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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第二章
158/292

蒼雷 10.

『助かりました、すみません、奈執なとりさん』

『なるほど、第一階層のテレキネシスは出しにくいね、あのスナールは』

『いえ、軽く火傷を負わせるだけのつもりだったんです。重症にならない程度に』

『違うような気がするよ、あのスナールの少年は』

『そうかな……俺の手を切り落とせ、と若邑わかむらに言っていた。篠瀬しのせさんの時も同様に……』

『あの女を撃ってしまえ、刑事さん、かい?』

『彼と警察の関係はよく知らないが、若邑が護衛する程の人物で、若邑に指示するなんて、ただの高校生じゃない事は確かだ』

野神のがみさんはあの紅河くれかわについて何か言ってなかったのか?』

『ノーマークだった。聞いていないです。あんな非能力者、あの時は眼中になかった』

『とにかく、若邑さんは上の指示に従っているだけだろうし、紅河もターゲットではない。向こうから仕掛けてくるなら話は別だが、しばらく放っておいた方がいいよ』

『篠瀬さんは泣き寝入りですか? 伴瓜ともうりをやることは皆で同意したでしょう。篠瀬さんはその伴瓜の下調べで殺されたんです。やられっ放しで我慢出来るほど、俺は大人じゃないです』

『落ち着こう穂褄ほづま君。さっきの君の行動、若邑さんが警察へ報告すれば、傘を壊した器物損壊、炎を向けた暴行未遂、少なくとも二つの罪状で手配されてしまう。君が確保されたら我々の事を隠し通すのはまず無理だ。一旦身を隠した方がいい』

『そう、だが……』


紅河淳くれかわあつしは怪しい。落雷にも炎にも動じないあの態度は……


穂褄の意識の中では、紅河が刑事局と公安委員会の悪行に絡む重要人物のように思えてきていた。

伴瓜と同格。

使い手を操り潰そうとする非能力者の一人。

スナールに護られる使い手泣かせの少年。

赤い魔女までも手懐ける腹黒い根回し。


『おいおい、考え過ぎだ、穂褄君、本当に落ち着けよ。彼は南條君を白楼から助け出した少年だぞ』

『それなら南條も怪しい』

『待った待った、南條君は傍観者だ。とにかく、少し頭を冷やした方がいい。迂闊な手出しは控えて、な』


奈執の忠告を聞いてか聞かずか、穂褄の方から精神感応を途絶えさせた。

包帯の男を中心とする脱走使い手の仲間は、集団で意思統一をしているが上下関係は無い。

誰かが統率する、といった組織機能が無い分、個々の行動の代償は自分で支払わなければならない。篠瀬佑伽梨のように。

だが、少なくとも篠瀬は、『計画』自体を警察に悟られるようなことはしなかった。

迂闊な事はしてくれるなよ、と奈執は思うばかりだった。


紅河と湖洲香こずかは南土蔵駅から上り電車に乗り、中代沢駅に向かう車中にあった。


「博士と一緒じゃない電車、生まれて初めてかしら。なんだか大人になった気分。」

「ご両親とは乗らなかったんですか、電車。」

「んー、どうだったのかな、二歳だったし、車に乗った記憶はありますわ。お父さんの事は全く覚えがないの。」

「そうですか……」


電車に乗る。こんな当たり前の日常でさえ子供のようにはしゃぐ湖洲香。

そうかと思えば、警官発砲の件では紅河の状況説明だけで刑事並みの仮説を展開する。

この推理力は特殊査定班での経験の賜物なのだろうが、不思議な女性だな、と紅河は思ってしまう。

立ち振る舞いや言葉遣いは、礼儀正しいのだが、上品とは少し違う。

斜めに上品、とでも言うのだろうか、それが可笑しくもあり、魅力的でもある。

湖洲香の上司である赤羽根あかばねに聞いた話では、礼儀作法などは白楼の遠熊とおくま研究所長が教えていたとのことらしい。


「あ、ね、紅河さん、」

「はい。」


湖洲香の表情は若干硬くなり、声のトーンを落としている。


「火が向かってきた時、怖くなかったの?」

「え、怖いですよ、そりゃ。」

「だって、平気な顔してるんですもの。」

「いえいえ、内心は全然平気じゃないですよ。あれがもし一般的な火ではなく、何か、なんだろ、霊的な火とか、超能力が生む特殊なプラズマだったりしたら、そっこー逃げてましたよ、湖洲香さん抱えて。」

「まあ。抱えて下さるのね。うれしいな。でも、それなら尚更、あんなギリギリまで冷静に見てたら危ないですわ。」

「逆ですよ。浮き足立って、焦っていたら、判断を間違える。気付くものも気付けない。足が震えて、全身が硬くなって、まともなプレイが出来ません。」

「プレイ? サッカーの話ではないのよ。」

「同じですって。考えてみたら、俺、サッカーからいろんな事を学んでますね。」

「そう、なのね。そっか……」


湖洲香はしばし紅河から視線を外し、車窓から外を眺めていた。

そして、不意にまた紅河の顔を見上げた。

なにやら目がキラキラ輝いている。


「ね、私、部活に入ってもいいのかしら。」

「へ?」


なぜ俺に聞く。

俺は警察の潜入護衛規定なんか知らないし、そもそも指示者でも判断者でもないから。


「知りませんよ。」

「そう……」


…なんですかその落胆した顔は。

…一気に目の輝きが消えましたけど?

…聞いたらどうですか、赤羽根さんとかに。


なんだろうなこの人は、と思いつつも紅河は、しょげてうつむいた湖洲香に、言い方が少し冷たかったかな、と反省した。


…え、なぜ俺が反省?

…考えたら負けか?


「あの、あれですよ。授業も受けてる事ですし、護衛任務に支障がないなら、いいんじゃないですか。課外活動も学生活動の一環ですし。」

「そうかしら! そうですわね!」


湖洲香の瞳が、再び眩しく輝いた。

あ、そういうことか、と紅河は気付く。

魅力的な斜めの上品さ。

本質は上品なのだ。

だが、湖洲香は、人目をはばからず喜怒哀楽を表に表す。

奥ゆかしさ、羞恥心、これが若干弱いのだ。

面白いものだな、と紅河は考える。

奥ゆかしさや羞恥心は日本人の美学とも言える要素。だが、それが薄弱な湖洲香を、ほとんどの人は魅力的だと感じるだろう。

そういう国民性を持つ国民でありながら、アンチな気質が魅力を添える。

天然強し、である。


デパートの五階、文披月祭典の会場に着いた紅河と湖洲香は、二人して息を飲んだ。


うお……

すごい……


小林京子の書は、まずその見た目から想像を超えた迫力があった。

躍動感と言うのか、程よく暴れた行書は、普段の京子からは想像出来ない威圧感さえある。

文字の周りに点々と跳ねている墨でさえ、まるで文字の一部のように存在感を持っていた。

筆舌に尽くしがたい、とはこの事か。

感想が、言葉が出てこない。


「すごい、ですわね……」

「う、うん……」


文字の威圧感になんとか慣れ、読んでみる。

しのぶれど、という五文字のひらがなが、紅河には、何か触れてはいけない恐ろしいものに感じる。

女性の心情の奥深さ、深淵、その底なし感。

彷徨う想い、という漢字の形が見せつける何かの魔力の様な黒い浮遊感。

夜に梳かす、壮大な黒に無数に光る星、その中で浮遊しつつ情愛を持て余しながらも、梳かすという表現が、一気に小さな一人の女性の切ない姿に収縮する。


…梳くも溶かれず、五月雨になる、か。


絡んだ髪を梳かすように、なだめても、なだめても、絡まった想いは治らない。

それが五月雨になって大地に降り注ぐ……


『五月雨はね、夏の生命の源なのよ。受け止めてあげるんだよ、ちゃんと』


篠瀬の残した言葉が、ストンと、紅河の中に落ちた。


…そうか。少しは気付いていたけど、そうか、京子……


小林京子の筆の雄弁さ。

それは紅河の胸を、深く抉った。

紅河の横で、湖洲香は言葉を失ったまま京子の書を見続けている。

既に何滴も溢れた涙で、その頬は濡れていた。


ドオォォン!……ジ、ジジ……


突然、上から巨大な鉄球でも落ちてきたかの様な音、そして振動。

次いで、五階フロアの照明があちらこちらで点滅し始めた。

消えた電灯もある。


ドドオォォン!……バリンッバリンッ……


戦車の砲撃か、と思う様な轟音と振動が立て続けに起こった。

遠くで硬化ガラスが割れている音もする。


「落雷か?」

「電気系統がやられ初めてますわね……」

「落雷なら階段から一階に降りましょう。外には出ない方がいいです。」

「ごめんなさい、うっかりクレヤボヤンスが解けてましたわ。状況を見る。」


直後、湖洲香が紅河の腕を掴み、ひっ、と短く吸い込む様な声を出した。

紅河の腕に、湖洲香の震えが伝わってくる。

湖洲香は頭を激しく動かし、上を見たり下を見たりしている。

クレヤボヤンス発動中の動作で、瞳ではなく顔を向けて驚いている姿を見るのは、紅河は初めてだった。


ズドオオォォォン!


三発目の轟音と振動。


「どうなってます?」

「ほ、づま、さ、ん……」

「穂褄? 穂褄がどうしました?」

「に、逃げなきゃ……降りましょう、紅河さん!」

「落ち着いて、湖洲香さん。落雷なら外は駄目です。中の方が安全……」

「だって、だって一階フロアにも! なんとか抜け出なきゃ!」

「何が一階フロアにもなんです?」

「あ、あ、そうだ、窓から飛び降り……」


紅河は、両手で優しく湖洲香の頭を包む様に触れた。


「湖洲香さん。ちとお願いが。」

「あ、え、なんですの?」

「今見えている『光の帯』のビジョンを、テレパシーで下さい。ほら、アルプスを見た時みたいに。」

「は、はい。」


湖洲香からクレヤボヤンスビジョンが来る。

紅河は一瞬目眩を起こしそうになった。


…これが360度の球体視界か……こんな像を見続けていたのか。


上下の感覚を見失わないよう、視界に仮想の軸を描く。

まず下。

距離感としては地上一階辺りか。

青にオレンジ色の筋が蠢く大蛇のようなものが、コマ送りのように数十センチの距離を行ったり来たり瞬間移動を繰り返しながら、その全体はゆっくりと這い回っている。

次に上。

紅河は思わずビクッと身を伏せそうになった。

上空一杯にまだらの青い光が点在し、血管のようにオレンジ色の筋が脈打っている。


…これが全部第三階層にいるやつなら、物理的な接触は無い!


紅河は湖洲香をヒョイと抱き上げ、階段へ向かって走り出した。


ズズズズズズズズ……


不気味な振動が来る。

だが、地響きとは少し違う。

横からのような、上からのような、この感覚は……


…建物が、このデパートが倒壊し始めてるのか?


ドドオォォン!……


あろうことか、穂褄は雷をこのデパートの屋上や外壁に落とし続け、デパート自体を叩き崩そうとしていた。

デパートは三方が歩道に面している。

中代沢はターミナル駅ではないが、午後七時の今は、帰宅途中や買い物帰りの歩行者が多い時間帯だ。

急な豪雨に、歩道の人通りは若干少な目ではあったが、この七階建てのデパートが倒壊したら大惨事である。

歩道の外側は、のろのろ運転の渋滞が繋がっている。


「ハッ、ハッ、ハッ……」


息を切らせて階段を駆け降りる紅河。


「紅河さん、動揺してごめんなさい、もう平気、私も走る。」

「はい。でも手は繋がせて下さい。それと、テレパシー、もういいです。あと湖洲香さんもクレヤボヤンスを解いて下さい。『光の帯』を収めて。」

「え? でも……」

「大丈夫です。保証します。」


紅河のそれは詭弁だった。

穂褄が第一階層テレキネシスに切り替えて打撃をしてこない保証など何処にもない。

しかし、今は、『見えてしまう恐怖』はいらない。

なぜなら、一階にクダを巻く青い『光の帯』の中を突っ切るのだから。

おそらく、落雷をこのデパートに当て続ける為には、一階に置いている『光の帯』でプラス帯電を起こし続ける必要があるはずだ。

ならば、無い。

第三階層にある『光の帯』を次元変換してくることは、無い。

一抹の恐怖。

それは……それは無視する。

第三階層の『光の帯』とは別に第一階層に新たな『光の帯』を出してくる多次元攻撃。

それは無視!


…無視しなけりゃ、こんなおっかない橋は渡れねぇ!


走りざまに見る各フロアは停電を起こし、予備電源電灯がぼんやり点いている状態にあった。

振動で陳列された商品や什器が倒れ、通路に投げ出されている。

一階に到着した紅河と湖洲香だが、フロアは階段まで人で溢れていた。

外の豪雨と雷に、出るに出られないといったパニック状態の群衆だった。

湖洲香は階段を駆け下りながらも、携帯電話で緊急救助要請を既に行っていた。

さすが警察官、と紅河は内心湖洲香を見直す。

来客の悲鳴、うめき声、従業員の叫び声が飛び交う。

エレベーターに閉じ込められた来客もいるようだ。


…くそっ、穂褄、やり過ぎだ。どこにいるんだ!?


一階が上階に押し潰される可能性はないか。

紅河にもさすがに焦りが出始める。


「さっきガラスの割れる音もしてましたわよね!?」

「え、はい。」

「外も危ない。私、止めてくる。」

「止める? 何をです? 外壁やガラスが降ってきますよ!」

「だからそれを止めてくるんですわ。」

「待った、外も状況を……あ、湖洲香さん!」


湖洲香は繋いでいた紅河の手を離すと、警察手帳を高く掲げ、人を押し分けて行った。


「警察ですわ! 道を開けて! ご協力を! 道を開けて!」


…ちっ


紅河は舌打ちすると、湖洲香を追って人をかき分けた。

正面玄関に辿り着く。

既に正面玄関のガラス扉は粉々に砕け散り、ドア枠に残るガラスは熱で変形していた。

落雷が一階の正面玄関にも直撃していたのだった。

湖洲香が土砂降りの外に出る。

紅河もそれを追って外に出た。


「紅河さん、ありがとう。あの青いのが見えてたら怖くて通れなかったですわ。」


土砂降りの雨が、赤い『光の帯』を頭上に水平に出している湖洲香だけを避けて流れ落ちていく。


「い、いえ、でも、来ますよ、外だと、雷の直撃が。」


湖洲香は軽く微笑むと、頭上を指差して言った。


「言ったでしょ。この『赤い傘』は放電も遮ってくれるの。」


…あ、そうか……気が動転してるのは俺か。


「紅河さんも私の横にいて。」

「はい。」


ドオンッ!バリンッ!


上方で音がした。

湖洲香は顔を動かさず、目を閉じた。


「視えた。」


湖洲香が薄く目を開く。

四階の窓ガラスが砕けて落ちてくる。

その破片が全て空中で止まり、デパートの中へ雨水と一緒に押し戻される。


「煙が出てるぞ……」


火災か。


「……ん、大丈夫よ。あれは、寝具か何かの売り場かしら。火が出てるけど、人はいませんわ。」


湖洲香が押し戻したのは、四階のガラスだけでは無かった。

大まかに六つの外壁を持つこのデパートの全ての壁、ガラスに、一瞬にして赤い『光の帯』が張り巡らされた。

あたかもデパートに巨大な絆創膏が貼られたように、外壁のヒビ、崩れた壁が押さえつけられている。

歩道には、若干のガラス破片が見受けられたが、ほとんどの落下物は湖洲香によって事前に防がれた。


ドオンッ!ドドオォンッ!!


かなり上の方でくぐもった爆発音が響いた。


「七階、レストランの厨房ですわね……ガス爆発かしら。人は……いない。あ!」


湖洲香の表情に緊張が走る。


…一階の天井が!


赤い『光の帯』はデパートの中にも伸びて行った。

崩落した天井を間一髪受け止める。


「まずいですわね……」


湖洲香の瞳が目まぐるしく動く。

崩れゆくデパートの各所を次々と抑えていく赤い『光の帯』。


「湖洲香さん、」

「なに。」

「一階の青い『光の帯』は相変わらずですか?」

「ええ、ずっとマルサンですわ。あの動きが素粒子振動の操作なら、摩擦帯電をまだ続けてるってことかしら。」

「了解。」


…五階に火災が広がったわ。


デパートの各所にクレヤボヤンスとテレキネシスを張り巡らせ、集中していた湖洲香は、気付くのが遅れた。

紅河が再びデパートへ飛び込んで行ったことに。


「え!? ちょっと! 紅河さん!!」


紅河の背中は、割れた正面玄関から中へ消えて行った。


「何を、紅河さん……」


駄目だ。

紅河を追っている暇は無い。

湖洲香がテレキネシスを解けば、おそらくデパートは倒壊するだろう。

落雷を何発受けたのかはもはやわからない程で、外壁はグズグズであった。

網の目の様に、デパートの外側と内側に絡みつき補強し続ける赤い『光の帯』。

一階には空気摩擦を起こし続ける青い『光の帯』、上空には雨雲内の氷塊を気流によって摩擦し続ける巨大な青い『光の膜』。


…俺の力を思い知れ、紅河淳! 雷は天災だ。君は事故死するんだ。俺を挑発するから!


穂褄の意識は既に、仲間の目的から外れ、個人的な憎悪を紅河に向けていた。


…赤い魔女め。そんな応急処置がいつまでも続くか!


湖洲香のクレヤボヤンスに、新たな青い『光の帯』が映る。

それは、デパートの正面玄関を向いて外に立つ湖洲香の背後に現れた。


…何をする気?


ヒウゥゥ……ォォオオ……


湖洲香のすぐ後ろで竜巻が起こり、雨水を巻き上げながら回転を上げていく。


「ええ?」


路上駐車の自動車が、グラ、グラ、と持ち上がり、竜巻は遂にその車を舞い上げた。

竜巻が湖洲香に接近してくる。


「もお……いい加減怒りますわよ。」


だが、湖洲香の赤い『光の帯』はその舞い上がった車をガッと掴むと、ドスンッと歩道に叩きつける様に落とした。


シュウゥゥ……


煙を上げてひしゃげる自動車。

雨水をゴウゴウと巻き上げている竜巻は、赤い『光の帯』によって形成された大きな直方体に閉じ込められ、その中で虚しく暴れている。


『いい加減にしなさい、穂褄さん』


一階の青いマルサンに精神感応を仕掛けてみる。

だが、返事が無い。

一方的に思考を読むには、本体の脳に近付く必要がある。

だが、どこにいるか判らない。

青いマルサンの根元が判らないのだ。


…もしかして、穂褄さんの身体、第一階層にはいないのかしら。


と、唐突に返ってきた。

穂褄の思念が。


『これほどとは思わなかった。甘く見てたよ、若邑。けど、目的は紅河だ。せいぜい頑張ってデパートのツギハギをしてればいい』


「そうだわ! 紅河さん!」


湖洲香は考える。

今、自分が『手』を離せば建物は倒壊、多くの人命が失われる。

自分の『手』の代わりになる物があれば、紅河を追える。

でも、そんな物あるのか?

穂褄は紅河にどんな攻撃を仕掛ける?

紅河はデパートの中で何を?


『煙が出てるぞ』


紅河が心配そうに漏らした言葉はこれだった。

そして四階に火災。

それは五階に燃え広がって……


…あ! もしかして!


湖洲香は五階の天井を支えている『光の帯』に意識を寄せ、第一階層クレヤボヤンスで様子を探った。


…やっぱり!


紅河は五階の文披月祭典の会場にいた。

階段は可燃物が無く、退路としてはまだ活きている。

五階の火災は書店モールに発生していた。

火の手は祭典の会場には届いていないが、煙と、紙が燃えたことによる火の粉が赤く舞っている。


「げほっ……目が痛え……」


床を這いながら金銀銅賞の展示エリアまで進んだ紅河は、京子の書に手を伸ばした。


「ごほっ、ちっ、目が開けられねぇ……これか……」


雨水をたっぷり被ってきたのに、もう服が乾いている。

会場の入り口付近の書には火の粉が掛かり、黒い焦げ跡が広がっている作品もあった。


「ん……うわちっ!」


紅河の腕に火の粉が落ちた。

もたもたしていられない。

紅河は気付いていないが、書店モールの火の一部が、蛇のようにうねうねと伸び上がり、近付いている。

外では湖洲香が携帯電話を耳に当てて叫んでいた。


「……そうですわ! 鉄骨! ビルとかの柱になるもの!……え? 百本でも二百本でも出来るだけですわ!……そんな短いのじゃなくて! もう! 七階のデパートの周りに突き立てるんですわ!……え? ええ? 無いの!?……じゃあ一番長いのを! いいから! え!?……重機なんかいりませんわ! 私が地面にじゃんじゃん突き刺すのっ!!……え? 今すぐですわ!……え!?……渋滞なんか! それならヘリコプターで空輸してっ! 出来ないじゃないの! やるの! 今!!」


五階では紅河が京子の書をなんとか剥がしたところだった。

煙で滲みる目を交互に開く。


…あん?


京子の書の右下、その作品にも『私立城下桜南高校』という文字が一瞬見えた。


…ついでだ、これも。


二枚目の作品を剥がしに掛かった。

飛んでくる火の粉が多くなってくる。


「ち、あ、あつ、あ、あ、やべ、やべ……」


左手に持っていた京子の書に火の粉がついた。


「うわあ、やべ、やべ……あちっ……」


煙が出てきた部分を慌てて手で握り消す。


「ふぅ、あち……あ、げ、穴空いた……」


文字の部分は無事だが、半紙の隅に穴があいてしまった。

更に、握り消した為に、そこがくしゃくしゃになっていた。


「あちゃー、泣くな、これ、京子、あーくそっ……」


紅河が二つ目の作品を剥がし終え、後ろを振り向いた。


…うわ!


蛇のように鎌首をもたげた炎の柱が迫っている。

恐怖にひきつる紅河の顔。

その時である。


バリイィン!


ガラス窓を突き破る音がし、音の方を見ると、煙を突っ切って水の塊が空中を凄い勢いで飛んで来るのが微かに見えた。


…な、な、な、なんだ……


バシャアァァァ


炎の柱に水の塊が覆い被さる。

滲みる目を堪えながら、紅河はその様子を凝視した。


…水で消えた。あの消え方。


穂褄の炎だったのか。

多分そうだろう。

消え方を見ると、炎の柱の形に、水もそれに沿って流れたように見えた。

まるで見えない管でもあるかの様に、水が炎の形をなぞったのだ。

と言うことは……


『紅河さん! お目当ての物は持ったの!?』


…やっぱり湖洲香さんか。雨水をそとからぶち込んでくれたんだな。


『おっけーっす』

『煙、吸わないでね!』


…うお。


紅河の身体はふわりと空中に浮き、そのままガラス窓まで引っ張られた。


…ち、ちょ、こえ、怖いって!


ガラスの破片がランダムに残っている窓が迫ってくる。


ドゴンッ!


紅河が身体を屈めた瞬間、そのガラス窓ごと、直径二メートルくらいの穴があき、紅河は外へ引っ張り出された。


…あ、う、濡れる、雨で半紙が……あ、あれ?


紅河は赤い『光の帯』で作られた球体に包まれていた。

雨水を外からぶち込んだそれと同じ様に。

湖洲香が眼下に見える。

ゆっくりと地面が近付いてくる。

ふわりと、紅河は地面に降り立った。


「ふぅ。」

「紅河さん、」

「はい。大変助かりました。お説教は後でお願いします。今、俺、いっぱいいっぱいです。」

「違いますわ。やっぱり紅河さん、素敵な人だな、と思って。」

「どの辺がですか……」


今の自分はカッコ悪さ全開だ、と紅河は思っていた。

逃げる算段も付けずデパートに飛び込み、京子の書には穴をあけ、結局は湖洲香のテレキネシスに全て助けられる始末。

ま、こんなもんか、俺は、とも思うが。


「雨が弱まってますね。穂褄は?」

「青は消えましたわ。もう完全に犯罪者ね、穂褄さん。指名手配ですわ。」


紅河はデパートを見上げた。


「それにしても、よく倒壊しなかったな。上の方でガス爆発もあったでしょ。」

「見てみます?」


湖洲香がビジョン共有のテレパシーを紅河へ送った。


「のわ! 何これ!すげ!」


一体何本の赤い『光の帯』が伸びているのか。

ヒビだらけの、おそらくは既に倒壊の状態にあるデパートは、全て湖洲香のテレキネシスによって抑えられ、支えられていた。


バラバラバラバラ……


遠く、ヘリコプターが近付いてくる音が聞こえていた。

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