少女の関所
翔子は、両手で自分の頬をギュッと押し挟んだまま、遠くを見る様な目を紅河に向けて黙り込んでいる。
紅河は、この子は何か考えているのだろうと、しばらく沈黙の中を待った。
小学生の頃の自分を思い出す。
親や先生に叱られたり、ちょっとした事で注意を受けたりした時、自分に悪気は無いのに、という自己正当化の思いと、やっぱり悪い事だったのかな、という反省の気持ちがせめぎ合い、考えがまとまらないうちに、「聞いてるのか!」と咎められる。
抑えつけられるような大人の物言いには、結局、反抗の気持ちが強く残ってしまう。
翔子が、両手を頬からゆっくり放し、ポツリと言った。
「殺せなくてよかった。」
会話の脈絡からは、あまりにも噛み合っていない、唐突な、そして悍ましい言葉だった。
だが、彼女の中では繋がっているのだろう、と紅河は表情を変えなかった。
「誰を?」
翔子は、京子を見て、そして紅河に視線を戻した。
「きょうこと、くれかわ。」
…白楼での事か。
紅河は、翔子の飛躍した思考を推測してみた。
おそらく、翔子にとっての京子と紅河が、翔子に何か有益なものをもたらした、との考えに至ったのだろうと思える。
だが、紅河は、それ以上考えるのをやめ、また、聴きもしなかった。
この栂井翔子という少女には、今後二度と会う事もないだろうし、今やらなければならない事は、この子を然るべき場所へ帰すことだと思ったからだった。
「栂井さんからの話は、終わりか?」
翔子はしばらく目を泳がせながら考えていたが、コクリ、と頷いた。
「そうか。」
紅河は、翔子がここにいることの経緯を知った以上、話さなければならないこと、その言葉の選び方に考えを巡らせた。
どう話せば、この栂井翔子という子に伝わるだろうか。
「話を戻すけど、君が、白楼から黙って出てきたこと、そして、それを花屋さんに話していないこと、これは、このままで良いということは無い。」
翔子は表情を曇らせた。
「君から話せないのであれば、その花屋さんに、俺から話す。」
翔子の顔が歪み、震えた声で言う。
「帰りたくない…あんなとこ…」
さて、どんな言葉を使えばいいのか…紅河は考え続ける。
甘い表現や、無責任に期待を持たせるような物言いだけはしてはいけない、と考える。
子供を諭す、ではいけない。
この子は殺人を犯しているのだ。
一人の人間として、負うべき責任を認識させなければいけない。
「優しくしてくれた花屋さんには、事実を話さなければ、栂井さん、君は前に進めないんじゃないかな。」
「え、前に?」
「俺は君のことをよく知らないけど、こうして話してみて、びっくりした。」
「びっくり?」
「うん。悪いことを悪いと認識し、省みて謝る。しっかりした子だな、と思った。」
「…」
「栂井さんは、何歳?」
「11歳。」
「十一か。俺も、10歳頃かな、いろいろと見えてきたの。大人の言うことがなんとなく判ってきた。」
「…」
「将来、何かやりたい事とか、なりたいものとか、あんの?」
「え…」
翔子は紅河へ顔を向けたまま、瞳を左右へ泳がせた。
そしてしばらく考えて、言った。
「花、好き。しゅわしゅわのジュースも好き。」
「ふぅん。花とジュースを売る店ってのも、なんかシャレてるな。」
「え、店、花とジュース…」
翔子の表情が心なしか明るくなり、何かを想像するような顔になった。
…お、上手くいったか?
「そういう店を…」
「やりたい!花とジュース!」
「おお、そう。それをやる為には…」
「赤い花と赤いジュース売るの!」
「そうか。それなら…」
「おじさんの所に行く!」
翔子はいきなり立ち上がった。
…人の話を聞けコラ。
紅河は、あからさまに不機嫌な顔をした。
「わかったから。で、まずは、犯した罪を償わなければ、そういう店は出来ない。」
「え…」
「え、じゃない。考えるんだ。自分が今どういう立場にあるのか。」
「え…」
あれ…
よしつぐさんにも、同じこと言われたかも…
『周りから自分がどういう目で見られているか』
翔子は、身体から力が抜けたように、再び椅子に腰を下ろした。
紅河は、努めて優しいニュアンスで話を続けた。
「俺もその花屋さんの所へ行く。けど、君をここに連れてきた花屋さんにも考えはあるし、立場もある。頭ごなしに俺から白楼の事を話すことはしない。最後は、栂井さんが自分で事情を話して、白楼に帰る。」
「…」
「それが、避けて通れない、乗り越えなければならない道だと、俺は思う。その先に…」
紅河は、翔子の瞳を覗いた。
その瞳は潤み、右へ左へと小刻みに泳いでいる。
嫌だ、助けて、と何かにすがるような、その瞳。
「…花とジュースの店があるんじゃないのか。」
翔子は、震え始めた。
「さっき、栂井さんが『私、嫌い?』って聴いた時、俺、『別に』って言ったよな。」
今にも涙が溢れ出しそうな翔子の瞳が、紅河を見つめている。
横で、京子はずっと床に視線を落としたまま、背中を椅子の背もたれには付けず、膝に両手を置いたまま、黙って聞いている。
「嫌いになる理由が無い。栂井さんが人を殺めている事は知っている。試合を邪魔した事も判った。けど、そんなものは、君を嫌いになる理由にはならない。」
震える翔子の瞳から、一粒、涙が零れ落ちた。
「だってさ、何か訳があるんだろ。試合だって、花屋さんが喜ぶと思ってやった。栂井さんの視点で考えれば立派な理由だと思う。ルールを知らなかったんだろ、それは仕方ないことだ。」
…ああ、もう、言葉なんか選んでられねぇ。
「人を殺めたのだって、怖かった、憎かった、能力を試したかった、ムカついた、仕返しした、仇打ち、何かあっただろ。それ、ちゃんと説明したのか?その、殺した理由、正しい行動だったのか、悪い事だったのか、とことん話したのか?」
「え…う…ひう…う…」
「頭ごなしに言われただけじゃないのか?人を殺すのは何があっても駄目だ、とか。」
「う…う…」
「だったら白楼に帰って、警察庁だか刑事局だか、堂々と帰って、徹底的に話し合えよ。殺すのが駄目なら、どうすればよかったのかって、自分が納得できるまで相手の考えも聞き出せよ。」
「ひうっ…うく…う…」
紅河は、椅子の背もたれに寄りかかるように上半身を倒した。
「なんかさ、俺、自分で言ってて、自分に説教してるみたいだ。」
「え…」
「出来ないんだよな、なかなか。大人と話し合うことも、自分の考えを話すことも、難しい。すげぇ難しい。」
翔子は、大粒の涙をポロポロ落としながら、それでも紅河を見続ける。
「それなのに、栂井さんは俺に会いに来た。怖かっただろ。京子のことも怖かったはずだ。」
…え、怖いけど、怖くなかった。
「う…くれかわ、怒ってないかなって思って…うく…でも、私、う、悪いなら、謝らないとって…う…」
…あれ、なんで怖くないって思ったんだっけ…
「…う、あ、怒って、怒ってるように見えなくて、ひう、くれかわ、すごい人かなって…う、あ、おじさんとか、よしつぐさんとか…くれかわも…う、ひゅっ、う、うう…」
…そうだ…
「ひう…くれかわ、くれかわも、うっ…優しくしてくれるかなって、うう、うあ、ひあ、あああ、ああぁあぁぁあああ…」
翔子は泣き出していた。
「え、あ、ちょ、ま、な、泣くな、声、やばいって、ちょっと、き、京子、止め、この子、止め…」
おろおろする紅河が京子を見ると、京子も涙目になっていた。
「おま…」
…お前もかい!
「ちょ、しっ!悪かった。泣き声はやばい。落ち着こう、な、落ち着こう、栂井さん、翔子、さん…」
京子が、ハンカチを出して自分の目を抑えながら、翔子に言った。
「よかったね。紅河さんと話して、よかったね。優しくて、心が広くて、感動したね…」
…京子、多分違うぞ、この子が泣いてる理由、違う。
翔子は泣き止み、嗚咽しながら言った。
「うくっ…おじさんとこ、ひうっ、行く…一緒に、くれかわと、うっ、行く…うくっ…」
三人は空室を出て、翔子に鍵を閉めさせると、紅河は一旦桜南高校の控え室に戻り、監督の教員にこのまま帰宅すると伝え、荷物をまとめた。
バックスタンドゲートのある通路で、京子は、紅河と翔子、二人と別れた。
「えっと、あれ、ここ、どこ…」
京子は手持ちのお金がない。
自分の携帯電話もない。
「あれ、迷子…」
まずい。
舞衣に、待っていてもらうよう一言伝えておくべきだった。
京子は舞衣達の魂の光を捉えるべく、黄色い『光の帯』を放った。
舞衣のオレンジ色は慣れていて良く知っている。
だが、なんと人の多いことか…。
その黄色い『光の帯』は、その必死さから、これまでに無い猛スピードでスタジアムを駆け巡る。
…何やってんだ、京子さん。
その凄まじい勢いの『黄色』を見上げながら、義継は紅河と翔子を尾行していた。
翔子は14番ゲートまで来たものの、座席の場所を忘れてしまい、20分ほど紅河を引っ張り回し、ようやく柴山を見つけた。
「おじさん。」
「おお、ショウコちゃん、遅かったな、迷ったかい、心配したよ。」
柴山が翔子を見ると、その横に、紺色のブレザーを着た背の高い学生が一緒にいる。
「ん、そちらさんは?」
「紅河と申します。迷子になっていた栂井さんを。」
「おお、そうですか、って、え、クレカワ、さん?…て、もしかして…」
「城下桜南高校の学生です。」
「ええ、おい、ええ、えええ?」
柴山は腰の痛みも忘れ、席を立ち上がった。
「あの、10番の選手かい!」
紅河は恥ずかしそうに、頭を下げた。
「なんだ、なんだおい、ショウコちゃん、こりゃまた凄い子を連れてきたな、うはぁ。」
「いえ、そんな、凄くなんか…」
「いやいやいや、ほおぉ、さすがに背が高いな、いやいや、前半のオーバーヘッド、ありゃミラクルだな!私も学生時代にサッカーやっていてね。」
「いえ、あれは無理矢理です。あれしか出来なかったんですよ、あの場面では。」
「何を言っとる、あのパスをトラップもせずシュートなんて、普通出来ないぞ、出来ない、うん。いやぁ、ショウコちゃん、迷子になって良かったなぁ、こんな凄い子に逢えたなんて、いやいや、そうかいそうかい。」
柴山の興奮の仕方に、翔子は目を丸くした。
…くれかわ、やっぱりすごいんだ。
紅河は、翔子が事情を話すタイミングを計るため、柴山に聴いた。
「第二試合は、観ていかれます?」
「あ、ああ、そのつもりだよ。」
「ご迷惑でなければ、俺も、ここで一緒に、いいですか?」
「え、も、もちろん良いよ、え、なんだい、私は夢でも見てるのか?城下桜南の10番が一緒に?おい、え、なんて日なんだ、今日は!」
「そんな大袈裟な…」
「いやいや、夢でもいい、現役の高校サッカー選手の、しかも日本一のエースストライカーだ、話したいことは山程あるよ、いやいやいや、参ったぞこれは。」
「ははは…」
謙遜するのも疲れるので、紅河はとりあえず苦笑して見せた。
こんなにはしゃいでいるサッカーファンの方に、実は栂井翔子は殺人犯で、などという話をいきなりするのは気が引ける。
とりあえず、第二試合が終わってからの方がいいな、と紅河は思った。
柴山が、翔子が座っていた座席に置いてあったビニール袋を持ち上げて言った。
「あ、の、そうだ、昼は?弁当を買ってある。紅河さん、私の、よかったら食べて、ショウコちゃんのもあるよ、ささ、ほら。」
「ああ、いえ、俺は学校が手配したやつを持ってきてますので。」
「おお、そうですか、じゃ、あれだ、座ろう、な、ショウコちゃんも。」
「うん。」
…おじさん楽しそう、良かった。
これから話さなければならないこと。
話した後、柴山との別れが来ること。
それを思うと、翔子の気持ちは暗く沈んだ。
だが、それならば、柴山が少しでも長く楽しい時間を過ごせるように、と、翔子は努めて明るく振舞おうと思った。
三人の座席があるブロックの後方の席に、義継が腰を下ろしていた。
…紅河クンなら心配ないか。ま、念のため。
その義継の視界には、スタジアム内を高く低く、幾重にも絡まるように、狂ったように飛び回る黄色い『光の帯』があった。
「京子さん、観客をテレパシーで洗脳でもしてるのか?意外と京子さんがラスボスだったりして。」
何のラスボスだよ、と自分で自分に突っ込んだ直後、『黄色』の先端が義継の目の前で止まった。
…おや。
『義継さん』
『はい』
『あの』
『はい』
『あの』
『はい』
『あの』
『テレパシーは便利だね、京子さん』
『うう…』
『言わなくても読めました』
『ううう…』
『17番ゲートから入ってDブロックの後ろの方に橋石がいるから、そいつに頼めばいけますよ』
『あまり話したことなくて、橋石さん…』
『問題ないです。あいつは女性の頼みは絶対に断りませんから』
『うう…行ってみる…』
『グッドラックです』
京子の思考は、『お金貸して下さい』という思念が、その中央にドンと座っていた。




