蒼雷 9.
紅河から京子へもたらされた篠瀬佑伽梨の悲報。
そして、篠瀬が残した言葉。
京子の涙はそれらが誘ったものだろうと思い、紅河は彼女の次の言葉を黙って待った。
湖洲香も義継も、口を閉じて待つ。
だが、京子の涙の意味は少し違う。
まだ紅河と自分は繋がっている、という安堵だった。
「あのね、短歌を行書で出展して、文披月祭典、それを見に来てくれてたの、篠瀬さん。」
瞬きをした京子の瞳から、涙が頬を伝って流れた。
ハッとしてポケットからハンカチを取り出そうとすると、湖洲香が覗き込むように顔を近づけながらハンカチを差し出していた。
「あ、ありがと。」
湖洲香は軽く口元で微笑みを返す。
義継がチラリチラリと視線だけ京子へ向けていた。
彼は涙というものが嫌いだった。
自分も散々流してきた涙。
恐怖が度を超えて絶望に変わった時、勝手に滲み出てくる涙。
悲しみが過ぎた時、怒りが頂点を超えた時、抑えても抑えても溢れ出す涙。
涙は人の弱さのボーダーラインだ、と義継は考えている。
こんなにも弱い自分、それを思い知らされる。
涙によって。
だがしかし、今目の前に映る小林京子の涙は、なぜこんなに美しく見えるのか。
その表情がどこか穏やかだからだろうか。
篠瀬に対する悲しみや、人の死という恐怖への涙には見えない。
…読みたいな、京子さんの心。
ふとそんなことまで思ってしまうが、義継は何もせず黙って見守っていた。
京子が再び話し始める。
「五月雨は、その私の短歌の下の句の結び。それで、その……」
京子は『五月雨』という表現に二つの違う解釈を持たせ、この歌を詠んだ。
しのぶれど
彷徨う想い
夜に梳かす
梳くも溶かれず
五月雨になる
好きな人へ想いを告げられず、彷徨う気持ちを櫛で梳くように見上げる夜空。
梳いても、梳いても、その想いは溶けてなくなる事はない。
その想いは、初夏の夜空からしとしとと降り始める。
まるで、叶わぬ想いを洗い流す涙のように。
これが一つ目の解釈。
もう一つの解釈は……
その想いは、初夏の夜空からしとしとと降り始める。
そして、その五月雨は大地を潤し、夏に咲く生命へと変わるように、あの人へ届けてくれるだろう。
篠瀬の解釈は、後者だった。
だから紅河に言ったのだろう。
受け止めなさい、と。
…言えない。歌の意味、紅河さんの前じゃ言えない。
「んと、篠瀬さん、きっと勘違いして、かた、かた、かたお、かたおもい、片想いの、私じゃなくて、普通の、一般的な、恋心の、そういう歌を、なんか勘違いして、多分、紅河さんに……」
突如、湖洲香の瞳がくわっと大きく開いた。
「小林さんっ、その短歌、どこで見れるのかしらっ。」
「あ、え、あ、中代沢のデパートに、県主催の文披月祭典で調べると、ネットでも出てきます。」
湖洲香は鼻息も荒くスマホを取り出した。
横で義継もスマホをいじりだす。
「ありましたわ。紅河さんっ、」
「はい。」
「今日行きますわよ、中代沢のデパートにっ!」
「え、ああ、でも部活で遅くなりま……」
「だまらっしゃい! 二十時までやってますわ! 絶対行くの!」
「は、はい……」
…だまらっしゃい、って。
義継がスマホを見ながらクスクスと笑っている。
京子はあたふたし始める。
「あえ、あ、あの、普通の、一般的な、あれ、こ、こい、違うの、自分のことじゃ……」
「小林さんもだまらっしゃいっ。」
「あっはははははは、京子さんも怒られてやんの。うはははは。」
遂に義継は声を出して笑い出していた。
その義継を、湖洲香が睨む。
「義継さん、何を笑っているの? 土曜日は引きこもったら押しかけますわよ、義継さんのお宅に。」
…え、うそぉ……
義継はビクッとして笑いを止めた。
紅河がボソッと聞く。
「なに、土曜って。」
「お兄さんがお食事に誘って下さったの。もう、楽しみなことが多くて、どうしましょう。」
「へぇ。」
満面の笑みを浮かべる湖洲香の顔を見て、義継は思った。
ずっと警察に閉じ込められていたのだ、湖洲香が楽しめるなら、出来る限り付き合ってあげよう、と。
そこに、午後の授業五分前の予鈴が鳴り響いた。
「あら。」
「時間ですね……義継クン、話って?」
「うん、僕の話は急がない。また今度にしよう。」
「ね、紅河さん、次は何だったかしら、お勉強。」
「午後一は英語っすね。」
「じゃあ男女一緒ですわね。」
「はい。」
「小林さん、明日はお昼をご一緒してね。」
「え、あ、はい。」
「義継さんもどう?」
「んー、パス。」
「ってか義継クンは土蔵西だろ、来るなよもう。」
「あらそっか、学校が違うのね……え、駄目じゃない、ここに来たら。」
…今頃かよ湖洲香さん。
四人はパイプ椅子を片付けると、サッカー部部室を後にした。
京子の心に、短歌が見られてしまうという恥ずかしさと焦りが入り混じった気持ちがザラザラと蠢いていたが、同時に、温かい陽だまりのような感覚もあった。
紅河の大きな背中が、また身近に戻ってきた。
桐山聡美さんの邪魔はしない。
けど、いいでしょ、少しくらい、片想いを秘めていても。
近くに居られれば、それだけでいい……清々しさにも似た感覚が、京子の足取りを軽くさせていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
放課後、部活を終えて部室館から出て来た紅河は、開け放たれた出入口で待っていた湖洲香と合流した。
「すみません、待たせてしまって。」
「ふふ。仕事ですから。」
「また降りそうだな。」
十八時近い薄暗い空には、黒い雨雲が重々しくあった。
歩きながら湖洲香が声をひそめて言う。
「ご報告よ。三十分前くらいに、サッカー部の練習場の下、地面の中に、紫色の『光の帯』が伸びていたわ。」
「紫色? 地面の中を? 攻撃の気配は?」
「なかった。『マルサン』という出し方で、この前見てもらったデータのあれですわ。どっちにしても私の『マルニ』では捕まえられない。地殻損壊を起こすことも理論上は出来るので、地震が来たら紅河さんを空中に逃がそうと思ったけど、何もしないで消えましたわ。」
「俺がいきなり空中に浮くってのは、ちとまずくないですか。」
「護ることが最優先なの。」
「はぁ、まぁお手柔らかに。その『紫』って、誰だか判別出来ました?」
「んと、『紫』というカラーデータは三人あって、亡くなった枝連さん、それと栂井翔子ちゃん、あとは脱走者の奈執志郎さんですわ。」
「紫でマルサンてことは、その、ナトリシロウ、ですか。」
「色だけでは決めつけられないけど、その可能性が高いですわね。」
「目的はどう読みます?」
「思考を読む位置までは近づかなかったので、紅河さんが学校にいる事を確かめただけ、かしら……」
「……」
それだけでわざわざ偵察するとしたら、帰路は危ない、と考えるのが妥当か。
襲ってくるのか。
それとも、この学校に潜む使い手を探している、とか。
「湖洲香さんは、その『紫』に見つかりました?」
「ともりんよ。それが何とも。私は書道部の部室で見学してるフリして透視していて、360度の小さな球体視界にしていて、これくらいの、頭からはみ出ないくらい小さい『光の帯』だから、気付かれたのか、気付かれなかったのか……」
「ふぅん。まぁ、気付かれた前提で対処しますか。」
「ですわね。」
紅河と湖洲香が正門を出ると、ポツリ、ポツリ、と小雨が降り出した。
湖洲香が折りたたみ傘を開く。
だが、紅河は持っているワンタッチの傘をまだ開かずにいた。
「ちと、桜並木は避けて、住宅街を抜けて行きましょう。少し遠回りですけど。」
「お任せしますわ。」
湖洲香の声は警戒心を伴っている。
それはクレヤボヤンスへの集中力を高めた証拠だった。
あくまでもイメージだが、紅河には、道の両側に桜の木が続いているあの道は、落雷の狙いが定まりやすいような気がした。
…ん、きたか?
頭髪が紅河の額に張り付く。
湖洲香を見ると、長い黒髪の裾がふわふわと踊っている。
プラスの電荷を帯びた毛髪が、互いに反発し合っている現象だ。
静電気は湿度が高いと逃げていく。
乾燥した冬ではなくこの季節に起こる現象としては、異常とまでは言わないが、やはり不自然さを紅河は感じる。
「湖洲香さん、」
「ともりん。」
「傘を。」
「了解ですわ。」
何事も起こらなければそれに越した事はないのだが……二人はやや緊張の面持ちで住宅街の狭い路地を駅へ向かう。
サァー……
小雨が本格的な雨に変わる。
紅河はまだ傘をささずにいた。
さすがに濡れてきた顔を、腕でグイッと拭き取る紅河。
それは突然だった。
あの昇降口の時と同じく、音もなく、いきなり、光。
蒼白い光が、紅河の視界を一瞬真っ白にした。
ズキァッ!……
そして、直後、金属が悲鳴をあげるような轟音。
湖洲香がさしていた赤い折りたたみ傘が、煙を上げてボロボロになり、金属製の柄が黒く炭化して裂けている。
落雷。
それは湖洲香の傘を直撃した。
「うお、おっかね。」
「ああん、傘がボロボロですわ。」
…む……あれは……若邑湖洲香、赤い魔女なのか!
落雷を仕掛けた使い手、穂褄は、第三階層クレヤボヤンスを第二階層クレヤボヤンスに切り替え、上空から視界をズームアップさせた。
第三階層クレヤボヤンスは第一階層クレヤボヤンスと第二階層クレヤボヤンスの機能を両方兼ね備えており、魂の色と実体を同時に視ることが出来る。
だが、視野意識は、どうしても実体を視てしまう。
攻撃の命中率を上げる為には、実体を視た方が容易だからだ。
今、魂の光しか視えない第二に切り替えた。
紅河と並んで歩くその魂の光は、赤くヌメヌメと明滅する球体を頭部辺りに浮かべ、ヒュルリと一本、帯も伸びている。
…傘を『光の帯』で持っていたのか。
落雷は枝分かれし、民家のアンテナと湖洲香の傘に落ちた。
湖洲香の傘に吸い寄せられた放電は、傘をさしていない紅河を避けた。
…くっ、『光の壁』を張るまでもない、ということか。
全てを見透かされたような相手の対処に、穂褄は苛立ちを感じた。
確かに道幅の狭い住宅街の路地では、人体付近に摩擦帯電を行っても、それよりも高い民家や樹木に流れる可能性の方が圧倒的に高い。
放電の性質までは、さすがに操れない。
南土蔵駅の駅ビル、その屋上にいた穂褄は、テレポーテーションに入った。
確かに、紅河に直撃させようとした訳ではない。
だが、クレヤボヤンスで視る紅河は、驚きもせず平然としている。
それが穂褄のプライドに触った。
脅した後に、問い詰める。
篠瀬への発砲を誘導したのは君か、紅河淳君、と。
そうするつもりだった。
だが、県警の魔女が、そこにいる。
それならば……
…熱エネルギーはすり抜ける。『光の帯』をな。止める術は無いぞ、赤い魔女。
紅河と湖洲香が歩く路地、その背後の角に、穂褄の姿は現れた。
火というもの、その物質的な構造を穂褄はよく知らない。
だが、個体、液体、気体の三態とは違う第四の形態であり、熱エネルギーが物を焼き、溶かし、崩壊させていくことはわかる。
そして、『光の帯』の第一階層テレキネシスは、熱エネルギーを遮断出来ない。
「青い? どなた!?」
穂褄が仕掛けるよりも早く、湖洲香のクレヤボヤンスが突然背後に現れた穂褄を捉えた。
そして、瞬時に、穂褄の両腕に赤い『光の帯』が巻き付いた。
…な、なんだ、この速さは。
放出の瞬間さえ見切れない赤い『光の帯』。
これが赤い魔女なのか……。
「誰れです、あれ。」
「色は青、キシト君より濃い青。帽子で顔がよく見えないけど、青は、穂褄庸介さんかしら。」
「穂褄? あの、火を出すっていう?」
紅河は、湖洲香よりも少し前に身体を出した。
「危ないわ、下がってて、紅河さん。」
「どんな状況? 相手は出してんの?」
…なめやがって。
赤い『光の帯』の締め付けは、さほど強くない。
だが、巻き付いた赤い『光の帯』の内側から押し戻してもビクともしない。
このままでは確保されてしまう。
そんな失態は出来ない。
穂褄は両腕を掴まれたまま、ゆるりと青い『光の帯』を第三階層へ出した。
ゆっくりと、うねるように、それは紅河に向かって伸びてきた。
「下がって! 紅河さん! あなた、穂褄さんでしょう? 無駄な抵抗はしないで!」
…無駄、だと?
ボッ……メラメラメラ……
湖洲香は見た。
伸ばされた青い『光の帯』にオレンジ色の筋が流れ出し、一瞬全体が黒ずんだ後、帯に添うように炎が発生した。
「なに?」
紅河の目には、空中にロープ状の火が突然現れたように見えた。
それは加速し、紅河に向かって来た。
反射的に赤い『光の壁』を張る湖洲香。
だが……
「止められないよ。」
穂褄のつぶやき通り、その炎は赤い『光の帯』をすり抜けた。
「紅河さん!!」
悲鳴まじりの湖洲香の声が甲高く響く。
だが、紅河はやや顎を引き、後退ることなく、向かってくる炎を凝視している。
そして、左腕で湖洲香を自分の背後に押しやると、右手でワンタッチ傘を前方へ向けてバッと開いた。
「やっぱり普通の火か。色や揺らめき方でわかった。その程度の炎なら、濡れた傘で充分止まるよ。」
…でも、おかしい。『光の帯』から炎が出るのはどう考えてもおかしい。
数秒は傘で耐えられる。
だが、炎が当たり続けてはさすがに燃えてボロボロになる。
「湖洲香さん、あいつの腕、切り落としちまえ!」
紅河はあえて、凄みを利かせた声で叫んだ。
とにかく火を止めさせたい。
「ええ? ああ、もお!」
まさか穂褄の腕を本当に落とす訳にはいかない。
湖洲香は仕方なく、更に数本の赤い『光の帯』を出すと、穂褄の首、両足、腰などに瞬時に巻き付け、締め付ける力を強めた。
「あ、が、うっ……」
…なんだ、なんだ、こ、殺されるのか、魔女、赤い、魔女……
穂褄は想像を超えた湖洲香のテレキネシススペックに、半ばパニックになりかけた。
穂褄が発した炎が消えていく。
ズンッズンッ、ズンズンッ、ズンッ!
その時である。
上空から垂直に、紅河と穂褄の間に紫色の『光の帯』が槍のように降ってきた。
それは湖洲香の赤い『光の帯』を斬り付け、地面を突き刺しては消えていく。
穂褄の身体が解放される。
そして、その『紫』の一本は穂褄へ伸び、身体を包むように全身に巻かれた。
ゆらゆらと波打ち、消えていく穂褄。
『紫』は、湖洲香と紅河へテレパシーを残し、消え去った。
『負け負け。君らは戦いの相手じゃないんだ。悪かった。忘れて』
湖洲香はガクッと肩を落とし、深く息をはいた。
「ああ驚いたわ。火は止められないの。……ね、紅河さん、本当に火を出したでしょ。」
だが、湖洲香が見上げた紅河の横顔には、怯えた様子が全く伺えない。
いつもの、少し不機嫌な顔で何やら考え込んでいる。
「紅河、さん?……」
…もう、この子はどうしていつも平然としてるの。怖くないのかしら。
しばらく考え込んでいた紅河が、なにか釈然としないような目を湖洲香に向けた。
「とりあえず、行きましょうか、中代沢。ともちゃん。」
「そう、ですわね。」
二人は歩き出した。
それぞれ、ボロボロの傘を手にして。
雨は上がっていたが、濡れてしまった紅河が、透けたワイシャツを肌から引き離すように胸元をパタパタとさせ、クシャミをした。
「ふぇっきしんっ!」




