焦熱の氷牙 9.
人が通れる幅、一メートルほど開かれた鉄柵門を前に、深谷はクレヤボヤンスに加えて肉眼でも周囲を見渡した。
午前九時、七月の太陽は容赦無く廃病院を照りつけ始める。
冷んやりとした感触だった通気性の無い防火服がじわじわと外気温度を伝え出し、汗ばむのも時間の問題であることを肌に感じさせた。
疎らだった蝉の声が徐々に重なり始める。
…報告にあった鉄柵の霊というのが見当たらない。
深谷は慎重に廃病院の敷地内へ足を踏み入れた。
と、突然、何処からともなく声が聴覚を刺激する。
早口でボソボソと何を言っているのか判らない。
…ん? いや、これは。
聴覚への刺激は脳の錯覚だ。
使い手である深谷にはそれが判る。
深谷はすぐ後ろにいる野神と喜多室を振り返った。
だが、彼らの『光の帯』は自分の頭の近くまで伸びていない。
…誰のテレパシーだ?
深谷の視線を受け、野神が言う。
「どうした?」
遠く近く、ブツブツと聞こえ続けている早口なテレパシーに意識を向けつつ、深谷が答えた。
「精神感応です。誰だ……」
深谷の身体に接近している『光の帯』が無いことを確認した喜多室が、穏やかに言う。
「今、深谷さんと重なっている彼でしょう。気にせず進もう。」
それを聞いた深谷が緊張を走らせる。
「重なっている? 私には何も……う!」
病院の方へ振り返った深谷は驚きの余り、それを避けるように両手を中途半端に上げてよろけてしまった。
深谷の顔から数センチと離れていない目の前に、口の両脇から黒い液体を垂れ流している男性の顔があったからだ。
落ち窪んだ目に瞳は無く、真っ黒な穴の様である。
「こ、これは、これが……」
「ええ、そこから動かない様ですね。鉄柵門の霊です。意識を向け合っていたり、何かが同調しないとマルニクレヤボヤンスでも視えないことがあります。」
喜多室の説明に、野神も目を細めた。
野神には深谷のような明瞭なビジョンは視えていない。
黒い靄のようなものが、言われてみれば人の形に見えなくもない、といった程度だ。
確認するように自分に言い聞かせる野神。
…第三階層の霊体、視え方は状況によって違う。生霊である『光の帯』もまた然り、視えていても各自その視え方は微妙に違うと考えた方がいい、か。
『光の帯』同士が接触している時、マルサンを使う相手が意識的に精神感応ビジョンを作り出していれば、接触している使い手の視え方は同じであろう。
状況の変化は、その時相手が誰をターゲットと捉えているか、誰に意識を集中しているか、それによって起こり得る。
野神が捕捉するように言った。
「肉眼では視えない第三階層の霊、そして使い手のマルサン、これらが発する精神感応の危険性として白楼研究部では『幻覚の生成能力』の可能性を指摘している。マルニの様に肉眼で見えれば惑わされないのだが、精神のビジョンと実体を混同しない注意は必要だ。」
「マルサンの精神感応はまだ研究不足だ。何が起きても冷静さを保つことが肝要だな。」
古見原警視はそう付け加え、深谷が視線を向けている場所へ足を踏み入れた。
「なるほど、寒気のようなものは感じるな。気のせいか、程度だがね。」
喜多室が深谷と古見原の前へ出た。
「見えない、感じない、というのは、そんなもの存在しない、と同義です。構わず進みましょう。私が先導します。」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、か?」
古見原の冗談めいた言葉と同時に、四人は敷地内を歩き出した。
喜多室はふと思う。
古見原警視は四十六歳、働き盛りで髪も黒々としており見掛けは年齢よりも若く見えるのだが、発言や物腰が年配者のようだな、と。
警視の父親は先日他界したあの古見原一成医療所長である。
その禿げあがっていた頭髪が父親と息子の見た目の印象を全く違えていたが、やはりどこか雰囲気が似ている。
「ここが襲撃を受けたポイント、本館の正面玄関です。」
半開きのガラスの無いドア、その外側は薄い舗装が根こそぎ掘り起こされ土が露呈しており、ドアの内側の床には直径二十センチくらいだろうか、穴が数カ所あいている。
外側は白楼の研究部門により現場検証サンプルとして採取された跡であり、内側の穴は喜多室が受けた『熱を帯びた氷柱』が突き刺さった跡だった。
現場採取に当たった研究所員は固く指示されていた。決してドアより中に足や手を差し入れるな、と。
野神のクレヤボヤンスに館内を漂う黒い霧の様なものが映る。
それは、肉眼では見えない。
おそらく死霊の幽体なのだろう、何体うろついているのか、と野神は思いつつ、喜多室に聞いた。
「喜多室巡査、例の黒い空間、その場所までの最短コースは視えますか?」
「はい。フロントの斜め前にある階段、もしくはここからも見えているあの正面のエレベーター稼働孔、そこから地下一階に降り、北東へ伸びている廊下を進む。歩行距離にして百メートル無いでしょう。」
古見原たちは暗がりに見えるエレベーターを見た。
片側のドアが半開きになっており、その中は真っ暗だが微かにワイヤーらしき物が見えており、ケージが一階には停まっていないことが伺える。
深谷が言葉を挟んだ。
「なるべく施設を損傷しない捜査が基本です。稼働孔がケージなどで塞がっていた場合それを除去しなければならない。状況を探りますか?」
「いや、『光の帯』でも館内に侵入したら攻撃が来る、と考えた方がいいでしょう。障害物が無さそうな階段で行きますか、野神さん。」
「攻撃が来る、と考える根拠は何ですか? 透視には他の使い手が視られない。黒い空間も今は無い。」
「私が受けた攻撃は『中に入るな』という警告だったと考えます。と言うことは、今ここに使い手がいなかったとしても、知られたくない何かを守っている、と推測出来ます。」
「今も我々は監視されている、と?」
「おそらく。若邑君や風見さんの報告、マルサンにはクレヤボヤンスでも視えない部分が在る、というのが気に掛かります。」
野神は黙り込むと左手を口元へ持っていき、360度視界のマルニ透視に改めて意識を向けた。
…半径四キロ内に使い手はいない。テレポートして来たとしてもこちらが先に察知、相手の対応は後手になるはずだ。
「課長、突入と考えます。経路は階段。いかがでしょう。」
古見原は既に拳銃を抜き出しており、弾倉を確かめながら言った。
「役割を再確認する。野神主任はマルニからの分断攻撃対応、『光の帯』が我々の身体に透過して来た時の退避行動を常に想定する。深谷巡査はマルイチ物理攻撃対応、無人トラップなども含めて対処、基本的に全員に『壁』を張っておけ。喜多室君はマルサンが何をしてくるか読み対処。」
「は。」
「承知しました。」
「はい。」
「不測の事態は必ず起こる。皆、自分の命を最優先にするんだぞ。私の盾なんかになるなよ。」
古見原は深谷に目を向けつつ言った。
深谷は『灰色』だ。
彼は上司が死ねと言ったら死ぬ、その覚悟を解かない。
それが『灰色の戦士』なのだと父である古見原一成に聞いている。
自分の言葉は、部下を、深谷を守る言葉でなければならない。
「さて、虎穴に入らずんばなんとやら……突入!」
古見原の言葉を機に、喜多室を先頭にして四人は本館の中へ足を踏み入れる。
深谷は灰色の『光の壁』で古見原を囲った。
野神や喜多室を囲ってしまうと能力視界を邪魔し、マルイチ放出の障害物ともなってしまうからだ。
使い手三名の眼に映る黒い靄が、次々と人の形を成していく。
お互いの意識が向き合い始めたが為に、浮遊霊の発する精神感応を各自の『光の帯』が読み込み始めたのだった。
それはホラー映画でも見ているような、背筋も凍る情景だ。
しかも、これは今目の前で起きている現実。
腕や足が切除され包帯が巻かれている者、腹部が切り開かれ臓物を垂れさせている者、中には首の無い者までいる。
旧陸軍管轄下の病院にあり、負傷兵の霊もいるのだろう。
死を受け入れておらず、痛みと苦しみの念を発する浮遊霊たち。
その精神感応をまともに受けていたら、それこそまともな精神状態ではいられなくなる。
肉体の神経を襲う冷気よりも、蔓延する負の感情の方が何倍も恐ろしく、悍ましい。
…こんな所に自ら入ろうとする心霊スポットマニアの気が知れない。
喜多室は寒気と発汗というまるで風邪でもひいた時のような体調の中、内心で独り言ちた。
浮遊霊たちの生前の記憶、痛み、苦しみ、それらが自分の精神に染み込み始めたらアウトだ。
気分が悪いなどという生易しい状態を通り越し、トランス状態に陥るかも知れない。
現に人より霊感の強い人の精神汚染事例は多数存在し、それが自分には無関係な他者の記憶だったと冷静に認識出来るまでは、発狂した様な症状さえ見られる。
苦しいから早く殺してくれ、と懇願する症状などは最も恐ろしい事例だ。
そう、昨日まで健康だった者が、自殺を繰り返すようになる。
…間違っても同情や憐れみなど向けてはいけない。無視だ。
心優しい者ほど重度の精神霊障を受ける。
『光の帯』の使い手は、特に精神力が強い者というわけではない。
もし戦闘になった場合、『斬り払い』によって精神が削られた時、この環境はとても恐ろしい。
そういう意味では、古見原医療所長の指導教育を受けている野神、深谷、喜多室は、精神力維持の面で脱走者たちを少し上回るかも知れなかった。
少しでも油断すると飛び込んでくる浮遊霊たちの怨念を跳ね除けながら、喜多室たちは階段の前まで来た。
不意に、古見原が血相を変えて拳銃を構える。
構えた先を見ると、地下一階への階段を上がり切った所に背を向けて座っている子供の霊がいた。
喜多室が、静かに言う。
「見えるのですか、警視。」
「ゆ、幽霊、なのか……」
古見原にとってはこの廃病院に入って初めて目にした人の姿だ。
野神も深谷も、古見原と子供の霊を交互に見た。
非能力者、非霊能者の古見原警視にも見える霊。
確かに他の霊より明瞭な姿をしている。が、やはり霊は霊だ。
…他の浮遊霊とこの子供の霊、何が違うのか。
ふと喜多室がそう考えた瞬間、背を向けて座っている子供の霊が、くるりと顔をこちらに向けた。
その顔は、心なしか愁いを帯びてはいるが、穏やかな表情をしている。
古見原がゆっくりと拳銃を床に向け下ろした時、館内の電灯が点き、周囲が明るくなった。
驚きと警戒の中、周囲を見回す古見原、野神、喜多室。
深谷だけが、子供の霊を見つめたまま、蒼ざめている。
『深谷くん。深谷ひさしくん』
古見原を囲っていた深谷の『光の壁』が、スウっと消えた。
深谷は常時発動とするはずのマルニクレヤボヤンスすらも解いてしまい、子供の霊に視線を釘付けにしたまま、ガクガクと震え出し、数步後ずさる。
野神はある事に驚き、目を見開いた。
明るくなった一階の通路に、いつの間にか医師や看護師、患者が歩く姿があった。
そこに廃病院の寂れた面影は無く、床や壁、長椅子は古いながらも清潔に保たれている。
ただ、音がない。
浮遊霊も、明るい院内に重なって、相変わらず徘徊している。
「うっ、くっ……」
深谷が喉を詰まらせたような声を出し、後ずさる足をつまずかせ床に尻餅をついた。
こちらを向いた子供が、更にずるずると顔をまわし始め、一回転させてこちらを向き、ニヤッと笑ったのだ。
その子供の首から、赤い血が滴り始める。
『深谷ひさしくん、ほら、首がまわるよ、ひさしくんのおかげで』
「はわっ、ハッ、ハッ、ハッ……」
声を出して呼吸を乱す深谷。
「し、指示だ、指示された、こと、だ……」
滝のような汗を顔中に流している深谷を見つつ、古見原は再びゆっくりと拳銃を子供に向けた。
そして、徐々に鮮明になっていく子供の顔をよく見る。
覚えのある顔。
古見原がデータを頭に叩き込んだのは刑事局捜査課長への辞令を受けた直後、最近のことである。
この顔、この子供……
…死亡した脱走者だ。当時この子の捜索に当たっていたのは、旧特殊研究員と、そして深谷。
目の前で薄ら笑いを浮かべている、首の切れた子供の霊。
それは深谷のトラウマ、そのものだった。
深谷が手に掛けた少年……当時の深谷もまだ年端のいかない少年だった。
古見原が叫んだ。
「これが霊なら精神感応だ! 本物かどうか見ろ! この子は本当にここにいるのか!?」
野神が深谷に手を差し伸べて立たせながら、子供の霊を凝視する。
喜多室は思い切って自分の『光の帯』を全て戻し、消した。
肉眼で子供の霊を見る。
「見えた……我々に精神感応攻撃をしているのは間違いなくこの子です。魂の光が明滅している。この子の『光の帯』が我々の頭上まで伸びています。」
野神が付け加える。
「だが、肉体は無い。そして、この子の霊は、霊体は今……第二階層にいる。」
第三階層の浮遊霊ではなかった。
古見原の目に、そして『光の帯』を消した喜多室の肉眼に見えたのはそのためだ。
霊体だけで存在を維持している使い手。
刑事局のこれまでの研究からは有り得ない存在だった。
可能性は研究されており、遠熊研究所長の文献では『肉体を失った能力媒体が第二階層に留まれる期間は四十九日間だとの仮説が立つ』とある。
それは『使い手縛り』……つまり強制的な幽体離脱の項目に記述があり、幽体離脱した能力者が肉体へ戻れなくなる完全な死を迎えるのが十日、そこから三十九日後には第二階層にも留まれなくなり、第三階層の存在となるといった内容だった。
野神は考える。
…なぜ突入時、我々のクレヤボヤンスに映らなかったのか。まさか……
「転送、されて来た、のか……」
古見原が拳銃を向けたまま、一歩、子供の霊ににじり寄った。
そして、一瞬何かを思案するような目をした後、拳銃を再び下ろして言った。
「御笠、一巳君、だね。我々は先に進まねばならない。この幻覚を解いてくれ。」
子供の霊、御笠一巳の霊は、ニヤけた顔から元の愁いの表情に変わると、ずるずると首を回し、階段の下に向く方向へ戻した。
『幻覚を解く? 僕はこの病院の記憶を思い描いただけ。お医者さんや病気の人たちの、ね』
「テレパシーのビジョンか。なぜこんな事をするのだ?」
『いろいろ教えてくれた。だから、やってあげた』
「誰に、だ?」
『もういいみたい。行くよ、僕』
古見原の目に、立ち上がりながら消えていく御笠少年の姿があった。
野神、喜多室、そして深谷の眼には、子供の姿が解けてオレンジ色の輪郭の付いた白い光に変わっていく様が視えている。
明滅しているその光は、ふわりと浮かび空中を揺れながら、地下一階の方へ降りて行った。
周囲は、元の薄暗い寂れた廃病院に戻っている。
クレヤボヤンスを再度発動した喜多室と、そして野神が同時に叫んだ。
「く、黒い空間が! 現れています!」
「灰色だ! 目の前! マルサン!!」
深谷は目の周りの汗を拭い、頭をブルブルっと左右に振ると、自分の『灰色』を第一階層に出し、古見原を囲った。
精神にダメージを受けた時の立ち直り方、その速さは『刑事局の灰色』ならではである。
完全にトラウマを押し殺せた訳ではないが、このマインドコントロール訓練を修得した者でなければ『灰色』には至れない。
「!」
深谷は、自分の足の裏が床に張り付いて思うように上げられない事に気付いた。
何が起きたのか……
「こ、凍り始めている……」
床が、靴が、凍り付いて離れなくなっているのだ。
それは他の三人も同じだった。
深谷の思考が急回転する。
…と言う事は……
深谷は反射的に頭上を見上げた。
「来た! 氷!!」
深谷の灰色の『光の帯』が四人の頭上に『壁』を作る。
床からも見る見るうちにタケノコのように氷の柱が伸びて来た。
ビキビキビキ……ビキビキ……
頭上の氷柱は深谷の『灰色』により空中で止まっているが、床から伸びている氷柱が四人の足を凍らせ始めている。
そして、氷の表面に触れたスーツが、焦げて煙を上げていた。
内側に防火服を着ていなければ、四人とも足に重症を負っていただろう。
ザッ、ザッ……ボゴオン!
深谷、野神、喜多室は、床を『光の帯』でえぐり取り、四人の足を床から離すと、天井へそれぞれ『光の帯』を突き刺し、入り口方向へ退却するように階段を離れた。
深谷の『灰色』に空中を引かれながら、古見原は考える。
…あの少年の霊、御笠は囮、時間稼ぎだ。
死んだ使い手を第二階層に呼び戻す、その方法は今は問題では無い。
御笠を時間稼ぎに使ったということは、深谷がここに来ると事前に知っていた可能性がある。
御笠の霊に精神感応ビジョンの幻覚を見させている間に、見事に追い出しの使い手が現れた。
そして、あたかも上下から怪物の牙に噛み挟まれるような氷柱攻撃を繰り出したとなると、我々の位置はかなり正確に視ることの出来る使い手だ。
一階フロント前に着地した四人に、再び上下から氷柱が襲い掛かる。
今度は足の下にもそれぞれ『壁』を張っていた使い手刑事たちは、ガリガリガリッと形成されては『光の壁』に砕かれていく氷柱に一安心しかけた。
だが、甘かった。
熱が『光の壁』を超えて足の裏を焦がす。
熱を帯びた気体、それ自体は『光の壁』を透過しない。
だが、『光の壁』の内側にある空気に熱が伝導してくるのだ。
慌てて四人の足を空中に浮かせるが、溶けかけた靴の裏の状態から、やはり常軌を逸した高温であることが伺える。
古見原たちは更に後退し、正面玄関の外に出ざるを得なかった。
四人が振り返った廃病院本館の中には、天井と床から伸びた『氷の牙』が、その怪物の口がよだれと吐息でも吐き出すかのように、蒸気を上げて見る見る溶けていく光景があった。




