蒼雷 3.
体育館に向かう渡り廊下は約一メートルの高さの壁があり、その上は吹きさらしで外が見える。
昼頃に降っていた雨は止んでいたが、空は相変わらず曇っており、湿った生温い風が女子バスケ部員たちの髪を荒々しく乱した。
一年生部員の舞衣は、暴れて戻った髪の裾が少し肩に触れ、それを掴んでみる。
湿気の多い日は左裾のハネがほぼ真横にクルッと巻き、言うことをきかない。
…伸びたな、ちょっと切ろうかな。京子も切ってたし。
部員は制服姿の者、ジャージ姿の者、半々。
サッカー部の篠宮と紅河はいつでも自分の部に戻れるよう下はジャージ、上はTシャツを着ている。
体育館では男子バスケ部がフルコートのゲームを行っていた。
男バスのキャプテンが、入ってきた女バスとその監督顧問に気付き、身振り手振りで「空けます?」と伺う。
顧問教員は「空けなくていいよ」と右手を振ってジェスチャーした。
男バスキャプテンが深々とお辞儀を返す。
と、お辞儀から顔を上げた彼は、サッカー部の二人に気付き、二度見をしたが、ゲームの主審に戻った。
篠宮が口を開く。
「さっきの話をまとめると、女バスが全国大会をターゲットにして練習プログラムを変えていく桐山さんの提案について、賛成が三分の一、三分の二は反対でしたね。で、サッカー部が全国常連の理由に話が流れた。サッカー部が勝つ理由、ついてはこの紅河がハイスコアラーなのは練習や努力なのか、それとも生まれつきのサッカーの申し子なのか。」
女バス部員は篠宮の声が聞きやすいよう、彼を囲むように集まり始めた。
そこへ、一年生の鈴原千恵と悪虫愛彩が遅れて入ってくる。
二年リーダーの高島に言い付けられたマジックやガムテープを取りに行っていたのだった。
篠宮が続ける。
「まぁ、両方だな。サッカーセンスはもともと良いし、努力が苦手と言うわりには一人でこそこそ何かやってるヤツだった。」
女バス部員がざわめく。
「ただね、去年の夏頃までは、丁度一年前頃か、紅河は大会スタメンだったにも関わらず、まぁやる気の感じられない、なに、脱力系とでも言うの? ゆるゆるフワフワと遊んでるみたいな選手でね。」
「否定はしねー。」
紅河がそっぽを向いたままボソッと言葉を挟んだ。
苦笑を見せる篠宮。
「で、こいつに目を掛けていた高田先輩が、言ったわけ。何て言われた、淳。」
「『お前、いつになったらサッカーすんの?』」
「うん。で?」
「意味わかんねー、と思った。」
「それで?」
「俺はサッカーしてるつもりですけど、つったら、『得点までの構造、工程、センターサークルからシュートまで、言ってみろ』と言われた。」
「うん。つまり?」
「シュート打つのが俺の役目だとしたら、そこまでボールを運ぶ役目も存在する。得点はシュートだけで成る事象じゃない。サッカーが得点を競う球技なら、ボールに触る全ての行為を競う、という事だ、と。」
「うん。パス、トラップ、ドリブル、フェイント、故意のファウルに至るまで、全ての精度を上げられるだけ上げて競い合う、その精度の高さを比べるのがサッカーというものだ、だったな。」
「だな。『紅河みたいな、来たボールを小賢しくゴールに放り込むだけのプレイはサッカーとは言わない』とか言われてさ。高田先輩、ニヤつきながら嫌味言う人だからムカついたな、その時は、軽く。」
「あの。」
視聴覚室で意見した二年の佐藤陽葵が、眉をひそめながら口を開いた。
彼女は『まったり楽しく派』である。
「なんか、それ、当たり前のような。先輩たちの言いたい事がよく……」
それを紅河が受ける。
「うん。てことは、佐藤さんだっけ、君はちゃんと『動作の精度を競い合う』バスケが出来ているってこと?」
「ええ、あ、ん、はい、上手くパスして、上手くドリブルしてって思ってやってます。」
「うん。じゃあ、負けた試合の後は『精度上げ』をやって、次のゲームに臨んでる?」
「やってますよ、練習は。」
「そう。前回の校外試合はいつだった?」
「えっと、地区予選の後に、緑瀬北高と練習試合しました。」
「勝った?」
「いえ、緑瀬北は県ベストエイトだし、すごく強くて。」
…典子の学校。
舞衣の頭に中学校時代のバスケ部仲間が過る。
向川典子という、舞衣と同学年でガードをしていた、ドリブルでは舞衣を凌ぐプレイをする親友だ。
「そうか。で、佐藤さん、何ミリ修正した?」
「え?」
何ミリ? 修正?
紅河が何を言い出したのか、佐藤には全く判らない。
「パスの到達点は高かったの? 低かったの? 誰へのパスをその試合後に何ミリ直した? シュートは? リングの何処を狙った? 今は何ミリ狙いを修正してる?」
「え、何ミリって……」
「ほいほい、そこまでだ、淳。佐藤さん、『得点を競う』イコール『プレイの精度を競う』、ここまではいい?」
「え、あ、はい。」
「他の人は? 俺たちと佐藤さんの話、ついて来れなかった人いる?」
「はい!」
二人分の声が重なった。
高島と舞衣だった。
二人とも『全国目指し練習強化派』である。
篠宮が一人づつ名指した。
「高島さん。」
「はい! パスを何ミリ修正とか、意味が全然わかりません! リングの狙い所とかは判りますけど、ミリ単位で狙いを定めるなんて、試合中にそんな、出来ません!」
「なるほど。おっけ。んじゃ、もう一人は、えっと……」
「房生です。」
「はい、フサオさん。」
「パスは受け取る人の姿勢や向いてる方向と、あと敵選手の位置で、手首を狙うのか、胸なのか、リーチの届く頭上ギリギリを狙うのか、どんどん状況は変わっちゃいます。手首を狙うとして、数ミリ修正とか、意味があるとは思えないんですけど。」
「なるほど。おーけーです。他は?」
愛彩が無言で手を上げた。
「あ、はい、君。」
「悪虫です。」
「え、アクムシ、さん?」
「はい。」
「開く虫? 悪い虫? 悪夢師、とか……あてっ!」
「関係ねーツッコミよせ。」
紅河が篠宮のふくらはぎを軽く蹴った。
そして、篠宮に代わって紅河が聞く。
「愛彩ちゃん、何?」
「パス修正、やりたいんですけど、舞衣の言ったみだいに状況多くで、走りながら反復パスだけでも何十通りもパターンあっで、本当は皆んなとやらねと、でも組む人いつも同じで、どうしたらいいですか。」
…お、愛彩ちゃんが先頭行ってるか。
「愛彩ちゃんがパス修正する目的は?」
「コンマ一秒早く次の動きに入るごと。」
…ほお。思ったより近いかも、女バスの全国。
だが、部員のほとんどは目を泳がせながら黙り込んでいる。
「おっけ、疑問と問題点は判った。先生、」
「はい。」
「今後の方向性、部員たちの意見がまとまってから先生が判断、でしたよね。」
「ああ、そのつもりだが。」
「多分、皆、迷いたくてもその選択肢自体がよく判らない、って感じじゃないですかね。部員の総意を決めるの、今日じゃなくてもいいですよね。」
「うん、全員が納得するまで話し合うといい。」
「どーも。」
「ただし、この話し合いが原因で退部者が出るなら、方針は変えない。」
紅河の目付きがほんの少し変わった。
「先生、それなんですけどね、今の方針は、この方針が原因で辞めた人はいなかったんですか? 誰も辞めない方針なんて在りますか?」
「誰も辞めなかった、とは言えない。だがな、紅河、私は今ここにいる部員たち、こいつら全員が大事なんだ。」
「五人いましたね、全国に向けて立て直したいという部員が。で、反対が十人。全員を大事にする。それ、どういう意味ですか? 今ここで説明して下さいよ、どういうやり方が全員を……」
「待って、紅河君。」
桐山が熱くなりかけている紅河を止めるように言葉を挟む。
「せっかくサッカー部の二人が貴重な時間を使って来てくれてるので、体育館に来て何をしようとしてるのか、皆んな聞こうよ。サッカー部、インターハイ準備の大事な時期なんだよ。だから、監督、誰も辞めないように頑張りますから、少し紅河君たちの話を聞かせて下さい。」
「き……」
きれいごと言ってたら進まない、と言おうとした紅河の肩を、篠宮が触った。
そして、顧問教員の方を見て言った。
「先生、多分、誰も辞めないと思いますよ。今日のミーティングにも休まず出席したってことは、校外試合にも出たいってことでしょ? 辞めないですよ。だって……」
篠宮はチラリと桐山に視線を流し、そしてまた顧問教員を見た。
「……勝ち始めるんですから。これからの試合。」
顧問の表情が少し険しくなった。
何かを思案するように視線を床に落とした後、部員全員を見渡し、言った。
「何が変わるわけじゃない。バスケはバスケだ。結論が出たら呼んでくれ。聡美、後は任せた。」
桐山がぺこりと顧問に頭を下げると、部員も全員、去っていく顧問の背に一礼をした。
篠宮も軽く頭を下げる。
一人だけ礼をせずに腕を組んで不愉快そうな顔をしている紅河がボソッとつぶやく。
「逃げやがった。」
篠宮と桐山が同時に紅河に目をやる。
二人はそれぞれ思った。
淳は変わったな、と。
何に対しても無関心で、もしくは無関心を装い白けた顔をしていたあの紅河が、こうも熱くなるとは。
三年になってこの三ヶ月、一体彼に何があったのか、と不思議になる程だ。
「いいじゃないか淳、先生いない方がやりやすいだろ。」
「まあな。」
紅河は油性マジックと白いガムテープを受け取ると、五十センチくらいにガムテープを切り、床に貼った。
「これ、そうだな、センターラインの一部とする。」
そして、男子バスケ部に声を掛け、ボールを一つ借りた。
それを見ていた高島が一年生に声をかけ、女バスのボールカゴを出す様に指示する。
紅河は女バス部員を見渡しながらポイントガードは誰か、と呼びかけた。
「スタメンは一応私だけど。」
三年の津田が紅河に駆け寄る。
「ほいボール。この辺からパス出し頼む。あとは……佐藤さん。」
「え、私? はい。」
「軽く走りながら、このガムテのセンターライン辺りでパスを受け取る。ちとやってくれるか?」
「え、制服なんですけど……」
「軽くだよ、軽く、小走りでいいから。で、受けた直後二三歩ドリブル。」
「はい。」
「スタート地点にこれ貼って、床に。」
「あ、はい……」
佐藤が三メートルくらい手前の床にガムテの切れ端を貼り、仮想センターラインのガムテープに向かって小走りする。
センターラインの辺りでボールが渡るよう、津田がパスを出す。
センターラインの位置で佐藤が立ち止まり、津田のパスを受け取ると、そのままドリブルを数歩行った。
「ストップ。」
紅河は、佐藤がドリブルを止めた足元に、またガムテープを貼った。
そして、篠宮に聞く。
「何秒?」
篠宮はストップウオッチを見る。
「9秒27。」
紅河が津田に聞く。
「佐藤さんの走るスピードは変えず、今のを7秒に短縮するにはどうしたらいい?」
「え、と、陽葵が立ち止まらなければ、2秒くらい縮まるかな。」
「てことは?」
「え?」
「津田の修正は?」
「あ、私の? ああ、ええと、走り過ぎるタイミングに合わせてボールを出せば、陽葵は止まらなくて済むね。」
「んだな。じゃ、もっかい。7秒で。」
「え、そんなすぐ……」
「出来なくてもいいんだ。挑戦。」
「うん、わかった。」
ボールが津田に戻り、再びスタート地点から佐藤が走り出す。
今度はパスが早すぎ、受ける佐藤は少し走りを速めてキャッチした。
だが、キャッチの時に体勢が悪く、ドリブルに入る挙動にもたつきが出た。
「何秒?」
「7秒44。」
「佐藤さん、」
「はい。」
「佐藤さんとしては、走るスピードは変えずに更に秒を縮めるにはどうしたらいい?」
「あー、と、すぐドリブルに入れるように、やっぱりセンターラインでのキャッチですかね。」
「具体的には? 津田に要求することは?」
「走りながらのドリブルは、もっと、こう低い位置でするので、パスが低いと助かります。」
「どの辺?」
「え? あ、えっと……この、この辺りかな、あ、もうちょっと高くていいか……とりあえず、ここ。」
佐藤はキャッチの理想位置を示した。
紅河が高島を呼ぶ。
「高島さーん、佐藤さんのキャッチ位置、床から何センチか測って。メジャー。」
「はい! 鈴原ぁ、メジャー、投げて。」
高島がボールを持ったまま屈んでいる佐藤の手の位置を床から測る。
「六十二センチでーす!」
「おっけ。佐藤さん、高島さん、ありがと。戻って来て。」
そう言うと紅河は体育館の壁に向かって行った。
そして、高島からメジャーを受け取ると、床から六十二センチを測り、壁に直径五センチくらいの黒丸をマジックで書いた。
更にその黒丸の横に『RCーS』と書く。
「あ、あ、あ、ちょっと……」
体育館の壁に油性マジック。
蒼ざめる桐山。
平然と説明し始める紅河。
「RCってのはランニングキャッチ。Sは佐藤さんのS。ガードの津田はもちろん、他の部員全員、この黒丸目掛けてパス練習。ボールが黒丸に当たり続けるとだんだん消えてく。佐藤さんは、全員から納得のいくパスが出してもらえるまで、この黒丸が消えそうになったらまた書く、を繰り返す。」
「ちょっと、あつ……紅河君、まずいよ、壁に落書き……」
「何言ってんだよ。これは佐藤さんの数十パターンのうちのたった一つだぞ。部員十五人掛ける数十パターン、そうだな、千個は書くぞ、黒丸。」
「えええええ、だ、駄目よ、そんな……」
慌てふためく桐山を見ながら、篠宮が笑いながら言う。
「これが去年問題になった部室館の壁事件の真相だ。ちなみに、マジックはボールにも着く。ボールに着いた黒は壁にもベタベタと転写しちまう。体育館なら、床も真っ黒になるな。」
「なるな、じゃないよ、駄目だよそんな、消そうよ……」
「あれ、桐山、知らないんだっけ?」
「え?」
「去年のキャプテンも紅河もかなり怒られたけど、あの壁が汚れてからサッカー部は無敗、しまいには『勝利の壁』とか呼ばれてんだぜ、職員室で。」
「そうなの? でも、体育館は駄目だよ、生徒集会や文化部発表にも使うし、まずいよ絶対。」
紅河が平然と言う。
「消せって言われたら、じゃあサッカー部のように専用コートと練習場を作れ、って言えばいい。」
「え、でも、それ、淳が言ってくれるの?」
「それは女バスキャプテンの仕事だろ。」
「えええ、いやああ……」
直径五センチの黒丸とRCーSの文字。
Sは佐藤のS。
…私が受けやすい位置を身に付けるためだけにある印。
佐藤はそれが書かれた壁を指でなぞった。
…もっと高い方が良かったのかな、何回もやってみないとわかんないな。
佐藤の心臓が高鳴り始める。
自分のためだけの印に、これから部の皆がこれに向かってパス練習をするのか、と思うと、不思議な高揚感が湧いてくる。
「皆んなの、皆んなの印も、早く作ろうよ、ね、桐山先輩。」
「え……」
反対派の佐藤、その変わりように、桐山は目を白黒させた。
女バスが解散となり、帰り支度を整えた紅河と桐山が昇降口で逢ったのは午後六時過ぎだった。
外は雨が降り始めている。
「あれ、またにわか雨だね、淳。」
「ん、うん。」
妙に額にまとわりつく前髪にうっとおしさを感じていた紅河は、制服のスラックスもやたらと足に張り付く事にも気付き、生徒手帳をポケットから取り出した。
塩化ビニールか何かの、生徒手帳には透明なポリ樹脂の部分がある。
紅河はそれを自分の腰に当てた。
驚いたことに、生徒手帳はスラックスに張り付き、落ちない。
…なんだこの異常な静電気は。
ポリ樹脂はマイナスの電荷を帯びやすく、頭髪やナイロン繊維はプラス電荷を帯びやすい。
ピカッ……ゴロゴロゴロ……
昇降口の外が蒼白く光り、遅れて雷鳴が遠く轟く。
「聡美、」
「え?」
「今、外に出るなよ。」
「え、傘ならあるよ。」
「いいから出るな。それと、少し俺から離れてろ。」
「ええ?」
桐山が不思議そうな顔を紅河に向けた直後……
バリバリバリッ!……ガシャアアァン!!
昇降口は蒼白い光で包まれ、直後、ガラス戸が割れて弾け飛んだ。




