蒼雷 2.
県警、特殊査定班。
事務所の予備室から算数の問題集を両手で抱えて出てきた雅弓は、事務椅子の上で両膝を立てて体育座りしキーボードを叩いている門守結姫を見つけると、歩み寄った。
雅弓の表情はどことなく陰り、元気が無い。
「ユウキ。」
「ん、お、出来たあ?」
「うん。」
「どれ。」
門守は椅子の上で足を崩し胡座をかきつつ、クイっと椅子を回転させ、雅弓の方を向いた。問題集を受け取り目を通す。
「ふん、ふん、ふん、ふんふんふん、ふふふふふん、と。」
そして、問題集越しに雅弓の顔を見た。
雅弓が心配そうに門守の目を見返す。
門守が問題集で口元を隠したまま、目を細めた。
それを見て、雅弓の眉が心配そうな表情を強める。
不意に、門守が問題集を下げて口元を見せ、言った。
「全問せいかーい。」
雅弓の表情が緩む。
「……なんだけど、さ、まゆみちゃん、」
「え。」
門守が問題集を雅弓に向けて見せた。
「これ、ここ、分数のかけ算、途中式、どうしてわざわざ分母を合わせた?」
「え、あ、うんと、どっちが大きいか見た。」
…お。
「足し引きでもないのに、どうして比較した?」
「ひかく?」
「大きい小さいを比べること。」
「あ、んと、かけ算だと、両方とも答の方が小さくなるから、どっちがどっちをたくさん小さくしたか見た。」
…ほほお!
算数は数学の基本ルールを知る過程に過ぎない。
従って、単純計算はそのルール、法則を知るだけで良い。
だが、雅弓はその単純計算の式の中で分析をした。
義務教育の場では『それは不要、無駄』と言われてしまうことかも知れない。
だが、それは、世の数学者たちが目を光らせる『好奇心という珠玉の才』である。
分析の内容やレベルの高さは関係ない。分析したこと、それに大きな意味がある。
「そういうことなら……」
門守は赤いボールペンを取り問題集に書き込み、それを雅弓に見せた。
「はい、120点!」
「うあ、100点より凄いの?」
「めっちゃ凄いっす。」
「やった。」
だが、雅弓の「やった」は声が小さく、いつもの元気が無い。
少し心配になる門守。
「ちょっと疲れたかな?」
「んーん、平気。」
「何かあった?」
「え、なんで。」
「元気ないなーと思ってさ。」
雅弓は黙り込み、視線を落としては門守の顔を見ることを数回繰り返した。
そして、ボソッとつぶやいた。
「学校って楽しいのかな。」
門守はデスクの上へ手を伸ばし、ガムのポリケースを取ると、パチっと開け口を起こした。
「いる?」
首を横に振る雅弓。
すると門守は、今度はデスクの引き出しを開け、何かを取り出し、雅弓の右腕を掴んだ。
「ヤるか。うひひひ。」
門守の右手にある物を見て、雅弓はギョッとした。
注射器である。
そして彼は、その先端を雅弓の右腕に突き当てた。
「ぶすっ。」
「ひあっ!……あれ。」
だが、その注射器の先端はスコッと注射器本体の中に押し戻り、雅弓の腕には何も刺さらなかった。
門守が押子部分を親指で押す。
すると、注射器から猫の鳴き声が発せられた。
にゃあ
「猫注入。」
門守の表情のない棒読みの言葉の後、少しの沈黙を挟み、雅弓が笑い出した。
「ぷはっ、あっははは、何これ、ねこ、あははははは!」
「あげる、これ。」
にゃあ
にゃあにゃあ
にゃにゃにゃあにゃあ
「あははは、ねこねこ、あはははは!」
受け取った注射器を連打する雅弓。
明るくなった彼女の顔を見ると、門守は言った。
「友達とか出来るね、学校は。」
「ともだち?」
「うん。まぁ嫌なヤツもいるけどね。どこにでもいるんだよ、変なヤツとか。」
「楽しいかな。」
「なに、行きたいの?」
再び黙り込む雅弓。
その目は何かを思い出しているように左右に動いた。
「何か言われた? こずかちゃん?」
「ううん。」
「いおりん?」
「ううん。」
「くまりんか。」
「ううん、言われてないけど……」
「けど?」
「私、ほごかんさつちゅうだから、学校行けない。」
…やっぱ行きたいのか。
何がきっかけで急に学校のことを考え始めたのか。
昨日までの雅弓にはその気配や素振りは無かった。
少なくとも門守は感じなかった。
「テレビとか、小学校とかやってた?」
「ううん、見てない。」
雅弓が思い出しているのは、昨晩の出来事だった。
特査生活施設エリアの自室で、消灯時間の後、ベッドで湖洲香から借りた漫画本を読んでいた。
『こんばんは、マユミさん』
「え。」
テレパシー。
だが、周りを見渡したが『光の帯』は見えない。
気のせいか。
『学校は楽しいところだよ。普通は皆行くんだ』
「え、誰?」
間違いない。テレパシーだ。
だが、見えない。
もしかして……
雅弓は薄ピンクの『光の帯』を出し、その眼で辺りを見回した。
「金色……」
そのテレパシーの主、金色の『光の帯』は第三階層に在った。
『誰? ここ警察だよ』
『僕が通った小学校の思い出を見せてあげるね』
『誰!? 名前も言わないで!』
『マユミさんと友達になりたいんだ』
『バカにすんな! 名前……』
『今名前を言っても僕が知らない人には変わりないよ。だって会ったことないんだから』
赤羽根の教えは、不審なテレパシーには『名前を問え。そうすれば必ず相手は自分の名を思い浮かべる』である。
だが、この『金色』は、その名を思い浮かべない。思考から消し去っている。
テレパシーもこれまで経験した他者の思考と違い、雑念の浮き沈みが感知出来ず、すっきりとした一つの思考のみが言葉として入ってくる。
『会ったことないなら、なんで友達になりたいの』
『独りで強く生きてきたマユミさんを僕は知っている。好きなんだ、君が』
『キモい!』
『ははは。これが学校の風景だよ』
雅弓の脳にビジョンが流れ込んでくる。
授業中の教室風景、給食の風景、運動会、体育館、笑っている子や怒っている子、問いに答えられず立ったまま困っている子、学芸会、音楽の時間、図工の時間……皆、雅弓と同じ年の生徒ばかりで、活き活きと学校生活を送っているビジョンだった。
『せっかく窃盗の罪を償ったのに、普通の生活をしないのかい?』
『え』
『警察の偉い人にも罪を話したのでしょう。それなら、もう許してもらったということでしょう』
『でも、ほごかんさつちゅうだって』
『悪い人は牢屋に入れられる。でもマユミさんは違う』
『え』
『学校に行くには親の変わりをする人が必要なんだ』
『いない』
『だからさ、いるんだよ』
『え』
『マユミさんが学校に行けるように、里親になりたいという人が』
『さとおや?』
『マユミさんは勉強もできるから、きっと友達に尊敬されるよ』
『三年生のとか四年生のとかもやってる』
『すごいね。同い年の子に教えてあげれば楽しいよ』
雅弓は想像する。
学校へ行き、進んでいる勉強を同学年の子に教えている自分の姿を。
『また話に来るよ。保護観察はマユミさんを縛る規則だから、警察の人に言ったら学校へ行く話は無くなるよ』
『え』
『おやすみなさい』
『え、待って……』
そして、金色の『光の帯』は消えた。
「まゆみちゃん、てば。」
「え。」
門守の呼び掛けにハッとする。
「学校の事はいおりんに相談かなぁ。でも、しばらくは無理っぽいかな。保護監察官のいおりんが同伴通学とか無理っしょ。」
雅弓は暗い面持ちで床に視線を落とし、注射器の押子を押した。
にゃあ
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「事情は判った。そういう事なら、篠宮、紅河、行ってこい。必要なら私も呼べ。援護してやるぞ。」
城下桜南高校、放課後、職員室。
サッカー部のキャプテン篠宮と紅河、そして女子バスケ部キャプテンの桐山は、サッカー部顧問教員に相談に来ていた。
相談内容は、女バスを冬の全国大会出場を目指して立て直したい、その為に経験豊富なサッカー部の二人に女バスミーティングに参加して欲しい、との桐山からの要望について。
「うす。」
「はい。」
「ありがとうございます。」
サッカー部顧問から快い言葉を受け取った三人は職員室を出た。
「俺は部に寄って指示出してから行くから、淳、先に行っててくれ。いきなり引っ掻き回すなよ。」
「ほい。」
篠宮と別れた紅河と桐山は視聴覚室に向かった。
女バスはサッカー部と違い、狭いロッカールームが与えられているだけで部室が無い。
ミーティングはいつも体育館の隅で行っていたが、今日は『重大な話なのだという空気』を作りたく、桐山が視聴覚室使用を申請したのだった。
いつも不機嫌そうな顔の紅河だが、今日はいつにも増して表情が重いな、と桐山は思った。
表情が重い、と言うか、やつれていると言うか、何か悪いものでも憑いているのではないかと思ってしまうような目付きをしている。
「淳、何かあった?」
「あ?」
「いつもの淳じゃない。」
「別に。」
別に、のニュアンス。
何か隠し事をしている時のニュアンス。
桐山には判ってしまう。
「言いたくないなら聞かないけど、調子悪いなら今日はいいよ、篠宮君が来てくれるし。」
「何でもないよ。」
確定的だ。
何かあった時に紅河が使う言葉、『何でもないよ』。
桐山は紅河の右腕に触れ、彼の前に出た。
「待って、淳。」
「……」
軽く背伸びをして紅河の目を覗き込む桐山。
少し身を引く紅河。
「寝不足?」
「寝てるよ、ちゃんと。授業中も。」
何かを隠す時に出る、照れ隠しのような冗談。
心配だ。
桐山はポケットから目薬を取り出した。
「ちょっと、上向いて。」
「え、いいよ。」
「すっきりするやつだから。しみないし。」
「いいって。」
「上、向け。」
上、向け、という言い回し。
懐かしいな、と思いつつ紅河は観念した。
桐山は、十センチ以上身長が違う紅河に対し、立ったまま器用に、紅河の目に外さず点眼する神業を持っている。
点眼する瞬間、斜め上を向く桐山の顔は紅河の首筋のすぐ間近にあり、吐息がくすぐったい。
「はい、おわり。」
「ふぅ。」
目を瞬かせる紅河。
思いの外、心地よい爽快感が目から染み込んでくる。
「聡美、」
「ん?」
「俺さ、内向的なんだよ、多分。」
「知ってるよ。」
…む。
「携帯を持たないのは、別に話したくないとかじゃなくて……」
「出ないとか、メール返さないとか、勝手な誤解がウザい、でしょ。」
……
「もっと価値観の合うやつ、いるだろ、俺みたいな……」
「オレみたいなテキトーなヤツじゃなくてさ、でしょ。」
…むむ。
「人生そこそこ適当に、がモットーなんでしょ。知ってるよ、淳のことは何でも。」
「お前みたいに優しくて、愛情深いんじゃ、疲れるだろ、俺なんか。なんか合わないね、って、そういうことだろ。」
しばし、会話が途切れた。
視聴覚室が見えてくる。
「そういう話、また今度しよ。」
そう言った桐山の横顔を盗み見た紅河だったが、その表情は読めなかった。
桐山の横顔は、冷たくも見え、温かくも見えた。
女バスミーティングが開始された。
教壇の位置に桐山、二年の高島、そして一年の学年リーダー鈴原千恵の三人が立つ。
一年リーダーは四月から六月の三ヶ月間欠席が最も少なかった部員の中から部内投票で選ばれる。
千恵は部活を一度も休んでおらず、気さくで明るい性格も皆に好かれ、誰の異論もなくリーダーとなった。
生徒席に座っている部員は三年生が二名、二年生が四名、一年生が六名、欠席なく全部員が揃った。
そして教壇の横に女バス顧問教員が座り、反対側にサッカー部の篠宮と紅河が座っている。
桐山から提案というかたちで全国大会を目指す話が、まず出された。
その間も、紅河の胸中には、昨日から絡みつくように離れない篠瀬佑伽梨の死が黒い靄となって立ち込めていた。
聴いてはいた。
耳には入っている。
桐山の真剣な話も、フォローする高島の熱弁も、他の部員たちのため息や賛同の声も。
だが、どこか遠い。
まるで心の中の篠瀬の影が、ノイズを発しているようだ。
伴瓜がやらせたのか。
野神なのか。
そして、なぜ。
なぜ。
なぜ、篠瀬は殺されなければならなかった……
「……どう? 紅河君、発言を。」
唐突に飛び込んでくる桐山の声。
「え、ああ、努力? 正直に言うけど、俺は努力は苦手です。」
「ほらぁ。」
「ほらね。」
「もともと凄いんだよ紅河先輩はー。」
「苦手って言っただけでしょ!してないなんて言ってないよ紅河さん!」
舞衣の甲高い声に、目配せを送りながら制する紅河は、こう続けた。
「ただ、周りの部員から言われることだけど、俺は分析屋らしい。それもオタクレベルの異常な分析をする、と。」
静まり返る視聴覚室。
全員が、紅河の次の言葉を待つ。
「足のインサイド、アウトサイド、トウ、かかと、小指の付け根、膝、腿、これらのサッカーで主に使う部位はもちろん、胸、腹、背中、尻も含めて、ボールが触れても反則にならない部分は全て、どういう感触で当たったらどういう方向にどういう回転でどういう勢いでボールが弾かれていくか、やってみると言うか、調べると言うか、理解するまで延々とボールに触ってたりします。」
続く沈黙。
唖然とする部員、真剣な顔でコクコクと頷く部員、皆少なからず驚きの表情をしている。
ただ一人、サッカー部キャプテンの篠宮だけが腕を組んでニヤニヤしていた。
「あの。」
部員の一人が小さく手を挙げた。
桐山が視線を向け、言う。
「どうぞ、佐藤さん。」
「あの、あ、紅河先輩に、あの、失礼かもなんですけど、その、そんなことしてて、楽しいんですか?」
紅河は目を軽く泳がせた後、答えた。
「わからない。楽しいような、つまらないような。なんて言うか、納得いかないんだ。自分に触れたボールの行方がわからないままにしておく事が。操作したい、意のままに、って意識がある。」
「それはそうでしょうけど、だって、背中に当たったボールなんて、わからなくて当たり前と言うか……」
「当たり前、かなぁ。背中にも筋肉はあるし、球技ってのはボールを自在に操ることを目指すスポーツだよ。」
「あの、そういう事が言いたいんじゃなくて、せっかく時間割いて部活やってるのに、ゲームとか楽しいことをしないとつまらないし、と思うんですけど。」
「うん、ま、言いたいことはわかります。君はゲームの何が楽しいの?」
「え、何がって、試合の方が、シュート練習とかパス練習とかより、バスケしたくて入部したので……」
「バスケ、したい?」
「はい、もちろん。」
「君は今、バスケが出来ている、と自信を持って言える?」
「え?」
「淳、待った。」
篠宮が割って入った。
紅河の言う『バスケをする』と、佐藤という部員の言う『バスケをする』は意味合いにズレがある、と見たからだ。
篠宮が紅河に何かを耳打ちした。
「……え?」
「ほら、二年の時、淳が汚して怒られた部室館の壁の。」
「ああ、あれね。」
紅河は女バス顧問の教員に向いて言った。
「先生、ちと体育館、いいですかね、今から。」
「ああ、構わないよ。」
「ども。んーと、高島さん、」
「はい。」
「五メートルのメジャー、それと油性のマジック、太いやつ、それと、ガムテープかカラービニールテープ、用意してくれる?」
「え、あ、はい。」
「ん、そんじゃあ、全員、ちょっと体育館へ。」
「何をするの?」
「もち、バスケ。」
紅河はそう答えると、のそっと立ち上がった。
彼に視線を向けた桐山は、あれ、と思った。
さっきまでのやつれた様な感じがなくなっている。
紅河本人も気付いていなかった。
女バス部員とのやり取りや球技に対する持論を巡らせることが、一時かも知れないが、紅河から黒い靄を取り払っていた。




