焦熱の氷牙 5.
城下桜南高校、昼休み。
一年C組を廊下から覗いた鈴原千恵は、教室内を覗きながら背後へ向けて手をちょいちょいと動かした。
「来てるよ。ほら。」
その後ろで舞衣が、千恵の肩越しに恐るおそるC組を覗いた。
「あ、じゃ、呼んで。私、先に行ってる。」
「なによ、ちゃむが呼びなよ。」
「だって……」
顔を引っ込めて千恵の背に隠れる舞衣に、千恵は感じる。
らしくない。こんな舞衣を見るのは初めてだ、と。
舞衣と同じ小学校出身の千恵は思い出す。
舞衣は、友達と喧嘩をしても次の日にはケロッとして笑顔で話し掛けてくる子だった。
全く引きずらない彼女に、思い悩んでいたこちらが馬鹿馬鹿しくなるくらいだった。
そして、友達想いの根は優しい子であることも良く知っている。
…ちゃむも相手の気持ち、深く考えるようになったんだな。
つい責め立てるような口調になりがちな舞衣だが、そこには相手に対する思いやりが必ず介在している。
だが、それは全ての人に伝わるというものでも無い。
千恵は考える。
舞衣の良さを早く知ってもらうには、どういう舞衣を見せるのがいいのか。
…私が呼んで、連れられた先に、練習で怒ってた相手、ちゃむがいた。このストーリーは良くないな。
「だってじゃないよ、ちゃむ。自分で呼んで、ほら。」
「え、でも……」
「ちゃむさぁ、うじうじした人が嫌いだったんじゃないの? 自分がそんなじゃ説得力ないよ。」
「だって、泣いてたし……」
「逃げない、気後れしない、はっきりと意思表示、ちゃむの良いとこでしょ。勇気出せ、ほらほら。」
「え、勇気とかじゃ……うん。」
舞衣は、今自分が話し掛けても絶対に来てくれない、と思っていた。
土曜の自分の言葉が頭をぐるぐる回っている。
『どうして動かないの! バスケにならないよ! ボールが手元に来ないとシュート出来ないでしょ!』
比べてしまっていた。
中学のチームメイトはバスケ経験が皆長い部員ばかりだった。それと無意識に比べてしまったんだ。
聞いていたはずなのに、知っていたはずなのに。
湯澄まりもは高校から、この四月からバスケを始めた。
運動部というもの自体が初めてらしく、足も遅いしボールの持ち方も知らなかった。
『この桜南高校の女子バスケ部なら下手でも続けられるって聞いたから。』
控えめに笑いながら言っていたまりも。
143cmの身長は一人だけ子供が混ざっている様だったが、それでも、やってみると大変だけど楽しい、と笑顔を絶やさないまりも。
そのまりもを、泣かせた。
泣かせてしまったんだ、自分が。
『毎日足ががくがく。もっと体力つけなきゃな。』
『舞衣さんすごい。プロみたいにカッコ良いシュートだね。』
『三年間やったら、私も舞衣さんみたいにやれるかな。』
まりもの言葉と笑顔が舞衣の脳裏を過る。
…どうして、私、あんなに頑張ってるマリモちゃんに、あんなこと、あんな言い方……
こんなひどい女が呼び掛けて、話などしてもらえるのか。
怖い。
声なんか、掛けられない……
「……あ、やっぱ、千恵が呼んで。」
そう言って下を向いてしまった舞衣を見て、千恵は思った。
これは重症だな、と。
けど、重症には荒療治。
舞衣なら超えられる。
超えられるはず。
「だーめ。じゃ、私、先に紅河さんとこ行ってるから。」
千恵は舞衣の肩をポンと叩くと、C組の教室を離れて行ってしまった。
「え、あ、ち、ちょっと……」
取り残された舞衣は居場所なさげにおろおろとした後、再びC組の中を覗いた。
やや栗毛色の襟足の短いショートボブ、肩幅の狭い小さな背中。
湯澄まりもは席で一人、何か本を読んでいるようだ。
まず間違いなく、土曜のことで自分は嫌われた。
あの涙は、自己嫌悪を感じさせてしまったか、或いは憎しみか、怒りか。
怒っているだけならまだいい。ひたすら謝るだけだ。
自己嫌悪なら、そんなことを感じる必要など無いことを、どう伝えればいいのか。
わからない。
その前に、無視されたら、どう連れ出せばいいのか……
ふと舞衣は、中学時代の京子を思い出した。
『だって、房生さん、ちょっと怖くて。無視されたらどうしようって。』
初めて京子と言葉を交わしたのは体育館でのこと。
話し掛けてきたのは京子の方からだった。
部活中の放課後、バケツに書道具を入れ、脇に大きな模造紙を抱え、下を向いたまま京子は舞衣に向かって歩いて来た。
『ふさ、房生さん、キャプテンだよね?』
勇気。
確かあの時、京子は無口でクラスでは誰とも話さない生徒で、更に『カンニング女』と後ろ指をさされていたっけ。
…どうやってそんな勇気を出せたの、京子。
目的のためならなりふり構わず突き進む。
小林京子はそういう人だったんだ、と知った出会い。
目的のため。
目的。
…私の目的は、なに。
舞衣は意を決してC組の教室に入った。
一歩踏み出す時、足が思うように上がらずつまずきそうになった。
足が震えるってこのことか、と舞衣は思った。
「あ、ね、マリモちゃん。」
斜め後ろからの突然の声に、まりもは驚いて振り返った。
…え、舞衣さん。
返事もせず慌てて読んでいた漫画本を仕舞うまりも。
「あ、ごめんね、いきなり。今日、朝練、来なかった……」
「辞めるから。」
まりもは舞衣に背を向けたまま、か細い声を出した。
「え、あ、あの、そのことで、ちょっと話したくて……」
「邪魔でしょ。もういなくなるから。」
「え、じ、邪魔って……」
舞衣の胸がズキズキと痛み出す。
邪魔。
そんな風に思わせてしまったのか。
自分がしてしまったことの酷さに、涙が出そうだ。
「そんなことない。そんな、こと、思ったことない……」
「思ったから言ったんでしょ。わかってる。足手まとい……」
「え! 違う! それは違う!」
舞衣は座っているまりもの前に回り込んだ。
「皆んな言ってるよ、マリモちゃんへのパスが良い練習になるって。足手まといどころか、ほら、皆んなマリモちゃんとパス練習やりたがって……」
「うそ。低くて出しにくいんでしょ。」
「違う、違うの!」
舞衣が声を強めたのは、実際にまりもへのパスは部員全員のスキルを向上させていたからだった。
まりもがジャンプシュートする時、そのモーションのボール最下点は床すれすれなのである。
腰を極端に落とさないと、身長の無いまりもは上方への力が上手く乗らない。
女バスのパス練習は、パスを受ける選手がクイックシュートを打てるよう最下点を狙って出す、という練習に入っていた。
まりもへのパス、その斜め下に向かうことになるパスボールは、何も考えずに出すとどうしても回転が付いてしまい、まりもがキャッチしにくい。
受ける瞬間に手元で回転を殺すと、それだけで姿勢が揺らぐ。
一度床にボールをついて姿勢を整える、などがよく行われる対処だが、桜南女バスが目指しているのはその一歩先の高度なプレイ、クイックジャンプシュートだ。
この事が、どの角度に出しても回転を殺したパスの出し方、という課題を浮き彫りにさせ、飛ばす方向に正確に手首を押すスナップコントロール意識を持つようになった。
まりもが最下点で受けてスムーズにジャンプシュートに入れた時、他の部員はそれを成功したパスの基準にしているのだった。
「もう、今日出すから。退部届け。」
「え、ま、待って……」
駄目だ。
自分では上手く言えない。
まりもを引き止める目的、理由が、上手く伝えられない。
待っている紅河の所に連れていかなければ。
「あの、ちょっと来て欲しいの。一緒に。」
「え。」
「土曜に私が言っちゃったこと、部活中の言葉は簡単に謝るな、って言う人がいて、来て欲しいの。」
「謝るって、悪いの私だし。下手で、邪魔で。」
まりもの自己嫌悪の言葉が舞衣の胸をザクザクと切り裂く。
…違う……違うよマリモちゃん。
痛い。
こんなに痛いんだ。
ごめんなさい、マリモちゃん。
謝りたい。
今すぐ、謝りたい。
でも、あの紅河さんが言うの。
謝るのは、謝ればチームが強くなると確信した時だ、って。
それくらい練習中の言葉には責任持て、って。
男らしく向き合え、って。
私、男じゃないけど。
「お願いします! 来て下さい!」
舞衣は大振りに頭を下げると、まりもの腕を掴み立たせた。
そして、紅河の待つ体育館へとまりもを引っ張って行った。
掴まれた腕が、痛いほどに強い、とまりもは感じる。
…なんで? 下手な素人にどうしてそんなにこだわるの?
そう言えば監督が言っていたな、と彼女は思い出す。
全国を目指すのはいいが、退部者を出さないこと、と。
そういうことか、辞められたら困るんだ、こんな私でも、と冷めた納得がまりもの脳裏を過ぎった。
紅河と千恵は本館と体育館を繋ぐ渡り廊下にいた。
紅河の横には、誰だろうか、三年の青い校章を付けた女生徒もいる。
不機嫌そうな顔の紅河を見て、怒っているのだろうか、とまりもは思った。
サッカーのインターハイで忙しいのに女バスを手伝っている、それなのに辞めるってどういう事だ、とでも叱られるのだろうか。
…私の気持ちなんか、運動が苦手な私のことなんか、紅河先輩にわかるもんか。
舞衣に、謝るな、と言ったというのは紅河先輩か。
何を言われても、どれだけ怒られても、辞める。
もう決めたこと。
自分には無理だったんだ。
バスケットボールなんか。
「君が、湯澄まりもさん?」
「う、うん……」
「貴重な昼休みに悪いね。ちと中庭のベンチ、行こう。」
罵倒でもされるのかと思ったが、不機嫌なサッカー部のエースから出た言葉の雰囲気は予想外に優しかった。
どこか、日曜に話す父親にも似た温かさすら感じる。
昨日の父の言葉。
『そうか。せっかく始めたのにな。後悔の無いようにな、まりも。』
…バスケットシューズ買ってくれたのに、ごめんね、パパ。
心の中で謝る。
父だけではない。
母も、高校に入ってバスケットボールを始めた、と話した時の喜びようは今でも忘れない。
退部すると話し、残念そうな顔を見せたが、三ヶ月頑張って決めたことなら仕方ない、この三ヶ月は将来きっと役に立つわよ、と笑顔で言ってくれた母。
未熟児で産まれ、勉強も運動も人に追いつけない自分を、ずっと励ましてくれている両親。
…ごめんなさい。駄目な娘で、ごめんなさい。
悲しくなり、自然と俯いてしまう。
「もうお昼は食べたの?」
歩きながら不意に話し掛けてきたのは、知らない三年の女生徒。
「あ、はい。」
「はい、これ。」
その三年生はまりもに小さな紙パックのリンゴジュースを差し出した。
「え、あ、ありがとう、ございます。」
「私は斉藤知子、三年A組ですわ。ともりん、て呼んでね。」
「あ、湯澄です。」
ともりん?
今時、りん呼び?
この人はどうしてここにいるんだろう。
サッカー部のマネージャーかな。
紅河は昇降口へは向かわず、渡り廊下の途切れめから上履きのまま中庭に降りて行った。
まりもは上履きのまま外に出ることに躊躇する。
「あ、あの、先輩、上履き、履き替え……」
「関係ねーよ。このコンクリートんとこ歩けば、渡り廊下と汚れ方は変わらない。」
「え、あ、え……」
舞衣と千恵も当たり前のように降りていく。
斉藤知子だけが頬を膨らませた。
「全く、汚れの問題ではありませんわ。校則を守る気ないのかしら、皆さん。」
だが、そう言いつつも、上履きのまま降りていく斉藤。
仕方なくまりももそれに従って降りた。
斉藤が言う。
「先生に見つかったら一斉に紅河さんを指差すのよ。この人が主犯です、って。」
その斉藤の真顔が妙に可笑しく、まりもはクスクスと笑ってしまった。
ベンチに着くと、気温は高いものの、葉の茂った植樹が日光を遮り、爽やかな風が心地よい。
大きく弧を描いた半円に繋がるベンチで、一番端に紅河が座り、そのすぐ横に舞衣、そして千恵、少し間を空けてまりもが座った。
斉藤は紅河と反対側の端、まりものすぐ横に座る。
舞衣が紙パックの緑茶にストローをさしながら紅河に言った。
「体育館じゃないの?」
「うん。そう思ったけど、うるさいヤツがいたからやめた。」
「うるさいやつ?」
「サッカー部の須崎。高島さんとバスケのワンオンワンやってるらしい。」
「あー、七番の。ワンオンワンかぁ、凄そう、須崎さん。」
「あいつは手加減しないからな。高島さんにしてみればイジメられてるに等しいな。」
「いいえ、遙香先輩のチェンジオブペースは結構エグいですよ。」
「ほお。」
「後で見に行こっと。」
「ま、それはいいとして……湯澄さん、」
「あわ、あはい……」
居心地悪くリンゴジュースのストローを咥えていたまりもは、慌てて変な声を出してしまった。
きた。
怒られる……
「お礼を言いたくてさ。」
「はふぇ?」
…お、お礼?
あまりにも意表を突かれた紅河の言葉に、立て続けに変な声が出てきた。
隣で斉藤がふふっと笑ったのがわかる。
「ボールを持たないとシュート出来ない。この言葉に助けられたんだ。」
「え?」
「内容はちょっと話せないんだけど、発想の盲点に気付いて、ある厄介ごとが解決した。」
「え、あ、あで、でも、それ、私が言ったんじゃなくて……」
「ああ、聞いた。土曜の部活で、湯澄さんはシュートポジションのキープを主眼に置いた。舞衣ちゃんはパスコースの確保に主眼を置いた。その認識のズレが生んだ言葉、だろ。」
「え……」
…認識、の、ズレ?
「湯澄さんは大人だな。俺なら、それを言うならシュートポジションまでお前がボール運んで来い、んでトス渡ししろって言い返しちまうよ。」
「え、え……」
舞衣は紅河の横でやや下を向き、真剣に聞き入っている。
まりもはリンゴジュースを持ったままポカンと口を開けていた。
…叱られるんじゃないの? あれ? 舞衣さんも悪いの?
「え、あ、でも、ハーフコートしてたし、舞衣さんの、あ、パス受け取りに行くの、思い付かなくて……」
「あ、あれは……」
思わず口を挟み掛けた舞衣を、紅河が手で止め、言う。
「どっちも正しいと思う。運び屋はシューターが取ったポジションを活かすボール回しを考えて実行するべきだし、シューターは相手ディフェンスをかい潜る動きをいれるべきだし。」
「どっちも、正しい?……」
「うん。要は、これは何を主眼に置いた練習なのか、をきちんと前打ち合わせしとけば起きない衝突だな。」
「前打ち合わせ……」
言われてみれば、ハーフコートシミュレーションも、まだまだ漠然とやっている気がする。
何を主眼に置いた練習か……サッカー部は細かく頭使って練習しているんだな、とまりもは思った。
「こういうアツい衝突が起こるなら、いけるよ、女バス、全国。今年の一年は皆すごいな。湯澄さんも舞衣ちゃんも、これからも部を引っ張っていけよ。じゃ、そんな感じで。」
「え……」
…部を、引っ張る? 下手な私が? 足手まといの私が?
これは、褒められたのだろうか。
あれ。
舞衣さんが怒って、嫌味みたいに言われて……
でも、どっちも正しい……
こういう衝突、全国、行ける……
まりもは目を泳がせつつ、立ち上がり行こうとしている紅河に言った。
「あ、れ、私、あの、バスケ部、まだ、いても、いいんですか?……」
紅河は、いつもの不機嫌そうな顔でこう切り返した。
「全部員合計で十五人。全員ベンチ入りじゃないか。君が抜けてどうする。全員エースの桜南女バスにするんだろ。」
まりもはその胸中に、熱いものが静かに湧き上がるような感覚を感じた。
そして、舞衣も、千恵も、同じ感覚を覚えていた。




