黒い鶴 8.
数段のコンクリート階段を上がり、アパートの敷地に入る。
北西に向いた一階のドアが六つ整然と並び、夕暮れの赤茶色一色に染まっていた。
朝方は曇っていたが、昼間は夏の日差しが照りつけ三十度前後まで上がった気温も今は落ち着き、軽いそよ風が汗ばんだ紅河の首筋を刹那、癒した。
二階への鉄製の階段に右足を掛ける。
コン……
その足音は予想以上に響き、紅河の心臓に返り、耳の奥のくぐもった打音となる。
ドクン……トク、トク、トク……
状況は整理した。最悪の事態も想定した。
なのに、なぜこうも、身体は恐れるのか。
頭は冷静だ。だが、心臓は言う。
引き返せ、帰ろう、帰ろう、帰ろう、と。
冗談はよせ。
岸人には下世話なことをしているかも知れないが、京子は放っておけない。
今日の部活で古藤が言っていた。昨日、京子は一度サッカー部に来た、と。
その後、体育館に来た。
…京子は、俺に相談に来たんだ。
今日、学校では京子に会えなかった。書道部に出ず、帰ったらしい。
昨日は様子がおかしかった。
篠瀬佑伽梨という名と電話番号が書かれたメモ。
その女性の目的がはっきりするまで、臆病風に吹かれるわけにはいかない。
紅河は、重く感じる左足を、次の段へと上げた。
階段を上り切り、右を向くと、二階の外廊下が伸びている。
一階と同様に北西に向いた玄関ドアが並んでいる。
例の女性は、その通路の中程に、ドアの方を向いて立っている。
夕陽を背負い、影になっている身体の前面が、妙に黒かった。
もう何分、ああして佇んでいるのか。
怪しいことこの上ない。
不意に、その女性がこちらを向いた。
顔半分に夕陽が当たる。
やや釣り目の、陽光で見えている片目が、静かに一度まばたきをした。
こんな時の紅河が冷静さを保つ独自の手法は、『相手から見た自分の姿を想像する』ことだ。
…俺の左半身は夕陽にあたり赤く、右半身は濃い影。心象は『何かでかい学生が来たな』ってところか。
立ち止まるのも不自然だ。
紅河は生唾を飲み込み、ツカツカと203号室へ向かって歩き出した。
佇む女性に近付く。
女性は、紅河に道を開けるように、背にしている柵の方へ後ずさった。
だが、紅河の目的地、203号室のドアは、その女性の目の前だった。
女性の目の前で立ち止まる紅河。
…まぁ、こんな時は普通、知らない人でも。
紅河は軽く頭を下げ、203号室のドアへ向くと、呼び鈴を押そうとした。
「いないよ、岸人君。」
きた。
声を掛けられた。
もう結論は出ている。
…俺にはテレパスを思考誘導する術などない。
「あ、ええと、岸人の知り合いの方ですか。」
女性の方を向く紅河。
彼女の顔は、逆光ではあったが、わかる。
どこか疲れた表情をしているが、顎を少し尖らせた丸顔の美人で、釣り目が心なしか気の強そうな印象を与える。
「岸人、って、呼び捨てなんて、仲の良いお友達?」
…聞いてるのは俺だ。
「いないのなら、あの、待ってるんですか、帰ってくるの。」
「いいえ、ちょっと考え事をしていたの。」
「こんな所で、ですか。」
「君、どこかで……」
女性は軽く目を細めた。
噛み合っているようで、噛み合わない会話。
彼女は、紅河の問いにまともに答えていない。
女性の目が、一瞬パッと大きく見開かれた。
「あ、もしかして……ねぇ、君、」
「はい?」
「私ね、霊視が出来るの。ちょっと、見させてもらってもいい?」
「は?」
何を言い出すのか、この女は。
霊視? オカルトかぶれか。
篠瀬ではないのか?
「いきなりそんな、霊視って、あの、岸人とどういうご関係ですか?」
「いいからいいから、ね、見せて。」
…何なんだこの女。
「見るって、何を……」
「そこに立ってるだけでいいよ。すぐ済むから。」
紅河は軸足とする左足に軽く重心を移した。
身体のどこかに何か感触を感じたら、右の回し蹴りを入れる。
女性を蹴りたくはないが、もしこの女性が使い手だったら、身を守るには本体を叩くしかない。
女性は、紅河の首元から胸の辺りに視線をやっている。
その様子を見て、ふと思い出す。
愛彩にもこんな風に見られたことがあったな、と。
一分も経たないうちに、女性は、あっ、と声を上げ、紅河の足下に視線を落として一歩後ずさった。
「ああ、やっぱり、君、スナールの少年……確か、紅河淳君ね。」
え。
ええ。
えええええええ。
ちょっと待った。
え、え、ええ?
「え、あ、す、すな? 何です? なんで俺の名前……」
「君だったのかぁ。白楼にいた子ね。見覚えがある訳だ。」
白楼?
白楼と言ったのか。
警察関係者か。
あ、いや、警察に知らせるな、と。
ん、え?……
訳がわからない。
紅河は、警戒したものか、緊張を緩めたものか、混乱した。
「あ、の、はい、僕は紅河です。あの崩落事件の時、いたんですか?」
「いいえ、視てたの。隠れながら視てたから全部ではないけれど、じゃあ、君、知ってるよね、『光の帯』のこと。」
紅河の混乱は、更に絡まった。
警察関係者ではない、白楼の事件を隠れながら見ていた、つまりクレヤボヤンスか、であるならば『使い手』ですと白状したことになる……
「んーと、すんません、俺、頭あまり良くなくて、ちょっと順序立てて最初から……まず、おねえさん、霊視って、俺の何を見たんですか?」
女性は、クスッと笑った。
「おねえさんて呼ばれ方、お水っぽい……まだ名乗ってなかったね。ごめん。私、篠瀬佑伽梨と言います。」
…わーお。
女性は、紅河が数分前まで汗をだらだらかきながら恐れていた使い手、篠瀬、その人だった。
「あ、んじゃ、あの、京子に電話番号を渡した……」
「うん。紅河君にも渡しとこうかな。ちょっとカッコイイ子だし。」
なんだこの緊迫感の欠片もない会話は。
篠瀬佑伽梨とは、どんな素性の、どんな人なのか……
夕陽が沈むと、アパートの周囲は一気に暗くなった。
メモ帳に何かを書き込もうとする篠瀬は、キョロキョロすると、言った。
「暗いね。ちょっと借りようか、岸人君の部屋。」
「は、はぁ?」
「テレキネシス出すよ。手を出さないでね。」
カチャ……ズズ、チャリ……
内側から鍵が開く音がした。
「さすが青い使い手君、チェーンロックまで掛かってた。ほら、チェーンは外出の時は外から掛けられないでしょ、普通。」
篠瀬はドアに近寄り、ノブに手を掛ける。
「いや、え、ちと、篠瀬、さん、岸人の知り合い、なんですよね?」
「いいえ、小林さんに言った『親戚』は嘘。岸人君と会ったことは一度もないよ。」
会話の駆け引きも何も、ない。
ペラペラとしゃべる篠瀬に、紅河は肩透かしを食らった思いだ。
「え、あ、じゃあ、マズイですよ。勝手に入るの。」
「霊視が何かとか、聞いたのは君よ。話さなくていいなら、もう帰りなよ。」
「それは、聞きたいかな、いえ、なにも岸人の部屋に入らなくても……」
「私、立ち疲れちゃって。」
「んじゃ、場所を変えて……」
「めんどいなぁ。いいでしょ、ここで。」
「あれ、ほら、男の一人暮らしって、いろいろ、見られたくないものとか、岸人がいる時ならいいけど、勝手に入るのは……」
実は、篠瀬はさっき、既に岸人の部屋を透視で家探ししていた。
行方の手掛かりを探していたのだった。
「ふは、可愛いなぁ、もお、高校生! そっかそっか、そうだね、じゃ、玄関先だけ。ちょっと座らせてもらお。」
「それなら、まぁ。」
二人は203号室の中へ入った。
篠瀬が、玄関の灯りを点ける。
そして、靴を脱ぐと、ペタンと床に座り込み、壁にもたれかかった。
「ふぅ。待ってね。」
篠瀬はメモ帳に電話番号を書くと、ぴっと切り取り、紅河に渡した。
「これは真面目なお願い。岸人君を見かけたら連絡して欲しい。」
紅河はメモを受け取る。
「ん、岸人にこのメモごと渡すよ。」
「それでもいいや。」
紅河は靴を履いたまま床に腰を下ろし、篠瀬の向かい側の壁に寄りかかった。
灯りの下で見る篠瀬の顔は、さっきは気付かなかったが、かなり疲れた表情をしている。
寝不足のように目の下にクマが出来ており、その目は赤く充血していた。
篠瀬が話し始める。
「霊視ね、そう言った方がわかりやすいと思って。クレヤボヤンスのこと。紅河君に憑く霊を視た。」
「どうして、突然?」
「白楼で視たスナールの子かな、と思い出して。」
「スナール?」
「スナール憑き。私達はそう言ってる。狼みたいな霊。」
「あ、ああ、え、それ、今もいるんですか、ここに。」
「いるよ。それで思い出したの。珍しいから。」
「珍しいのか。飼い犬だったんです。」
「ええ、犬!?」
「シベリアンハスキーです。」
「もう一回見ていい?」
「どうぞ。」
紅河は思った。
鍵を開ける時も、霊を透視する時も、宣言してから『光の帯』を使う篠瀬。
良識のある普通の人じゃないか。
何が自分に『怪しい使い手』と思わせたんだっけ……
「あ、そうか、京子……」
「ひやっ!」
「え、え、なに?」
「犬、犬って言えば犬か。でも凄い。こんなにはっきり生前の身体の輪郭を見せるスナール、いるんだ。目まで付いてるね。」
「また見たいな、アルプス。」
「そっか、紅河君は見えないんだよね。非能力者は、普通に考えて、スナールを飼い慣らせない。コミュニケーション取れないものね。だから珍しい。」
「篠瀬さんは、その、スナール? 憑いてるんですか?」
「いいえ、私には。知り合いにいる、スナール憑き。何の動物だかも知らないんだけど、その姿は白い光の玉。オレンジ色の輪郭が付いてるかな。」
「丸い姿なんですね。」
「うん。楕円形かな。それが普通だと思ってた。紅河君のスナールは何か別格な気がするな。」
「何が違うんでしょうね。」
「よく知らない。霊の姿って、人も動物も、生前の肉体の輪郭は記憶の投射らしいよ。自分はこういう姿してた、って、テレパシービジョンを見せているみたい。」
「ふぅん。」
「だから、興味がなくなったり、意識が弱まったりすると、霊は皆もとの白い光の玉に戻る。」
「テレパシーやーめた、ですか。」
「そうね。」
「やっぱアルプスはテレパスだったのか。」
「アルプスって、犬の名前?」
「はい。」
「テレパスと言うか、霊は精神そのものだから、精神感応しか出来ないよね。口が無いからしゃべれない、目が無いから見えない。超能力って、霊の通常能力らしい。」
「あ、なるほどね……詳しいですね。」
「受け売り。教えてもらった。」
「誰にですか。」
「内緒。」
しばし会話が途切れた。
黙っている篠瀬の顔は、どこかやつれて見える。
それは、苦悶の表情にも見えた。
「あ、喉、渇きませんか。俺、ちと買ってきます。何がいいですか?」
無言で紅河の顔に目をやる篠瀬。
ほんの少し、篠瀬の表情が緩んだ。
…優しい子。
「紅河君は、何が飲みたいの。」
「スポーツドリンクか何か。」
篠瀬の瞳が、悪戯っぽく艶めいた。
そして、両手の平を上に向ける。
その手の平の上、空中が、水面のように揺らめき始める。
紅河は目を見張った。
揺らめきの中に、透明の布が取り去られるかの様に、下から上へと缶ジュースが姿を現した。
左右の手に、二本。
そして、揺らめきが収まると、ストっと二本の缶ジュースは篠瀬の手へ落ちた。
「はい。」
手渡された缶のスポーツドリンクは、冷たかった。
篠瀬はオレンジジュースのプルトップをカチッと起こした。
「は、はいって、これ、もしかして……」
「うん。外の自動販売機の中にあった。」
「いやいやいやいやいや、あった、じゃないですよ、売ってるんですよあれ、万引きですよこれ。」
「もお、真面目だな、高校生!」
篠瀬は財布から500円玉を取り出した。
その500円玉が、空中にスッと浮く。
そして、陽炎のように揺らめくと、500円玉は消えた。
「釣りはいらねい! ふふふ。」
「え、販売機の中へ?」
「うん。」
…物質転送か。湖洲香さんはこうやって助けられたのか。
「あの、篠瀬さん、」
「ん?」
「実は、岸人を探してるってのは本当なんですけど、京子を、小林京子を、その、使い手の事件に巻き込みたくないんです。それを、その、篠瀬さんがどういう方なのか知っておきたくて、京子に危険が及ばないか心配なんです。」
篠瀬はオレンジジュースをコクコクと喉に流し込むと、コトっと床に置き、視線を落とした。
「私のことは、話せない。でも、わかったわ。小林さんには関わらない様に気をつける。」
「お願いします。」
「五月雨はね、」
「え。」
「夏の生命の源なのよ。受け止めてあげるんだよ、ちゃんと。」
「はい?」
「あれ、小林さんの歌、紅河君のことじゃないの?」
「え、うた? 何です?」
「あれ、私の早とちりか。」
…なんだ?
篠瀬の表情を読もうとする紅河だが、彼女の充血した目とやつれた頬が、気にかかる。
「何か、無理してるんじゃないですか?」
「え?」
「すごく疲れて見えます。睡眠は取れてます?」
…ああ、そうだ、今夜も報告会の集まりがある。テレパシーだからそれ程消耗しないけれど……今頃、穂褄君は宗一君と会ってるかな。
「そんなに疲れた顔してる?」
「ええ、もしあれなら、初対面でなんですけど、送りますよ、倒れたら大変ですから。」
…高校生のくせに。
「……優しいんだね。」
篠瀬は壁から背を離すと、紅河にゆっくりと抱きついた。
「え、大丈夫ですか?」
「寝ちゃおうかな、このまま。」
「いや、ちとそれは……でも、辛いなら、少し仮眠すれば、俺、見てますよ、起きるまで。」
…なにこの子。男の汗の匂い。
「人の部屋で勝手に何してんの。」
「わ!」
「え……」
紅河と抱きついている篠瀬は、声がした部屋の中の方へ、恐る恐る顔を向けた。
「岸人!」
「岸人君!」
そこには、Tシャツにジーパン姿の皆月岸人が立っていた。
「ホテルじゃないんだけど。先輩。」
「おま、いつ、いつから、どこから……」
「今。飛んだ。着替え取りに来た。」
「そうか、あ、ちと、篠瀬さん……」
「あ、ごめん……」
紅河から離れ、岸人を見ながら申し訳なさそうに正座する篠瀬。
「あの、皆月岸人君、私が勝手に鍵を開けたの。紅河君はやめようって言った。」
「玄関しか入ってねーから、ごめん、勝手に。」
岸人は無言で腕を組んだ。
篠瀬は紅河に向けて右手をプラプラと振った。
「ほら、紅河君も、ちゃんと。」
「ちゃんと?」
「正座!」
「え。」
…まじか。
紅河はのそのそと靴を足から抜き取り、篠瀬の横で正座をした。
「はい、ほら、両手付いて。」
「え、う……」
「せーの、」
「どうもすみませんでした。」
二人は腕を組んで立つ岸人へ、揃って頭を下げた。
岸人が口を開く。
「気付いてないの?」
二人は顔を上げた。
「え?」
「なにが。」
岸人は右手で天井を指差した。
「あ!」
「え、なに?」
岸人の指差した先には、あからさまな監視カメラがあった。
「指名手配されてんの、知ってるだろ。僕が留守の時に警察が付けてった。だいぶ前に。あそこにも。」
蒼ざめる紅河と篠瀬。
「ま、もちろん切ったけど。」
「ナイス……」
「さすが青の使い手君……」
「てか、あんた、誰。」
青の使い手、という言葉を聞き、岸人は篠瀬を見た。
「緑養の郷から逃げてきた使い手、篠瀬佑伽梨よ。」
岸人の表情の小さな変化を、紅河は見逃さなかった。
その表情は、明らかに篠瀬の名を知っている、という表情だった。




