亀裂
小林京子は書道部へ入部届を出した。
全部員の前で挨拶を済ませると、顧問教員から年間の各種イベントや月別の書写テーマがあること等、説明を受けた。
4月のテーマは、『桜は城下 いとあはれなり』であった。
毎年恒例のテーマだとのことで、
「学校の正門から北へ伸びる桜並木道の途中に、石碑があるのを知っていますか?そこに刻まれた和歌の下の句なんですよ。まずは楷書体で書写してみて下さい。」
と、手本を渡された。
「石碑の和歌、この前見ました。草書体だけど、読みやすくて、鑿であそこまで彫れるなんて、すごいなって。」
「お、小林さん、あの和歌を読めるのか、それはすごいですね。言い伝えでは、鑿ではなく、懐刀で彫られたらしいですよ。」
京子は、あの石碑の前から始まった一連の出来事を思い出す。
怖かったけど、優しい人に出逢えた。
…あ、あの三年生の名前、まだ聴いてなかった。
人の名前は、思考を読んでもそうそう出てくるものではない。
他人の名前は多々出てくるが、自分の名前を心に浮かべる人は、ほとんどいない。
…それから、あの事件が、舞衣さんとの関係を深めてくれた気がする。
…あの事件がなければ、私はきっと、心を読めることを隠し続けてた。
京子は、自宅から持参している自分の筆に墨をつけ、筆先に神経を集める。
静かに、半紙へ筆を降ろす。
目の前に、満開の桜並木が広がる。
城下町から伸びる街道。
穏やかに、チラリ、チラリ、と舞い散る桜の花弁。
なんと美しい光景か…その桜を眺める人々の和やかな気持ちまでもが、筆を通して身体に流れ込んでくるかの様だ。
一枚書き終えた京子は、筆を置き、正座を整えて腰を据え、背筋を伸ばした。
…ああ、この感じ。
京子にとって、書道は、旅でもあった。
どこへでも飛んでいける、心の旅…。
「あの、小林さん。」
背後で、遠慮がちな小声がした。
見ると、立膝をつき、両腿の辺りに両手を添えた女子生徒。
「あの、ごめんなさいね、書いてる姿があまりにも素敵だったので…」
どこかで見たことがある…どこかで…
「あ、えと、四中の、高岡、さん?」
京子が恐る恐る聴くと、
「わあ、覚えていてくれたんですね、光栄です。」
とその女子生徒は表情を明るくし、答えた。
同じ市内の、京子とは別の公立中学に通っていた、高岡芳美であった。
二人は同学年である。
高岡芳美は、三年間で合計6回催される市の書道コンクールで、中学一年の夏、冬、二年の夏、冬、三年の冬、と、5回金賞を受賞しており、市内では『四中の女王』などと呼ばれていた程の書道少女だ。
唯一逃した中学三年の夏、金賞を受賞したのが、七中の小林京子であった。
二人は、その中三の夏、授賞式で一度だけ言葉を交わしていた。
「いえ、こんにちは。」
そう言うと京子は、両手を畳に付けて芳美の方へススッと向きを変え、正座のまま丁寧にお辞儀をした。
芳美も正座し、お辞儀をした。
周りの部員が、時代劇でも見ているかのような二人の挙動に、目を奪われた。
当人達にしてみれば、普通に振舞っているだけである。
「小林さんとは、いつかゆっくり話してみたかったです。三年の夏、小林さんの書を見て、私、世界が広がった気持ちがしたの。」
「あ、いえ、あの、そんな…」
京子にしてみれば、芳美は雲の上の存在。
だが、芳美の書道が京子の書によって『解放された』のは本当だった。
型にハメられたような、気の遠くなるような書写の反復練習に『ただひたすら厳しい道』だった書道が、京子の自由奔放な書が金賞を受賞したことにより、『道は一つではない』という気付きを得たのだった。
「すごかったな、小林さんの『飛』。」
芳美は遠くを見るような目をした。
「あのね、小林さん、私、正直なことを言うと、あの夏も私が金賞だろうなって思ってたの。審査員はここを見る、とか、減点の対象はこういうとこだ、とか、賞を取るための指導ばっかりで。」
京子は黙って聞いている。
「でね、こんな話していいのかな、小林さんは知らないと思うけど、うちの学校の顧問がね、どこが減点されたのか説明しろ、って、物言いをつけたのよ。そしたらね、審査委員長が、私のも小林さんのも減点はない、どちらが心を揺さぶったか、で決めた、って。」
京子は、あの夏のことを思い出していた。
中学一年、二年、と楷書の書写を積み上げ、教育書道としての行書を書き続け、芸術書道の道へ足を踏み入れた、あの夏…。
「それでね、気付いたんです。心を揺さぶる書は、書いている自分が心を震わせないといけないんだな、って。小林さんのおかげなんです。」
芳美は恥ずかしそうに、伏せ目がちに言った。
「そんな、あの、ありがとう。」
京子も伏せ目がちに答えながら、高岡芳美は本物だ、と感じ、嬉しくなった。
と、その時だった。
京子の頭の中に語りかける者があった。
『話がしたい』
京子は素早く周りを見た。
…青白い『光の帯』!いつの間に!
高岡芳美を見る。
違う、高岡さんじゃない。
「あ、高岡さん、ごめんなさい、ちょっと、あの、トイレ…」
「あ、ごめんなさいね、話し込んでしまって。」
「ううん、またゆっくり話そうね。」
そう言うと京子は廊下へ出た。
『聴きたいことがある』
…誰なの?一方的に…
『あんたの思考も読める。答えて欲しい。』
『誰なの?』
『質問はこっちがする。』
『嫌よ。書道部には二度と来ないで!』
『人を探している。我々と同じ『使い手』だ。知人にいないか?』
『二度と来ないでぇ!!』
『…』
青白い『光の帯』は、消えた。
京子は、自分の大切な時間を汚されたと感じていた。
仲間かも知れない、と思ったのは間違いだ、人の気持ちを考えない自分勝手さで、自分はこそこそ隠れている卑怯な人だ、そう思った。
自宅へ戻った京子は、風呂から上がり部屋着に着替えると、ベッドに横たわりながら、『光の帯』を蛍光灯の紐に伸ばし、触れるか試していた。
『光の帯』は紐に触れることが出来ず、フラリ、フラリ、と紐を通り抜けて揺れているだけだった。
「やっぱり触れない…」
京子は、『光の帯』で物に触る、ということが出来なかった。
「別にいいや。壊す力なんていらない…」
京子は今日の書写や高岡芳美のことをしばらく考えていたが、うとうととし、そのまま眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「もう三日だぞ。学生一人に何をしている!」
南條義継を見つけられずにいる崎真警部補の報告電話に、押塚警部は怒鳴りつけた。
「例によって、自宅のアパートにも、探偵事務所にも、学校にも…」
「自宅に張れ!何日も帰らないなんてことがあるか!」
「は。」
上司とは言え、この歳になってこんなことで怒鳴られるとは、さすがに気が滅入るな、と崎真は思った。
崎真は、その捜査の緻密さ、粘り強さに定評のある刑事であり、自分でも人捜しの効率は悪いとは考えていない。
自宅から学校までの範囲で、立ち寄りそうな娯楽施設も隈なく当たっていた。
だが、写真を用いた聞き込みにも全く引っ掛からないのだった。
「どこへ消えたんだ、あの少年は…。」
南條義継の自宅アパートは、二階建て八部屋で、小綺麗な白い壁の洋風アパートである。
午後7時頃、女子高生が一人帰宅してきた。
昨日も同じくらいの時間に見かけたセーラー服姿の女の子で、一階の104号室に入っていった。
南條義継の部屋は二階の204号室であるが、留守であり、捜査を開始してからの三日間帰っていない。
午後11時を回った。
流石に立ちっ放しの張り込みは、41歳の若さでも足腰にこたえる。
「今夜も帰らず、か。」
交代要員が欲しいところだが、被疑者でもない未成年の捜索に人員は避けない。
そもそも警部補の自分が担当するような仕事か、と思うくらいだが、警部直々の指示では致し方ない。
翌朝。
104号室の女子高生が、出掛けていく。
崎真は聞き込みに動いた。
「学生さん、すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが…。」
崎真が警察手帳を見せながら声を掛けると、その女子高生は、
「4日目かな?ご苦労様、崎真さん。」
と言った。
「え?」
目を丸くする崎真に、その女子高生は平然として言った。
「僕に用があるんでしょ?何です?」
…え、まさか。
崎真は記億の中の詰襟学ランを着た南條義継と、目の前のセーラー服の女子高生を比べた。
「え、あ、よ、義継君か…」
白い肌、細い首、狭い肩幅、金髪のセミロング、長いまつ毛、どこをどう見ても女の子だが…確かに、南條義継だった。
「女装、とは…。」
呆気にとられる崎真に、義継は言った。
「僕に女装している認識はない。僕は男で、着たいファッションがこれ、それだけですよ。」
…そう言えば、土蔵西高校の正門でもすれ違ったな。
群を抜けた美少女であったため、崎真は覚えていた。
なんと言うことだ。
警部補ともあろう自分が、マルタイが目の前を通り過ぎていたのに見逃していたとは…。
「義継君、済まないが、署にご同行願いたい。伺いたいことがある。」
「お断りします。」
「これでもかい?」
崎真は胸の内ポケットから書類を一枚取り出し、義継に差し出した。
「なんです、これ。」
「見ればわかるよ。」
義継は書類を見た。
『逮捕状』とあるが、どの項目も空欄である。
ハラリと書類を地面に落とすと義継は、
「からかうならもっと暇な人を探して下さい、崎真さん。」
と言って、駅の方へ歩き出した。
「軽犯罪法第1条、項目27、公共の利益に反してみだりにゴミ、その他、廃物を捨てた者、これを勾留または科料に処する。」
崎真はそう言うと、義継の腕を掴み、
「逃亡だな。現行犯で逮捕させてもらう。」
と言った。
義継は抵抗もせず、無言で崎真を睨んだ。
県警本部。
捜査三課の依頼による、窃盗犯の偽証査定を行っていた特査班は、取調室にいる被疑者に対し、若邑湖洲香の『光の帯』を運用していた。
湖洲香は別室で、取調べを受けている被疑者の思考を読み取り、偽証部分を記録していく。
この手法はもちろん認められているものではなく、特査班が水面下で行っている極秘の実験である。
捜査三課の『依頼』は実際の業務依頼であるが、『能力者』の存在と、その能力を用いた実験を行っていることは、本部上層部の一部の人間しか知らないことであった。
時間が進むにつれ、湖洲香の疲労はたまっていく。
『光の帯』のターゲッティングが雑になり、無人の取調室にも赤い『光の帯』がフワフワと泳ぎだしていた。
と、空室だった取調室へ、崎真警部補が入ってきた。
軽犯罪の聴取として、捜査三課の取調室にマルタイを仮に拘束するためだった。
疲労と闘いながら実験を続けていた湖洲香は、崎真が連れてきた被疑者に気付き、驚きの声を上げた。
「義継さん!被疑者?…逮捕って!?」
横で湖洲香の監視役をしていた赤羽根は、ビクッとして聴いた。
「コズカ、何?義継君が来ているの?」
湖洲香は赤羽根の問い掛けには耳を貸さず、崎真の思考を読んでいた。
「…コンビニ強盗容疑って、なんでよぉ!!」
湖洲香の悲鳴まじりの声とともに、彼女の目の前のパソコンモニターといくつかの書類が床に投げ出された。
ガタンッ!バサッバサバサ…
慌てて引き戻された赤い『光の帯』が、なぎ倒したのだった。
「崎真、さん…」
湖洲香がそうつぶやくと同時に、部屋のドア鍵が…チャッ…とひとりでに回り、ギイイッ…と開いた。
「コズカ、待って、落ち着いて、私が行ってくるから…」
赤羽根の声をよそに、湖洲香はフラフラとドアから出て行った。
※高岡芳美…『ちょっと熱い夏休み』参照