黄色いマグマ
ロスタイムを含め約80秒の聖美陵の攻撃は、桜南2番スイーパー篠宮のサイドカットを最後に、得点には繋がらなかった。
夏のインターハイ県地区予選準決勝第一試合は、4対3で城下桜南高校が勝利、全国出場の切符を手にした。
試合終了の挨拶に向かおうとした紅河は、両足がガクガクと痙攣を始めたことに気付いた。
…な、なんだこれ。
こんな事は、試合では初めての経験だった。
確か、一年の冬、強化合宿で行われた42.195kmマラソンの時、同じような状態になった事があったな、と思い出す。
その日の夜は、布団の中で足が何度もこむら返りを起こし、ろくに眠れなかった。
…情け無ぇ。
紅河は、足の痙攣を周りに悟られまいと平静を装いながら歩きつつ、7番の須崎を見た。
須崎は、右足を引きずっていた。
「おい、大丈夫か、須崎。」
須崎は右手で右腿を掴み、膝を突っ張らせて歩いている。
「大丈夫じゃねーよ。最後に二本も打たせやがって。」
「うちの主砲だろ、お前は。」
紅河は、軽く笑って見せた。
よたよたと並んで歩く二人は、メインスタンドから二人の名を叫ぶ生徒達の声にようやく気付き、須崎は投げキッスの仕草をして見せる。
「あ、紅河。」
「ん。」
「レッドカード、どうしたよ。退場する約束は。」
紅河は、右手でバサバサッと髪の水分を弾くように、自分の頭を撫でながら言った。
「決勝戦も、出たくなってな。」
須崎は、左手で顔の汗を拭いながら言う。
「なんだよ、つまらねぇ。」
足が思うように上がらない紅河が、軽くつまずいた。
須崎が紅河の足を見ると、両腿が、ピクッ、ピクッと震えている。
「かはは、お前もか。」
「うるせ。」
「ま、お前も人間だったってことだな、紅河。」
「なんだよそれ。」
「見ろよ、向こうのエースはもっとやばそうだ。」
紅河が視線を上げ、聖美陵9番を見ると、彼は仲間の選手に肩を預け、片足だけで何とか歩いている状態だった。
フィールド中央、センターサークルで向かい合って整列した桜南選手と聖美陵選手は、終了の挨拶を交わした。
「ありあした!」
聖美陵選手の何名かは、泣いていた。
公式戦で、敗退した相手チームの選手が泣いている姿は何度も目にしているが、なぜか、今の紅河には、聖美陵選手の涙が、妙に胸に刺さる。
今まで、気にもとめた事がない、相手チームの涙が。
「紅河、くん…」
誰かが呼んだ。
紅河は、声のした方を見た。
それは、チームメイトに肩を預けている、聖美陵の9番だった。
「はい。」
聖美陵9番が紅河に歩み寄ってくる。
肩を貸しているのは、聖美陵の4番だった。
「冬は、残るの、ですか?受験かな、ですか?」
聖美陵9番の言葉は、タメ口か敬語か迷って出てきた丁寧語、というニュアンスだ。
「あ、ん、まだ考えて、ません。」
たどたどしく答える紅河に、聖美陵4番が、口を開いた。
「結局、俺たちは一度も桜南に勝てなかった。冬は、紅河くん、君のいる桜南を倒したい。」
紅河は、聖美陵の二人の真剣な眼差しに、どう言葉を返すか、刹那、迷った。
なにか、中途半端な返答をしてはいけないような気持ちになる。
と、紅河の背後から、ヌッと桜南4番の田所が顔を出した。
「あー、紅河は、頭良いから、冬も部、続けてますよ。サッカー馬鹿ですし。」
「な…」
なに勝手なこと言ってるんだ、と言おうとして紅河が振り向くと、田所は既に背を向けてスタスタとベンチに向かっていた。
紅河は、ポリポリと頭をかく仕草をしつつ、言った。
「あ、えっと、名前、教えてもらえる?」
「聖美陵三年の藤嶋です。」
「三年の佐山だ。」
紅河は目で頷き返しながら、自分の本心を考えてみた。
痙攣する足、雨水を吸って重くなり型崩れし掛けているスパイク、転倒して泥だらけになったユニフォーム…だが、今までとは質の違った充実感が、あった。
自分は…
自分もまた、この二人のいる聖美陵と、試合がしたい。
そう、紅河の本心が、言っている。
「冬も残るよ、部に。フジシマ君、サヤマ君…」
紅河は、二人の目を真っ直ぐ見て、こう続けた。
「…俺も、君達のいる聖美陵と、また戦いたい。」
聖美陵の藤嶋と佐山は笑みを見せ、紅河に握手を求めて来た。
…握手とかは、苦手だな…
紅河も、半ば仕方なく、手を出す。
握られた手の圧力は、二人とも強かった。
ここまで熱苦しく来られると、少し引くな、と思いつつ、紅河も、震える足をだましだまし動かし、ベンチに戻って行った。
スタジアムのアストロビジョンには、午後に行われる準決勝第二試合、県立緑瀬北高校と私立代沢中央高校のスターティングメンバーと、今し方終了した桜南と聖美陵の試合結果が、交互に映し出されていた。
東側メインスタンド。
午後、この客席ブロックは緑瀬北高校の関係者が優先となる為、城下桜南の生徒達が立ち去る姿が、疎らにあった。
舞衣と千恵も、背伸びをしながら立ち上がった。
だが、愛彩は、選手の去ったフィールドを、座ったまま眺め続けている。
「愛彩、お昼行こ、お昼。」
「うん。」
「何見てんの?」
「あれ、京子は?」
「あれ、トイレじゃない?」
キョロキョロする舞衣と千恵をよそに、愛彩は、紅を見ていた。
…あ。
フィールドの脇に立っていた紅が、その姿をゆらゆらと波打たせ、白く眩しい光に変わった。
そして、その光は、徐々に小さくなりながら、黄色っぽくなり、更にオレンジ色へと変わり、そして、消えた。
紅は、自らの霊体の属性を、第五階層へ戻していた。
従者の龍神も、それに続く。
『坊の内なる迷いが、真の糧となるは、まだまだ先かの』
『私目には、僅かながら大きくなられたとお見受け致しましたが』
『甘い甘い。見ておれ、坊はまた萎むぞよ』
『萎むもまた、精進の過程にございまする』
『いつも思うが、貴殿は坊に甘いぞよ』
『私目は、紅様の従者でございますゆえ』
スタジアムの上空に、縦に走る飛行機雲が現れた。
「ん?」
何気なく空を見た紅河の目に、その縦長の細い雲が映る。
「須崎、あの雲、珍しくないか。」
「あん、どれ。」
身支度を整えていた須崎が、簡易テントから出て空を見上げる。
「どこよ。」
「あれ?」
紅河が視線を空に戻すと、その縦に走る飛行機雲は、空に溶けるように、崩れ始めていた。
「あれがさ、こう、もっと固まって、縦に、こう…」
「早く支度しろ、何でもかんでも後輩に持たせるんじゃねぇぞ、紅河。」
「あ、ああ…」
龍神が階層から階層へ属性を変える時に、第一階層である現世の大気、その水蒸気の偏りに影響を与える現象。
俗に言われる『龍神の通り道』は、瞬く間に、その飽和状態が拡散し、空に溶けて、消えた。
雲間から差し込む陽光は、スタジアムにも降り注ぎ初めていた。
バックスタンド14番ゲート付近の女子トイレ。
義継は、栂井翔子に再び靴を履かせ床に立たせると、内ポケットから制服用の薄い携帯ブラシを取り出した。
そして、翔子の着ていたブラウスの背中の部分を丁寧にブラッシングし、ブラウスを翔子に返えした。
「じゃあな。」
そう言うと義継は、長い髪を後ろで束ね、髪ゴムで止めながら、女子トイレから出て行った。
…あれ。
急いでブラウスを着る翔子。
右足の火傷がジンジン痛むが、冷やしたおかげで、その痛みは大分和らいでいた。
…私を捕まえに来たんじゃないの?
ブラウスのボタンを留め、慌ててスカートに押し込むと、翔子は小走りで義継を追いかけた。
グイッ
学ランの裾が掴まれた感触を感じ、振り向く義継。
掴んだのは、翔子だった。
「なに。」
「え、あ、んと、あ、あれ…」
…なんだっけ。
何がしたいのか自分でもよく判らない翔子の脳裏に、ラボでの古見原の言葉が過る。
『有り難う、という感謝の心を覚えなさい』
翔子は、学ランの裾を掴んだまま、下を向きながら、絞り出すような声で言った。
「ありがとう。」
「ほい。」
義継は、また歩き出した…のだが、翔子が、掴んでいる裾を放さない。
義継はまた後ろへ振り向いた。
「放してくれ。」
だが、翔子は掴んだ裾を放さず、チラリ、チラリ、と義継の顔を見上げては、視線を落とす。
義継は、翔子の手を学ランから引き放し、言った。
「ありがとう、了解、終わり。じゃあな。」
歩き出す義継。
グイッ
再び学ランの裾を掴む翔子。
義継は、声を少し強めた。
「なんだっつーの。」
「え、あ、え、あ、え、あ…」
男か女か聴こうかな。
あ、じゃなかった。
私を捕まえるのか聴こうかな。
あ、捕まえないで行こうとしてるし。
なんで助けてくれたのか聴こうかな。
でも、なんか怒ってるのかな。
さっきは優しかったのに。
あ、名前。
蓮田班長は何て言ってたっけ。
よく聴いてなかったな。
なんだっけ。
ワカムラ、はコズカ。
キタムロ、は緑。
くれかわ、はくれかわ。
なんだっけ。
「はっきり言う。僕はあまり君に関わりたくない。終わりだ。放してくれ。」
「え…」
関わりたくない?
そっか。
嫌われてるんだ。
狩野みたいに。
学校みたいに。
先生みたいに。
お母さんみたいに。
お姉ちゃんみたいに。
みんな、私が嫌い。
翔子は、義継の学ランの裾を放した。
歩き出す義継。
じゃあ、なんで…
じゃあ、どうして…
「どうして助けてくれたの!?」
翔子は、去っていく義継の背中に向けて、叫んでいた。
義継が立ち止まった。
そして、翔子の前まで戻ってきた。
「僕が助けたのは君ではない。あの女子高生二人を助けたんだ。周りから、自分がどういう目で見られているか、よく考えてみな。僕は、あの二人が君に殺されるだろうと思い、それを止めに入った。それだけだ。」
やっぱり、な。
私が嫌いなんだ。
でも、わかってない。
私が言いたいのは…
私が聴きたいのは…
翔子には、洗面台で抱き上げられた時の、足を冷やしてくれた時の、服の汚れの事を電話で聞いてくれた時の、あの優しい横顔だけが過っていた。
「あ、え、なんで、なんで優しいの?足、冷やして、服、きれいにして、嫌いならなんで?…」
違う。
私が聴きたいのは…
聴きたいんじゃない。
わかってくれない。
私は、私は…
…優しくしてくれる人が欲しい!
「それはオマケ。ついでだ。僕は優しい人間ではない。」
おまけ?
おまけって何?
どうしてそんな言い方するの。
わかって。
おまけでもいい。
優しい人と、楽しく生きたい。
白い使い手。
あなたが言うなら、もう人を傷付けない。
首を切らない。
手を切らない。
あなたが言うなら、もうキラキラ出さない。
優しくして。
ねぇ…
また、私に、優しくして…
自分が人を殺している事を知り、ラボでは直接ではないにしても敵対し、サッカーの試合では紅河の邪魔をしていた事を見ていたであろう、この白い使い手が、それでも優しくしてくれた事に、翔子は心を奪われていた。
義継の優しさに、好きになってしまっていたのだった。
好き、という感情には、翔子自身まだ気付いていないが、この白い使い手が、このまま自分から離れていく事が、悲しくてたまらなかった。
それは、無理もないことだった。
これまで翔子の周りには、気持ち悪いものを見るような目を向ける大人と、ただただ厳しいだけの使い手教育者しかいなかったからだ。
トイレに入ってきた女性の心を二人で読んだ時、この白い使い手と心が通ったとさえ、翔子は思ってしまった。
「ついでに言えば、重罪を犯した君がここにいる事にも、僕は、どうこうするつもりは無い。君を探せとも言われていないし、脱走しようが、釈放されようが、僕には関係の無いことだ。逆に言えば、僕も警察なんかに干渉されたく…」
そこまで言いかけた義継の視界に、翔子越しに、ツカツカと真っ直ぐ歩み寄ってくる女子学生の姿が映った。
城下桜南高校の制服を着ている。
…ん、あれは。
「あ、あの!」
怒りの剣幕を押し殺すように、翔子のすぐ後ろで、その女子学生は翔子へ呼びかけた。
顔は真っ赤で、両の手は拳を握りしめている。
…見つけた、明滅する『赤紫』。
振り返る翔子の顔を見て、その女子学生は、一瞬怯むような気配を見せた。
義継は、なんだか面倒な事になってきたな、と思った。
その女子学生が、黄色い『光の帯』の使い手、小林京子だったからだ。
…やっぱり人殺しの子だ。
刹那、京子を恐怖心が襲ったが、彼女はそれを必死に払い除けた。
一生懸命に点を取ろうと、多くの相手に囲まれ苦しみながら戦っていた紅河を、彼には見えない『光の帯』で転ばせた使い手。
こんな非道、許せる訳がない。
この時、京子はまだ、翔子の向こう側にいる男子学生が義継であることに気付いていなかった。
高次元クレヤボヤンスを発動していたものの、怒りに震える京子には、『赤紫』しか目に止まっていなかった。
また、義継はセーラー服という先入観のせいもあったかも知れない。
「あ、あなた、邪魔したでしょ!サッカー!」
いきなりテレキネシスが来るだろうか。
湖洲香と戦っていた時のように、何本もの赤紫の『光の帯』を鋭く飛ばし、襲い掛かってくるだろうか。
やられてもいい。
ちょっとくらい怪我してもいい。
許せない。
絶対に許さない。
…紅河さんの為なら、私は一歩も引かない!
翔子は、その女子学生の顔を見て、あれ、もしかして、と思った。
黄色の使い手ではないのか、と。
そして、確かめる為に、高次元クレヤボヤンスを発動、ゆらりと赤紫の『光の帯』を出した。
…来る!
京子は、テレキネシスが来ると思い、両目をグッと閉じ、平手を翔子の頬を目掛けて振り下ろした。
紅河さんだって!
見えないのに、使い手に向かって行った!
何度も、何度も!
ピシャッ!
振り下ろされた京子の平手が、翔子の頬に当たった。
「あひっ…」
翔子が声を上げる。
目をつぶったまま、京子は身を硬くした。
…来るの!?どこを殴るの!?
だが、『赤紫』の反撃が来ない。
恐る恐る、京子は目を開いた。
翔子が涙目になりながら、か細い声で言う。
「邪魔?だって、楽しいかなと思って、おじさんが…」
その言葉は、京子の怒りの炎に油を注いだ。
「た、楽しいって、ひどいことして!」
京子は我を忘れ、もう一度手を振り上げた。
翔子が、両手で頭を抑えながら、腰を屈めた。
翔子の頭を目掛けて、手を振り下ろす京子。
だが、その手を、義継が手で受け止めた。
ハッとした顔をする京子。
「あ、え!…よ、義継さん!?」
「とりあえず、一発にしとこう、京子さん。」
腰を屈めたままの翔子の、そのクレヤボヤンスに映った『黄色』は、マグマのようにグラグラぬらぬらと蠢き、恐ろしげな光を発しているかの様に見えた。




