中へ、引き寄せた氷の塊を投げ落とした。
壁の方へと広がっていく炎は液体燃料が燃えているため、氷が熱を奪った部分以外は簡単には消えない。
だが、野神の目的は火を消すことではなく、水を作り出すことだった。
見る見る溶けて水になっていく氷を、その下を這わせている野神の『紺色』がすくい上げる。
その様を透視している『灰色』の使い手は思った。
…水をかぶる気か? こんな状況ではガソリンも混ざっているぞ。
野神はここまでだ、あとは喜多室をどこかへ転送してしまうか……と考えた『灰色』の眼に、野神の妙な行動が映った。
ボゴオォン!
エレベーターの稼働孔に伸びた『紺色』が何かを破壊した音。
そして、野神はすくい上げた水をかぶることはせず、その空中に浮いた多量の水と共に身体ごとエレベーター稼働孔へ飛び込んだ。
…ん? 野神は何をしている? 稼働孔の中で消火か?
地下一階へ降ろすわけにはいかない。
『灰色』はガソリン転送を止めると、氷柱を生成し、千度を超える熱を帯びさせ稼働孔の中へ飛ばした。
…包帯の男の計画を邪魔させるわけにはいかないのだ。野神、とどめだ。
ドゴオオォォォオンッ!!
エレベーター稼働孔の中で、地響きと共に、凄まじい爆発が起こった。
予期せぬ事態に、『灰色』も少なからず驚きを見せる。
…爆発? あんな燃えかすのような微量なガソリンで……む!
明滅する『紺色』は、稼働孔の一階よりやや上にいる。
野神は健在だった。
彼は『光の帯』で全身を覆い爆風や破片などを凌いでいる。
その覆った『光の帯』が酸素を遮り、スーツの火も消えていた。
粉々に砕けたケージを眼下に見ながら、野神は『光の帯』を伝って濛々と舞上がる水蒸気の中を地下一階へ降りて行く。
そして、口元を軽く緩め、独り言ちた。
「灰色、学校で習わなかったのか? 水蒸気爆発というやつを。」
野神が取った行動は……まずケージの天井にテレキネシスで穴を開けた。
氷を解かしすくい上げたガソリン混じりの水は全てケージの中へ注いだ。
ケージ内に溜まった水はほんの一センチ程度だったが、それで充分だった。
そこへ、『灰色』が投げ飛ばした表面が千度を超える氷柱を叩き落せば、一気に三百度以上に達した水は急激な膨張を起こす。
沸点を遥かに超えた温度を与えられた水が起こす現象、それが水蒸気爆発だ。
地響きが起こるほどのその威力は、思いの外凄まじい。
野神は地下一階エレベーターのドアをこじ開け、通路に降り立った。
フロア構造はほぼ一階と同じで、左奥を見ると、喜多室の後ろ姿があった。
「喜多室巡査!」
野神の呼びかけに、だが喜多室は反応せず、じっと佇んでいる。
黄緑の『光の帯』は喜多室の身体には透過しておらず、彼と二十センチくらいの距離を保ちその周りをユラユラと漂っている。
喜多室自身の薄緑の『光の帯』は、『黄緑』との接触を避けるかのように萎縮して、彼の周囲に出ていた。
駆け寄ろうとした野神の目の前が、突然水面が揺れるように揺らめいた。
…ん、これは……
テレポーテーションか、それとも……
ズンッ!
大きな振動を一つ残して揺らめきから突然現れたのは、通路狭しとひしゃげた乗用車だった。
その車の近くには『灰色』が漂っている。
「物質転送か……子供騙しな。」
通路を完全に塞いだ乗用車だったが、野神はそれを『紺色』で上からスクラップのようにギチギチと潰し始めた。
潰れた乗用車を踏み越えようと足を掛けた野神は、ふと左の手の甲に何か痒みのようなものを感じ、足を止めた。
周囲に注意を払いつつ、耐熱手袋を外してみると、水膨れのようなものが出来ている。
…炎を受けた時にやられたか……ん!
その水膨れは、見る見る大きく膨らんでいく。
どうやら火傷の類ではないようだ。
何か、皮膚の内側に液体が滲み出ているようだ。
それにしても、この膨らみの速さは……
…いや、違う、滲み出ているのではない!
野神は手の甲の薄皮に自分の『光の帯』を透過させ、皮を切った。
ブチュッ……
不快な音と共に、切り口から液体が体外へ零れ出る。
『安心しろ。それはただの水だ。血管の中に入れた訳ではない。皮膚の中だ。大事には至らない』
灰色の使い手からのテレパシーだった。
状況を察し、蒼ざめる野神。
『判っただろう。人体の中に液体を転送するなど訳もない。それが水で良かったな、野神さん。そしてここは病院だ。閉鎖された廃病院と言っても……あるある、これは何だ? 異臭を放つ腐りかけたような薬液が。今度は何を入れて欲しい?』
脅しているのか。
紳士的に思えた『赤茶』の使い手とはえらい違いだ。
高熱の氷柱、炎、乗用車を投げ込む、体内に液体……やることが異常だ。
野神は迂闊に動くことが出来なかった。
喜多室の後ろ姿を見る。
『黄緑』のあの距離。
テレパシーか。
喜多室は精神感応を受けて動けなくなっているのか。
一体どんなビジョンを見せられているのか。
彼の周囲にはどんな情景があるのか。
喜多室の表情が見たい……野神は目の前に漂う『灰色』と睨み合いつつ、動けずにいた。
喜多室は今、自分の母親と向かい合っていた。
亡き母のビジョン。
あまりにも鮮明な、聴覚に響く声までもそっくり同じに、優しく微笑んでいる母。
だが、喜多室の精神はまだ蝕まれてはいなかった。
赤茶色の『光の帯』を避けて逃れたこの地下一階の通路で、黒い空間のある一室からフワッと現れた黄緑の『光の帯』。
該当する精神色を持つ脱走者は武儀帆海。
喜多室は問い掛けた。君は武儀帆海か、と。
その直後、通路の突き当たりの角から歩いて来た人物が、喜多室の母親だった。
『悪趣味だ。消してくれ。母は私の大切な思い出だ。君のいる黒い空間について聴きたい』
『祥司、帰りなさい。ここはお前の来るところではないでしょう』
『母を使うのはやめろ! 武儀だな!? 答えろ!』
『犯人を殺すなんて……そんなこと、私は望んでいなかったよ』
『やめろと言っている! お前は誰だ!』
『正真正銘、母さんよ。会いに来てくれたことは嬉しい。でもね……』
似ている。
あまりにも似ている。
なぜ武儀は、こうも細部まで母を知っているのか?
だが、テレパシーのビジョンである事に変わりはない。
ここは都内の廃病院だ。
母とは縁もゆかりも無い場所。
いるはずがない。
こんな所に、母の霊など。
『でもね、祥司、独りで苦しんで、やってしまったこと、その気持ちは分かっているつもりよ。もう罪は償ったのよね。だったら……』
『武儀帆海、黒い空間に包まれている部屋はこれから踏み込む。仔駒雅弓は知っているな?』
『だったら、もう終わったのよ。私に会いに来る必要も無いでしょう。帰りなさい』
『答えるんだ。仔駒をどうした。どこにいる』
『そう長くもここにいられないわ。会えて嬉しかった』
よくもペラペラと。
母に成りすました演技などを。
左手で耳を触る仕草まで……
そんな情報をどこで仕入れた。
ん、待てよ……
『私の記憶を読んで再現しているのか。そうだな、武儀』
『タンスの二段目の引き出し、開けてみた?』
『何の話だ』
『誕生日プレゼント、ネットに繋がる電子辞書。欲しがってたでしょ』
『な……』
忘れていた。
確かに、服役を終えて実家に戻った後、見つけた。
母の遺品整理の時に……
十一年前、情報端末の商品化が急激に増えた時代。
忘れていた、ことまで、読めるのか……
『もう時代遅れになってしまったのかしらね、あれ』
時代遅れだろうが何だろうが、大事にしているさ、母さん……
いや、惑わされるな。
目の前にチラついているのは黄緑色の『光の帯』だ。
テレパシーのビジョンだ。
いるわけがない。
こんな所に、母が。
精神感応を消す方法は……向こうが仕掛けている以上、距離を取るしか無い。
喜多室は数歩後ずさった。
『帰るのね。警察のお仕事、頑張るのよ』
…き、消えない、『黄緑』から離れた、四十センチ以上離れたはずだ、が……
喜多室は改めて、仕草や声まで母と寸分違わぬ目の前の女性を見た。
その女性の懐かしい微笑みは、喜多室の精神にゆっくりと、春の陽だまりの中で眠くなっていくようにゆっくりと、疑心暗鬼の念を芽生えさせる。
それは自分の中の、自分に向く暗鬼。
もしかしたら自分は、本物の母親の霊に、冷たい態度を取ってしまっているのではないか、と。




