解かれた麻痺
スタジアムの通路で、栂井翔子に振り上げた手を止められた京子は、その手を止めた義継の顔を、目を、見た。
それは落ち着いた表情をしており、目も穏やかだ。
そして、義継と自分の間で頭に両手を当ててうずくまっている翔子を見下ろす。
と、怒りに我を忘れていた京子の耳に、周囲の人のざわめきが入ってきた。
軽く周りを見渡すと、行き過ぎる人達の何人かが、立ち止まりはしないものの、ジロジロと京子と翔子に無遠慮な視線を投げていくのが見える。
京子は熱が冷めていくような感覚を覚えると同時に、自分の手や足が震え始めたことに気付いた。
翔子がクレヤボヤンスで見ていた煮え滾る黄色いマグマは、徐々にその黄色い光の密度を薄めていき、光の流動も穏やかになっていく。
京子の震えに気付いた義継は、その腕を掴んだまま、ゆっくりと下ろした。
そして、白い『光の帯』を、ゆらりと出し、京子の頭上に伸ばす。
『京子さん、大丈夫?』
『え、はい…』
『この子はラボの使い手、栂井翔子だ』
『うん』
『人が振り上げた手など、至近距離だとしても、簡単に弾き返す能力を持つ子だ』
『う、うん…』
『なぜ、こう、萎縮しているのか、反射的に身を守る「光の帯」が出ないのか、出さないのか、僕にもよくわからないが…』
『うん』
『この栂井翔子は、もう、昨日白楼で見かけた不気味な凶器ではないようだ』
義継に腕を掴まれたまま、京子は再び翔子に視線を落とした。
翔子は、恐る恐る、という様相で、京子を見上げている。
その目に溜まっていた涙が、ポトっと一雫、床に落ちた。
『でも、でもね、でも、そうだとしても、紅河さんを転ばせたことは』
「許せない…」
許せない、は声に出ていた。
小さな声だったが、その京子の言葉は、翔子の耳にも入る。
翔子が、頭に当てていた両手を下ろしながら、立ち上がった。
上目遣いで京子を見ている。
…白い使い手と何かテレパシーしてる。よしつぐさん、て聞こえた。
黄色。
きょうこさん、て、よしつぐさんが言ってた。
黄色は、きょうこは、くれかわの仲間。
怒ったの、わかる。
でも、私だって、おじさんを楽しくさせたい。
おじさんは優しい。
温かい。
きょうこは、よしつぐさんとも仲間。
何か話した。
私に聞こえないように、テレパシーした。
嫌いなんだ。
みんな、私が嫌いなんだ。
会ったばかりで、すぐ、私が嫌い。
よしつぐさんも、きょうこも。
みんな、私が嫌い。
頬をぶたれた。
きょうこが、ぶった。
こんなに怖いの、怖くぶたれたの、初めて。
お母さんより怖く、おねえちゃんより怖く、ぶった。
「きょうこは、私を殺したいのね。」
その言葉は、翔子のその一言は、白楼で蓮田が施したオーブリカバリー、仮死状態からの蘇生を受けた直後、翔子が言った一言と同じだった。
『遠熊所長は、私を殺したいのね』
その時、翔子は薄ら笑いを浮かべていた。
だが、今は、悲嘆に沈む表情をしいている。
薄ら笑いの正体は、拠り所のない闇に諦めきった、負の達観。
自分の味方など、この世に一人も居ない。
亡き父の温もりの記憶を胸に、一人で頑張って生きていく、人を殺して、大人へと成長してやる、そう、孤独地獄を受けいれた、諦めに歪んだ笑い。
今、翔子が浮かべている、悲しみの表情は…
…優しくしてくれる人に出逢えたのに、私は殺されるの?
諦めが転じた微かな希望が、砕かれるのか、という慄き。
…奪わないで。
…私から、取らないで。
…おじさんを、奪わないで。
…よしつぐさんを…
「…取らないで。」
小さな、小さな声だった。
だが、それは翔子にとって、生死を掛けた、必死の懇願だった。
目の前で煮えたぎっていた黄色いマグマを排除しよう、倒そう、殺そう、そういう感情も、刹那、湧いた。
だが、痛み。
自分の痛みなのか、相手の痛みなのか、痛みはもう嫌だ、という感情が、翔子の闘争心を飲み込んだ。
あたかも、大きな波が覆い被さり、沖へさらっていくかの様に、翔子の殺意を、飲み込んだ。
殺意は、翔子の逃げ場だった。
深く考えるという人間性を麻痺させ、辛いだけの日常から逃避するための、生きる手段。
空気を吸うように、食事をとるように、無感情に、殺せば済む、と考える。
殺せたなら、ホッとする。
よかった、と思い、表情には笑みが浮かぶ。
その、麻痺していた、自ら麻痺させていた、殺された相手はどうなるのかと考える『情』というものが、翔子の心の中で、その封印を解き、固く閉ざされていた箱の蓋が、ギシッときしむ音を響かせて、開いた。
「こ、ころ、そんな、そんなこと、しない。したくない。許せないの、あなたが。紅河さんがどんなに頑張っていたか判らないの?急に、見えないものに転んで、転ばせて、悪い事したって思わないの!?」
京子の言葉に、翔子は一瞬視線を床に落としたが、すぐにまた京子を見上げた。
翔子は考える。
きょうこは、私を許せない。
くれかわが頑張ったこと。
見えないものに転んで…え、見えない?
「見えるよ、くれかわ。」
「え?」
「キラキラ。」
「え、見えないんだよ、紅河さん、使い手じゃ無いんだよ。」
「え、うそ…」
紅河が使い手ではない、それは知っている。
だが、紅河には『光の帯』が見えているはずだ。
そうでなければ説明が付かない。
θ棟で『光の帯』が掴まれたこと、蹴られたことに、説明が付かない。
「嘘じゃないよ。もしかして驚いた?紅河さん、銀色の人に、見えないのに向かって行ったんだよ。怖いはずなのに、人を助ける為に、やられちゃうかも知れないのに、そういう人なんだよ、紅河さん。」
それを聞いていた義継は、蓮田が時を止める能力を発動したと思い震撼した、あの絶望感を思い出していた。
あの時、義継が、来るな、と制したにも関わらず、紅河は向かってきた。
理解不能な死地へ、飛び込んで来た。
そして、動けなくなっていた義継と皆月岸人を、救い出した。
義継の中の、紅河淳という男。
義継が初めて紅河と出逢った時、紅河は僅かな金を握りしめ、帰ってこない弟を探したい、と探偵である兄の治信に相談に来ていた。
初対面のイメージは、温室育ちの、純真無垢な高校生。
発言と思考にずる賢い隔たりが無く、馬鹿正直な男、紅河淳。
女生徒の制服であるセーラー服を着ていた義継に、一瞬驚きの表情は見せたものの、二度目に会った時にはもう、当たり前のような顔で普通に接してきた紅河。
偏見や先入観で人を判断しない、区分しない、分け隔てない男。
実の父親がサイコパスで、自分はテレパスだ、と明かした時も、あっさり受け入れた男。
いや、受け入れた、という感じでは無い。
それがどうかしたのか、という感じで、意に介さない紅河。
知人として、友として、居心地がいい…とか、悪いとか、それ以前。
あまりにもナチュラルに、その時すでに紅河は、義継の側にいた。
義継は、ノックアウトされた。
紅河淳を、友として好きになっていた。
義継は、京子の腕を掴み続けていた事に気付き、静かにその手を放した。
翔子が、京子の顔を見上げたまま、独り言のように、言う。
「見えない…くれかわ、キラキラ、見えない…どうして、どうやって…」
翔子の脳裏に、θ棟で紅河に掴まれた『光の帯』の感触、サッカーの試合中にこちらを睨みつけていた紅河の目、必死にボールを追う汗まみれの横顔、それらが錯綜する。
転ばせてしまった後の、悔しそうな表情と、立ち上がってフィールドに戻っていく紅河の背中。
怒っているのか、いないのか。
凄い人なのかも知れない、と感じた気持ちが、再び蘇る。
京子の仲間、紅河。
義継の仲間、紅河。
手を切り落としてしまった『肌色』の先生、その思考に出てきた紅河という名や、古見原の『人として覚えなければならない気持ち』の訓示までもが、浮き沈みしながら、翔子の意識をグルグルと回り続ける。
翔子は、両手で、ピタン、と自分の頬を抑えた。
その目は虚ろだが、京子の顔を見続けている。
そして、翔子の思考の渦が、ある一つの気持ちに収束し始めた。
「くれかわ、くれかわに、くれかわと…言わなきゃ、くれかわは、怒ったなら、言わなきゃ、私の、ごめんなさい…」
京子は、両手を頬に押し付けてヒヨコ唇の様になっている翔子に、真剣な目で、言った。
「謝る気、あるの?」
翔子の、その虚ろだった瞳が、京子の瞳を覗き返した。
「わかんない。くれかわと話したい。怒ってるなら…」
ちょぼちょぼと、翔子のヒヨコ唇が動く。
京子は、頬に当てている翔子の右手をグイッと掴むと、その手を引き、走り出した。
義継は、しばし斜め上をみつつ腕を組む仕草をし、その視線を遠ざかっていく京子と翔子に向けると、二人を追いかけ始めた。
14番ゲートの最寄ブロック、その客席で、柴山が周りを見回している。
「ショウコちゃん遅いな。迷ったか?戻ってきたら弁当でも買わんとな。」
柴山は、午後の準決勝第二試合も見るつもりでいた。
桜南と聖美陵の、スーパープレイ続出の好試合を思い返す。
これほど興奮した楽しい時間は何年ぶりだろうか。
それは、横でジュースを飲みながら、キーパーって何?オフサイドって何?と興味津々に聴いてくる少女の存在も大きかった。
話し相手がいる観戦。
その話し相手に、自分の知識を説明する楽しさ。
柴山は、帰るところが無いなら、あの子を養女にしてもいいな、とまで思った。
だが、それは、あの子が今まで暮らしていた所と話し合ってからだ、と常識人の柴山は表情を引き締める。
イジメや虐待があるなら、戦ってやる、守ってやる、そう思った。
京子は、翔子を引っ張りながら、スタンドゲート付近に見かけるスタッフシャツを着た人に、息を切らせながら聴いた。
「あの、城下桜南高校の、サッカー部の、えと、控え室とか、あるんですか、どこですか、まだいますか、サッカー部。」
係員は、京子の勢いに面食らった様な表情をしつつも、桜南サッカー部の控え室の場所を教えた。
「昼食の弁当発注があったようですし、まだいると思いますよ、城下桜南高校さん。」
京子は、翔子の手を一度放し、両手を前に添えて丁寧にお辞儀をすると、再び翔子の腕をガッと掴んだ。
そして、走り出す。
「ひゃっ…」
引っ張られ、声を出す翔子。
怖いのに、怖くない。
煮えたぎる黄色いマグマは、自分を殺さない、と言った。
今、黄色は、京子は、自分をどう思っているのだろう、と翔子は考える。
謝る気あるの、と言った。
謝れば、ことは済むのだろうか。
違う、と翔子は思う。
自分が何を考えて紅河達のボールを邪魔したか、話さなければいけない。
翔子は、自己防衛の気持ちから、許しを請おうと考えているのではなかった。
黙っていたら、相手は判らない。
自分も、相手が何を考えているのか、知りたい。
それで、その上で、自分が悪いと思ったら、謝るのだ。
古見原の言う、御免なさいという反省の心、これは、『御免なさいと言え』との教えではないんだ、と翔子は気付いた。
そうではない。
反省の心。
反省ということは、何かに対して悪いことをしてしまった、という事だ。
自分は、悪い事をしたのか…それを確認する事が大事なのだ、と気付いた。
謝ればいいのではない。
怖いけど、怖くない。
「きょうこ…」
走りながら、翔子がつぶやいた。
「え?」
京子は立ち止まり、振り返った。
肩で息をしている。
「殺したこと、ある?」
京子は、一瞬、ゾッとした。
急に何を言いだすのだろう、この子は、と思った。
「あ、あるわけないでしょ。」
京子を見上げる翔子の顔は、だが、不気味な異常さのような雰囲気が、感じられない。
「大きいね。」
…え?
京子は、翔子の、大きいね、という言葉の意味が全く判らなかった。
「紅河さんと、話すんでしょ?」
翔子は、京子を見上げたまま頷いた。
「じゃ、そんな、変なこと言わないで。」
京子は再び翔子の腕を掴むと、走り出した。
京子に手を引かれながら、翔子は思う。
人を殺さなくても、大きくなれるんだな、と。
翔子には、弱冠十六歳の京子が、大きい大人に見えていた。
京子と翔子は、選手控え室の前に着いた。
『私立城下桜南高校様』という張り紙が貼られているドアが、二つある。
…どっちだろう。
京子が二つのドアの前でキョロキョロしている所へ、桜南高校のジャージを着た男子が、両手に大量の弁当を下げて、通路を歩いて来た。
ジャージの色はグリーン、ということは、京子と同じ一年生だ。
その男子が、京子と翔子を交互に見ながら、言った。
「あれ、誰待ちっすか?何年すか?校章付けてないみたいっすけど。」
京子が慌てた様相で答える。
「あ、あの、えと、一年の小林です。校章は、ちょっと、えと、忘れてきちゃって…」
その男子は、京子をジロジロと眺めながら言う。
「ふぅん。俺は一年の古藤っす。何組?誰待ち?」
京子は、その男子の視線が嫌だな、と思いつつ、答える。
「あ、A組。えと、あの、紅河さん、いたら、ちょっと、その、お話があって…」
「ああ、紅河ファンクラブっすね。会員番号とかあるんすか?紅河先輩、足が痙攣してて、マッサージ中だと思うけど。」
…ファンクラブ?
「あの、違う、ファンクラブとかじゃなくて、こ、こば…き、京子、って言ってもらえれば…」
紅河は自分を、京子、と呼んでいる。
そう言った方が伝わりやすいだろう、と思って言ったが、自分で言っていて恥ずかしくなり、京子は頭がクラクラしてきた。
「ああ、知り合い?親戚か何か?ちと待ってて。」
そう言うと、古藤と名乗った一年は、右側のドアに手を掛けようとした。
だが、両手を塞いでいる弁当のビニール袋が邪魔し、なかなかドアノブに触れない。
一旦床に置こうか、という仕草を見せたが、やめたらしい。
全部を片手に移そう、と必死に持ち替えようとしているが、それも出来ないらしい。
しばらく古藤はドアの前で四苦八苦し、京子を振り返った。
「ごめ、開けて。」
京子は、翔子の手を引いたまま、ドアノブに手を掛けた。
「そんな一度にたくさん、他にも一年生、いないの?」
「あ、これ、罰則。俺、紅河先輩に失礼なこと言っちゃって、一人で全部一度に持ってこいって命令が出て。」
それを聞いた京子と翔子は、同時に古藤の顔を睨んだ。
睨んでいる二人の女の子の顔が、どちらも殺気のような気配を帯びており、古藤はビクッとした。
「え?…」
「紅河さん。早く。」
「くれかわ。」
「は、はい…」
古藤が控え室へ入っていき、しばらくして、青いジャージ姿の紅河が出てきた。
心なしか、足を引きずっているような歩き方だ。
後手にドアを閉める紅河は、だが、穏やかな顔つきをしていた。
「おお、京子、来てたの。」
「うん。」
「昨日、ちゃんと寝たか。」
「あ、うん。」
こういう何気ない一言が、たまらなく嬉しい、と京子は感じる。
緊張しているのに、話しやすくもなる。
紅河は、京子が手を引いている女の子に目を向けた。
誰だろう。
その子に、軽く頭を下げる紅河。
「ども。」
頭を下げられた翔子は、圧倒されたような表情で、口をポカンと開け、紅河を見上げている。
…で、でか。
間近で、クレヤボヤンスではなく肉眼で見るその姿は、とてつもなく巨大に見えた。
京子が、掴んでいた手を揺すり、そして、放した。
「ほら、話し、するんでしょ。」
だが、翔子は固まっている。
両手をダラっと下ろし、口を開け、紅河の顔を見上げたままである。
「ん?」
紅河は、翔子を覗き込むように見た。
そして、控え室のドアへ振り返り、半分ドアを開けると、
「ちと、ブラシ、え、違う、制服用の、そ、それ、投げて。」
と言い、何かを受け取ると、ドアを閉め、翔子に振り返った。
紅河は、おもむろに翔子の左腕を掴むと、翔子のブラウスの肘の辺りに残っていた黒い汚れにブラシを掛け始めた。
「なに、転んだ?」
翔子は数回瞬きをすると、我にかえるように、やっと口を開いた。
「ごめんなさい。」
「いいよ別に。雨降ってたからなぁ。」
…あ、違う、謝るの、まだだった。
「ボール。」
「ん。」
…あれ、なんて言えばいいの。
紅河は、翔子のブラウスの汚れをブラッシングし続けている。
「おじさんが、あ、せいびりょう、あ…」
「聖美陵?」
…あれ、そうだ、怒ってるか聴かなきゃ。
「転んで、あ、見え、あ…」
「やっぱ転んだのか。気を付けろよ。」
…違う、違う…
「く、くれかわ、あ、お、おこ…」
「つか、君、誰、聖美陵選手の妹さんとか?」
…あ、そっか、私の名前。
「栂井、翔子。」
その名を聞いた瞬間、紅河のブラッシングの手が、止まった。




