黒い鶴 9.
岸人は組んでいた腕を解くと、数歩、篠瀬と紅河に近付き、ドサッと床に腰を下ろし胡座をかいた。
そして、床に視線を落とす。
篠瀬はそれを見て、姿勢を正すように左右の足を揃え腰を伸ばした。
紅河は、逆に正座を崩し、首をややうなだれている岸人に当てていた視線を外し、壁に背を付ける。
篠瀬がチラッと視線を紅河に向け、再び岸人を見た。
「ね、岸人君、英雄なんだよ、君は、私達の……」
「いつ? 緑養の郷にいたの。」
岸人は篠瀬の言葉に被せるように、視線を床に落としたまま言った。
篠瀬は半開きの口を一度閉じる。
視線は岸人に向いているが、意識だけが自分に向けられた気配を紅河は感じた。
「うん、そういう話も含めて、一度ゆっくり話を……」
紅河が感じたもの、それは、無関係の紅河には聞かれたくないという篠瀬の意識。
緑養の郷、という単語が、篠瀬の口を重くしたようだ。
それは、聞かれたくないという秘匿意識なのか、聞かせたくないという気遣いなのか。
どちらにしても、やはり何か危険な状況が待ち受けている方向に誘うキーワードか。
緑養の郷。
紅河の知るそれは、若邑湖洲香が母親を殺めてしまった後に約一年間預けられていた孤児院。
そして、岸人の母親が命を奪われた場所。
命を奪ったのは銀色の『光の帯』の使い手、蓮田忠志。十六年前のことだ。
「いつ、ですか?」
岸人が重ねて聞いた。
紅河は小さな驚きとともに、岸人を見る。
…岸人が、敬語?
ぶっきらぼうに言葉を使う岸人が、敬語や丁寧語を使っているところを、紅河は見たことがない。
岸人は今も床に視線を落としている。
だが、二度目の問いかけは、一度目より強まった言い方だった。
言葉を強めた岸人に篠瀬は動じてはいなかったが、それには答えず、次の言葉は紅河に向いた。
「紅河君、もう帰りな。」
紅河は右足だけ立膝をつき、その膝へ右腕を乗せた。
「俺には俺の目的があります。岸人が学校を休んでいる理由が警察からの逃避なら、無実を訴えに連れて行きたい。」
岸人がやや、視線を上げかけて、言った。
「無実、って、なんで言い切る。」
「警部から聞いた。お前、あそこで蓮田を殺さず、刑事二人を上階へ避難させたらしいな。その後、京子を俺と湖洲香さんがいる所に送り出した。そして警察庁に飛び、蓮田を奥さんに合わせた。そこまでしたお前が、どうして蓮田を殺すんだ? やる訳がない。」
「見てもいないのに。」
篠瀬は合わせた膝の上で、両の拳を軽く握った。
彼女は岸人の罪状の真犯人、蓮田を殺した人物を知っている。
「じゃあ聞くけどな、岸人、」
紅河はあえて使った。
例のキーワードを。
「緑養の郷で、湖洲香さんにとどめを刺さなかったのはどうしてだ? あの時お前はまだ母親を殺めたのは湖洲香さんだと疑っていたはずだ。」
「……」
「俺が深越に襲われた時、黙って見過ごさなかったのはどうしてだ? どうして俺を助けた?」
「うるさ……」
「女の子ってのは、鋭いよな。」
…女の子?
岸人はふと視線を上げ、紅河を見た。
「お前をけっこう良い奴だっていう女の子がいるの、知ってるか? その子はお前にアダ名まで付けてる。しないんだよ、女の子は、悪い雰囲気を出す男に対しては、そういうの。」
「意味、判らない。」
「岸人、お前は人を貶める奴でもないし、まして、人の人生を奪う人間じゃない。逆だ。人に良いものを与える側の人間なんだよ。あの蓮田にさえ、何か与えたんじゃないのか? 俺はそう感じてるけどな。」
「買い被り。」
紅河は、スポーツドリンクを一口飲んだ。
「買い被り? じゃあ、あれか、あそこで京子と別れる間際、あの、善悪を見る嗅覚が人一倍強い京子に、罵倒でもされたんだな? 無言で睨まれたか? それなら買い被ってたかもな。どうだ?」
岸人の脳裏に過る。
『高山流水』という、京子の残した言葉が。
後で調べたその熟語には、優れた音楽や演奏という意味と、もう一つ意味があった。
…理解してくれる真の友達。
「どうなんだよ、岸人。俺は京子のジャッジに従うよ。京子がお前を見限ったなら、俺ももう帰るわ。」
岸人は再び視線を床に落とし、つぶやいた。
「なんだよそれ。」
その岸人のつぶやきの後、沈黙が流れた。
玄関のドアの方へ顔を向け、スポーツドリンクを飲み干す紅河。
視線を落としたまま黙り込む岸人。
岸人の脳裏には、『学校でまた』という京子の言葉が浮き沈みしていた。
不意に、篠瀬が口を開く。
「二十一年前。」
岸人は顔を上げ、篠瀬の顔を見た。
篠瀬に向けられた岸人の目は、何かを考えるように少し左右に泳ぎ、そして止まる。
「生まれる、四年前。僕が、僕の……僕の父のこと、母さんは、もう、そこで働いてたんですか?」
まとまり切らない言葉が、岸人の口から流れ出た。
「お母さん? ええと、私、実は一晩しか緑養の郷にいなくて、院長の顔と、一緒に出てきた『光の帯』が怖くて、でも、大人になってからだけれど、その当時の就業者ならリストは見たことあるよ。」
「皆月真人、皆月陸子。」
「皆月陸子、さん、なら、見たよ、名前。その人は、1993年当時は鹿島陸子さんで、1994年に皆月に。」
克明に記憶している。
あの緑養の郷の関係者は、篠瀬にとって憎むべき仇が潜む巣窟として、頭に叩き込んでいる。
「真人は?」
「皆月マサトという名は見てないな。」
岸人はまた視線を落とし、黙り込む。
その何かを思案するような表情は、明らかに両親の素性を追っている顔だった。
篠瀬が腕時計を見る。
…そろそろ通夜、遺体が運ばれる。
「岸人君、まずお礼を言いたい。蓮田を追い詰めてくれてありがとう。それから、」
彼女は、紅河も蓮田との経緯を知っていると踏んだのだろう、躊躇なくその名を出した。
「会わせたい人達がいる。明日また来るよ、ここに。」
岸人の表情が訝しむ気配を見せる。
「いないと思うよ。」
「あ、じゃあ、連絡先、教えて。」
「悪いけど、そういうのは。」
「んー、じゃあ、私、ここに住み込もうかな。また会えるまで。」
「警察に捕まりたければ、好きにすれば。」
「やだな、冗談だよ。でもね、もしかしたら、会わせたい人が岸人君のご両親のこと、何か知ってるかも知れないよ。」
「え?」
「もう、行かないと。」
篠瀬は立ち上がった。
フラッとよろける。
紅河が見上げながら声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、立ち眩みかな。大丈夫。ジュース飲んだし、若い子と話したし。元気出た。」
紅河も、のそっと立ち上がる。
「どこに行くんですか? こんな時間に。」
紅河のその言葉に、篠瀬は少し厄介な空気を感じた。
…紅河君、この子、カンが鋭そうだな。
「こんな時間なら決まってるでしょ。男と会うのよ。デート。」
篠瀬の目は相変わらず充血し、顔は疲れ切っている。
心配だ。
それに、岸人を探し回っていた今日、男との約束など入れるだろうか、とも勘ぐってしまう。
だが、デートと聞いては、紅河は何も口を出せなかった。
篠瀬は靴を履きながら言う。
「ちょっと離れて、紅河君。」
黒い『光の帯』が、篠瀬の身体にクルクルと巻かれ、その身体を覆っていくのが岸人の目に映った。
「またね。」
そう言うと、篠瀬の身体が陽炎のように揺らめき始めた。
そして、見えない壁に入っていくように、スウッと消えた。
紅河は、持っていたアルミ缶をペコッと片手で握り潰すと、岸人に言った。
「篠瀬って名前、知ってたのか。」
「緑養の郷には、閉院された今も、孤児の名前だけ名札みたいなのが残ってる。」
紅河は、靴を履き始めた。
「追えるんだろ、テレポート。」
「そんな簡単じゃない。」
「不可能じゃなければやってくれ。追うぞ。」
「デートとか言ってたし。」
「本当に男と会ってたらそこでやめる。あの人、何かやらかす気がしてならない。」
「なんで。」
「理由は、はっきりとはねーけど、またねって言った時に何か感じた。覚悟を決めた人の感じ。」
「……」
「岸人もまだ話、途中だろ。会わせたい人達って、使い手なんじゃねーのか。」
「……」
岸人の細い目が一段と細まり、その瞳が左右に忙しく動き出した。
第二階層は広い。
第一階層であるこの三次元空間と重なって共有される第二階層だが、三次元空間では人間が行けない場所にも飛べることを考えると、その範囲は広い。
そんな広大な空間で、行き先を知らない者のテレポート先を特定するのは不可能に近い。
だが、岸人は、蓮田の『銀色』を探し、捕捉した時、ある事に気付いた。
…テレポートする使い手は、第二階層に一定時間だけ『足跡』を残す。
足跡、とは岸人が便宜上喩えている言葉で、実際には『空間が圧縮された痕跡』である。
テレポーテーションという現象には、相対的に二つの捉え方がある。
一つは起点座標から到達点座標へ文字通り瞬時に移動したという捉え方で、もう一つは起点座標と到達点座標を『くっつけた』という捉え方。
…あった。多分これだ。
「動かないで、先輩。」
岸人はそう言うと、第二階層クレヤボヤンスで視るこのアパートの玄関の歪み方向を見定め、一瞬だけ視線をその方向へ動かし、グニャッと引っ張られたように動いた景色のその先、引き寄せられたように歪む地点を見定めた。
空間の歪んだ情景には、心理的な恐怖感が付きまとう。
長く見ていると、気がおかしくなりそうな酔いに襲われるため、当たりを付けた岸人はその第二階層の情景を、すぐさま真っ白に混ぜた。
水色の『光の帯』が、岸人自身の身体と紅河の身体を隙間なく包み込む。
…う。
紅河は自分の周りの景色、部屋の中全てが水面のようにゆらゆらと波打ち始めるのを見た。
その景色は徐々に白く消えていき、真っ白な空間になる。
そして、再び水面のような揺らめきが目の前に起こり、徐々に景色が現れてきた。
住宅街の路地のようだ。
陽はすっかり沈み、街灯が点いている。
横を見ると、岸人が裸足に靴を押し込んでいた。
「いや、履いてから飛ぼうよ。」
「うるさ。」
そう言いながらも、岸人の目は小刻みに左右へ動いている。
その目が止まると、ボソッと言う。
「これはないな。」
「どうした?」
「刑事の実家だよ、ここ。」
「ん? 誰の。」
「伴瓜。本人もいる。僕は付き合えない。まだ捕まりたくない。」
「トモウリって……」
…前に警察庁で聴取を受けた時の、あの偉そうなギョロ目か?
「ますます怪しいな。」
「なにが?」
「デートの相手が伴瓜か? しかも実家でデートか?」
「知ったことじゃない。」
「お前を探していたこと、使い手であること、緑養の郷から逃げたってこと、蓮田を追い詰めてありがとうとか、いろいろ繋げると、やばい仮説が成り立つんだよ。」
「……」
岸人も気付いていた。
篠瀬が伴瓜に暗殺を仕掛ける可能性がある、ということに。
「俺は行くぞ。俺がべったりと横にいりゃあ、篠瀬さんも何も出来ないだろ。」
「お節介、焼かない方がいいと思うけど。」
「人殺しが起きるよりマシだろ。」
「そうじゃない。先輩もやられるかも。篠瀬に。」
「それはねぇよ。」
「なんで。」
「あの人を見てれば分かる。お前と同じだよ。無関係な人間は手に掛けない。」
「邪魔した男女を病院送りにした。」
「男女?」
「南條。」
「あそっか。じゃあ、お前の方がちょい悪。」
そう言うと紅河は、スタスタと『伴瓜家通夜』の表示が掲げられた家の門へ向かって行った。
「ちっ。」
岸人は舌打ちすると、逆の方へ後退り、隠れる場所を探した。
…学生服で丁度良かった。
紅河は入口で記名すると、開け放されている伴瓜家の玄関をズカズカと入って行く。
お焼香の列に、黒いジャケット姿の篠瀬を認めた。
紅河は遺族を見渡す。
…いた。警察庁のギョロ目。
「あ……」
思わず声を出しかけた紅河は、自分の口を押さえた。
…野神さんだ。風見さんもいる。
他にも数人、刑事局の捜査課刑事と思しき人物が見受けられた。
野神が、篠瀬を凝視しているのが判る。
だが、篠瀬の方は野神と目を合わせていない。
…ここで篠瀬さんが『光の帯』を出せば、見つかり取り押さえられる。
篠瀬の目的は、本当に伴瓜の殺害か。
ただの焼香か。
焼香なら、篠瀬と伴瓜の接点は何か。
紅河がいくら考えても、辿り着くのは同じ結論である。
…篠瀬さん、たった独りで刑事局の使い手達を相手にする気か?
夜になると、それほど暑くはない。
だが、紅河の額には粒の汗が浮き出ていた。




