黒い鶴 10.
通夜がとり行われている部屋は畳敷きで、三十畳の小広間だった。
遺影と棺桶が置かれ、白黒の鯨幕が壁に吊るされている。
遺族は焼香の列の左右に向かい合うように、座布団に座っていた。
伴瓜とその母親は焼香台の傍に立っており、焼香に訪れる者全てにお辞儀を返している。
刑事局配下の刑事は五人おり、座っている遺族の後ろ、鯨幕の前に並んで立っていた。
紅河の知る顔は、三角巾で腕を吊っている野神と、セミロングの黒髪を後ろで結った風見の二人だけである。
通夜だと言うのに、お焼香に向かう参列者は多い。
篠瀬佑伽梨は、今、小広間に入った所だった。
列に加わらず廊下から覗いていた紅河は、篠瀬に歩み寄り、その左腕に軽く触れた。
振り向いた篠瀬の顔に、驚きの色が小さく浮かぶ。
…紅河君!
どうして、どうやってここに。
テレポーテーションを追うなど不可能なはずなのに。
いや、もしかしたらあの皆月岸人は追う術を開拓しているのか。
でなければ、紅河少年がここにいるはずがない。
だが、篠瀬は何も言わず、紅河を無視するように焼香台の方を向くと、列に従ってゆっくりと進んだ。
…今の篠瀬さんの表情はどっちなんだ? 仕掛けるのか、様子見だけなのか。
紅河は列に割り込むわけにもいかず、小広間の中が見える襖の陰で、様子を伺った。
…ん。
篠瀬がまだ廊下にいる時から彼女を見つめていた野神が、スッと伴瓜へ歩み寄ったのが見える。
野神は伴瓜に何か耳打ちした。
…野神さんは篠瀬さんの姿が見える前から、もしかしたらこの家に入った辺りから視ていたのかも。そんな雰囲気だな。
紅河は伴瓜の表情を凝視した。
伴瓜の大きな三白眼が、篠瀬に向く。
伴瓜が小さく頷くと、野神は下がり、風見達の横に戻った。
祈るように、篠瀬の後ろ姿に目をやる紅河。
…駄目だぞ篠瀬さん。何もしないでくれよ。
篠瀬も、軽く下を向く姿勢を維持し視線こそ向けていなかったが、野神の伴瓜への耳打ちには気付いていた。
…当然ね。使い手を見かけたら報告しなければならないのでしょうから。
野神は自分のことをどこまで報告したのだろうか。
刑事局は脱走者のリストを持っている。
名前と『光の帯』の色くらいは伴瓜に知らされただろう。
それは想定内、そもそも自分達は今日刑事局の使い手数人へ接触する算段なのだから、遅かれ早かれ、動き出した事は刑事局に伝わる。
その事は問題無い、と『包帯の男』は言っている。
しかしながら、篠瀬には小さな後ろめたさがあった。
野神に『スピリウル』を教えたこと、第三階層に潜る『光の帯』はクレヤボヤンスを発動していなければ見えない事も話した。
…何が起きても宗一君だけは守る。
案の定、野神の紺色の『光の帯』が篠瀬の視界にチラリと入った。
おそらく常時クレヤボヤンスを発動しているだろう。
その他に二つ、クリーム色の『光の帯』と灰色の『光の帯』も見える。
…女刑事、あれは風見紗夜さん、それと男刑事、新渡戸瑛教さん。
その横に並ぶ他の二人の刑事は、篠瀬は顔を知らなかった。
白楼ラボでも見かけたことが無い。
第二階層クレヤボヤンスを出せば能力者かどうかだけは判るが、篠瀬は『光の帯』の放出を控えた。
『我々の仕業だと気付かれないこと』、これだけは遵守しなければならない。
今自分の黒い『光の帯』を出せば、何もしなかったとしても偵察行為だと取られかねない。
伴瓜が勘の鋭い刑事だったら、自分の殺害の準備として父親が亡き者にされた、と洞察してくる事も考えられる。
刑事局は、あの遠熊蒼甫の知識を丸ごと持っていると見て間違いないからだ。
やはり今日は無理か、と篠瀬は考える。
伴瓜の父親の霊も、今ここにはいない。
その霊はまだ病院にある。
ふと、思う。
…ご本人の霊がここにいないのに、亡骸にお焼香、か。
列が進んでいく。
焼香台の横に立つ伴瓜に、後ろで待機する野神に、近付いていく。
野神の、風見の、新渡戸の『視線』を感じる。
だが、篠瀬は汗ひとつかくことなく伴瓜と母親へ一礼すると、故人を悼む参列者を装い、淡々と焼香を済ませた。
廊下で、襖の陰から息を飲んで見守る紅河。
篠瀬が焼香を済ませ、小広間を出た。
紅河の前を通り過ぎる瞬間、篠瀬は小声で言葉を落としていった。
「帰りな、すぐに。」
紅河は、伴瓜と野神をチラッと見遣り、黙って、玄関へ向かう篠瀬の後に付いていった。
篠瀬は何もしなかった様だ。
胸を撫で下ろす紅河。
小広間では、篠瀬が顔を知らない刑事局の刑事が一人、伴瓜に呼ばれた。
小広間の隅へ行き、声を秘そめて伴瓜が言う。
「脱走者、篠瀬佑伽梨だ。聴取の要請に行け。今日のところは任意としていい。だが、相手は使い手だ。非能力者である君の身に危険が及ぶ。もし、身体のどこかに見えないものが触れた感触を受けたら、即時に発砲しろ。公務執行妨害と正当防衛が適用される。殺してしまっても構わん。自分の身を守る事を最優先にしろ。」
「は、ですが、相手が使い手ならこちらも使い手の方が宜しいのでは。」
「篠瀬は使い手刑事の顔を知っている。無用な抵抗から惨事が起こりかねない。頼んだぞ。」
「は、承知致しました。」
「くれぐれも自分の身を守る事が最優先だ。人の首など簡単に斬りとばす相手だ。拳銃の安全装置を解除して行け。」
「は。」
そう指示された非能力者の刑事は、喪服の内側に忍ばせている拳銃を確かめると、小広間を出て行った。
それを確かめると、伴瓜は、今度は野神の肩を叩き、部屋の隅へ連れて行った。
「今、篠瀬の任意聴取要請に行かせた。クレヤボヤンスで追ってやってくれ。彼が心配だ。状況を随時教えて欲しい。」
「は。」
野神は既に発動していた第二階層クレヤボヤンスを第一階層クレヤボヤンスに切り替えると、篠瀬を追った刑事へ追従させた。
第一階層、三次元クレヤボヤンスは、障害物があるとその先は視えないからだ。
その伴瓜達のやり取りを知らない篠瀬は、玄関を出ると、門の所で立ち止まり考える。
この後の伴瓜の行動は? 実行のタイミングは?
穂褄達はあの野神らと接触したのだろうか、それとも急な通夜で接触出来ていないのか。
そして、すぐ後ろに所在無さげに突っ立っている高校生の方を向き、背の高い彼へ右手を伸ばし、見上げる様にして額を軽くトンと押した。
「ストーカー君、か、え、れ。」
「篠瀬さんがここを離れるのを見たら帰ります。」
「どうしてここが判ったの。」
「岸人が一緒に飛んでくれた。どう探したかは、俺にはわからないです。」
「ほんと、岸人君は凄いわね。誰よりも早く新しい能力を身につける。」
「テレポーテーションなんて新しくもないんでしょ。」
「出来ないのよ、普通に考えて、追跡なんて。」
「そうなんですか!?」
そこへ、刑事局の刑事が一人、篠瀬に声を掛けてきた。
何かを警戒するように、二メートルほど距離を取っている。
そして、その右手は懐に差し込まれていた。
「篠瀬佑伽梨さんですね。お伺いしたい事があります。ご同行頂けますか。」
こうなるのも当然か、と篠瀬は想定していた。
「強制ですか、任意ですか。」
「任意です。」
その頃、小広間の隅では、野神が伴瓜に状況を口頭で伝えていた。
「……篠瀬が振り向きました。会話をしています。門の中です。」
「篠瀬はどんな表情をしている?」
「疲れたような、目を細めて睨むような感じでしょうか。」
「危険だ。彼を呼び戻そう。合図を決めてある。そのまま彼の首筋に『光の帯』で軽く触れてくれ。精神感応はいらない。篠瀬に読まれたらことだからな。」
「は。」
野神は、何の疑いもなく、篠瀬と話している非能力者の刑事の首筋を紺色の『光の帯』で軽く叩いた。
ビクッとして後ろを振り向く刑事。
だが、後ろには、自分の周りには誰もいない。
『人の首など簡単に斬りとばす相手だ』
そして彼は篠瀬を睨み付けると、唐突に叫んだ。
「貴様! 何を! そこの学生、離れろ!!」
「え。」
「!」
刑事は身を震わせながら懐の右手を引き抜き、それに左手を添えた。
パシュッ!パシュッ!
二発。
刑事の右手の拳銃から消音器を通した鈍い発砲音が鳴った。
「かっ、がっ……」
篠瀬の口から、立て続けに二つ、喉を詰まらせたような声が漏れる。
「え、あ、お……」
紅河は、お前なにしてる!と刑事に叫ぼうとしたが、声が出ない。
余りの恐ろしさに、紅河の足もガクガクと震え出した。
篠瀬は胸部に二発銃弾を受け、よろ、よろ、と数歩後ずさると、膝をガクンと折り、地面へペタリと座り込んだ。
そして、ドクドクと吹き出してくる自分の血を見ると、ゆっくりと両手で胸を押さえた。
…な、なに、これ、なんでこんなに、どんどん血が……
銃弾の一発は、心臓を貫通していた。
小広間では、野神がそれを伴瓜に伝える。
野神の声は、震えている。
「き、胸部です。救急車、救急車を……」
だが、伴瓜は表情一つ変えていない。
「そうか。対処に行ってくれ、野神主任。」
野神は伴瓜の言葉半ばで走り出していた。
勢いよく小広間を飛び出して行った野神を、風見が驚きの目で見ていた。
…野神主任、一体何が。
だが、風見は自分の任務、焼香参列者のクレヤボヤンス監視に意識を戻した。
伴瓜は、何も無かった様な顔つきで、焼香台の方へ戻って行った。
玄関から靴も履かずに飛び出してきた野神が見た光景。
それは、拳銃を篠瀬に向けたままブルブルと震える刑事と、蒼い顔で茫然と立ち尽くす紅河、そして、地面に座り込み、両手を胸に当てて頭を垂れている篠瀬だった。
「ゆ……佑伽梨さん!!」
そう叫ぶと野神は篠瀬に駆け寄った。
震えている刑事に怒鳴る。
「何をしている! 救急車だ!!」
「あは、は、はい……」
刑事は右手に拳銃を持ったまま、震える左手で携帯電話をぎこちなく取り出した。
野神がしゃがみこみ左手を篠瀬へ伸ばすと、彼女は「がはっ……」と咳をして、その上半身はぐらりと倒れ始めた。
慌てて篠瀬の背中に左腕をまわし、支える野神。
「佑伽梨さん!」
咳に混ざる血は肺がやられ気管支から逆流してきた事を意味し、彼女の手を真っ赤にする程の胸部出血は心臓を傷付けていることを意味した。
あ、宗一君だ。
なんだか、眠い。
このまま寝ちゃおうかな、宗一君の胸で。
右手が不自由なのに、ごめんね。
「佑伽梨さん!!」
なあに。
宗一君、ごめん、なんかちょっと息苦しくて、うまくしゃべれない。
頭もぼーっとしちゃってさ。
あ、そうだ。
寝る前に。
篠瀬は、胸を押さえていた右手をゆっくり離すと、自分のジャケットのポケットを探した。
あれれ。
ポケット、ポケット……
なんだろ、手に力が入らないな。
あ、ここかな。
ポケットを探り当てた篠瀬は、中にある小さな手帳を震える指で弱々しく掴んだ。
ズル、ズル、と少しづつ手帳を引っ張り出す篠瀬。
だが、指の力が抜け、手帳はポトリと地面に落ちた。
「そう……こほっ、いち、くっ、くん……」
篠瀬の口から、吐血とともに、言葉が出た。
「何ですか? しっかりして下さい! 救急車を呼びました!」
「いつも……ね、かっ、寝る、とき……見るの……こほっ……落ち、ちゃった……ご、ごめん、拾って……」
その言葉を最期に、篠瀬は事切れたように、ガクンとその身を野神に預けるように倒れた。
野神のクレヤボヤンスに、弱々しく明滅していた黒い魂の光が、白い無数の光の粒となり蒸散していくのが視える。
地面に落ちた赤く血のついた小さな手帳が、風でパラパラっと開く。
そこには、細長い五角形に折りたたまれた折り紙があった。
黒い折り紙で折られたその鶴は、風に押されてパタリと一回転し、靴を履いていない野神の足に触れ、止まった。
傍には、口を半開きにして震えている紅河の姿があった。
紅河の額には、篠瀬に小突かれた感触が、今も生々しく残っていた。




