相乗の波
紅河淳の守護霊、紅は、サッカーフィールド中央のハーフウエーライン付近、そのタッチラインの外にひっそりと立っていた。
東側メインスタンド席で、それが目にとまった愛彩は、霊というものに不思議な親近感を感じ始めていた。
紅の姿は淡い光に包まれ、白い靄を纏っているのだが、白衣も朱色の袴も、長い黒髪も、はっきりと見える。
愛彩は驚きはしたものの、『紅』という名を名乗り、忍んで来ているので誰にも言わないで欲しいと言い、ではの、と言って離れて行った巫女が、その力は神がかっているのかも知れないが、それ以外は普通の人間と何ら変わらないのではないか、と思えてきたのだった。
160cmくらいに見えた身長も、フィールドの脇に立つ姿は、もっと小柄に見える。
愛彩は、守護霊というものは、守護対象のすぐ側に常に憑いているものだと、根拠もなく思っていた。
だが、紅は、紅河の背後を追い回すでもなく、フィールドの脇にいる。
実際には、紅のすぐ横に巨大な龍もいるのだが、それは愛彩には見えていない。
更に、守護霊の属する第四階層、第五階層には、紅よりも輪廻の浅い下級の守護霊や、紅と同級、またそれ以上の等級の霊が、それぞれの守護対象者を眺め、見守っている。
今の愛彩が視認出来るのは、第二階層にいる霊と、第三階層の一部の霊だった。
意識を集中すれば、このサッカースタジアムのあちこちに、黒い影のような霊や、ぼんやりと光る霊が、愛彩には視ることが出来る。
だが、その容姿が鮮明に判る『紅』のような視え方は、初めての体験だった。
こうなると知りたくなることは、紅が姿を現した理由である。
紅河に、何か起こるのだろうか。
それを守ろうとしているのだろうか。
それとも、単なる気まぐれなのか。
紅とまた話してみたい、と愛彩は思う。
紅は、ゆっくりとフィールドを見渡す。
『現世の修行とは、からくり無き波じゃな』
『波、でございまするか』
『見よ。坊の精進が、他の者の魂にも良い波を与えておる』
他の者とは、聖美陵9番の藤嶋や、栂井翔子のことである。
『送る波あらば、受ける波あり、でございますかな』
『ほうよの。仲間から良い波も受けておる。これは坊の良き心構えが呼び込んでおるの』
『手厳しいと思いきや、坊をお褒めでございまするな』
『褒めてなどおらぬわ』
『これはこれは』
従者は髭の先をゆらっと波打たせ、穏やかに微笑んだ。
勢いが弱まり霧雨のようになってきた中で、聖美陵11番のスローインボールが投げ込まれた。
一時的に紅河のマークを離れ、攻撃に加わる聖美陵6番がこれを受け、ドリブルに入る。
桜南3番が詰め寄り、プレッシャーを与える。
小刻みにボールを操りながらキープする聖美陵6番は、逆サイドにいる聖美陵13番にパスを出した。
それを見ていた聖美陵9番藤嶋がヒヤリとする。
…おい!ゴロで逆サイドは捕まるぞ…
パスコースに桜南4番の田所がフワッと現れ、伸ばした足がボールを弾いた。
そのルーズボールを、聖美陵10番が際どく拾う。
桜南4番田所は、聖美陵10番に詰め寄らない。
フラフラっと聖美陵9番との間、その直線上に身体を寄せる。
聖美陵10番は、チョン、チョン、とボールを突きながらパスコースを探す。
彼は視界に入った聖美陵11番へ向け、パスを上げるために足を後方へ振り上げた。
…!
目をボールから蹴り出す方向へ上げた直後、ボールに向けて滑り込んでくる桜南4番の姿に気付き、驚く。
…いつの間に!
ボシュッ!
間一髪、聖美陵10番からパスが蹴り出されたが、桜南4番田所のスライディングがプレッシャーとなり、パスが若干、攻め方向とは逆側に逸れた。
慌てて身体の向きを変えた聖美陵11番の足が、ズルッと一瞬滑る。
駆け込んでいた桜南12番がこれをインターセプト、中央付近にいた桜南7番の須崎へパスが通った。
かかとをコツンとボールに当て、クルリと向きを変えた桜南7番須崎は、素早く桜南19番と桜南11番の位置を確認しながら、ドリブルに入った。
…紅河もいいが、未だに俺をフリーにしとくのは致命的じゃないのか、聖美陵!
桜南7番須崎がトップスピードで聖美陵陣へ切り込んで行く。
聖美陵5番と聖美陵3番に挟まれている紅河を横目に、突き進む桜南7番須崎。
だが、背後に迫る気配を感じる。
紅河の声が耳に入る。
「来てる!二人!」
…二人?
正面から当たりに来た聖美陵4番をほぼ真横へ、左方向へ交わした桜南7番須崎の肩に、ズン、と圧力が掛かった。
聖美陵10番である。
スピードが落ちつつもボールをキープする桜南7番須崎は、もう一度味方の位置を見た。
…紅河には出せない。左には聖美陵2番か。
ズシャッ!ドシュゥッ…
振り向きざまに右の桜南19番へパスを蹴り上げる桜南7番須崎…だが、そのパスはすぐ背後に迫っていた赤いユニフォームの肩に当たった。
聖美陵9番、藤嶋の肩に。
「ちっ!…」
ルーズボールを追う聖美陵9番藤嶋と桜南7番須崎。
ボールの行方が見えていた桜南7番須崎が、辛くもキープしたが、聖美陵9番藤嶋の当たりは激しい。
左右にボールを細かく揺さぶるが、小さいフェイントには、聖美陵9番は掛からない。
タッチラインへジワジワと追い込まれていく。
桜南7番須崎が身体を大きく左に振り、ボールを右前方にチョンと出した時、そのボールはタッチラインを割ってしまった。
聖美陵のスローインとなる。
桜南7番須崎は、顔の汗や雨水を手で拭いながら、聖美陵9番を睨むように見た。
向こうもこちらをチラリと見る。
…すげぇ気迫だ。
技術的な実力は近いかも知れないが、経験において、聖美陵9番藤嶋の方が桜南7番須崎よりも少し上だった。
様々なケースの中で、どう追い込むかの具体的なビジョン、どう塞がれると厳しいかの広い視野、冷静さ、程よい緊張感、これらは練習だけではなかなか培われず、大会試合出場回数がモノをいう。
また、フィールドには『魔物』がいる。
フィールドに入っただけで、キックオフのホイッスルが鳴り響いただけで、呼吸は苦しくなり、心臓は激しく打ち出し、足は重くなる。
その魔物の克服も、やはり経験しか無い。
桜南7番須崎は、紅河へ視線をやった。
…この9番ほどではないにしても、紅河には常に三人、か。
俺は紅河に、蹴散らせ、と言った。
トップギアを隠しているだろ、とも言った。
今でも、紅河なら出来る、と思っている。
サポートする手立ては…
紅河の化け物じみた本気を発揮させるには…
何をすればいいのか、具体的には思いつかない。
同じストライカーとして出来ることは…
…とにかく、紅河を煽るようなプレイをしなければ…
聖美陵9番藤嶋が投げ入れたスローインは、聖美陵10番が受けた。
ハーフウエイラインまでドリブルで運ばれたボールは、聖美陵11番に繋がり、タッチラインぎりぎりを桜南陣深く抜かれ、センタリングされる。
桜南2番の篠宮によりカットされたボールは、一旦は聖美陵9番藤嶋に拾われるが、桜南4番田所に半ば打たされたようなミドルシュートは、桜南キーパーに抑えられた。
キーパーから出されたボールは桜南3番から桜南7番須崎へと繋がり、再び聖美陵陣へと攻め入る。
…ん?
桜南7番須崎は、聖美陵が陣形を変えてきている事に気付いた。
聖美陵のディフェンスは、紅河に3番、5番、6番を貼り付けている都合上、実質的に守備ポジションを取っていたのは2番と4番の二人だけであった。
13番と8番が攻守を臨機応変に切り替えていたのだが、それに加え、10番と9番藤嶋も引き気味ににポジションを取っている。
ハーフウエイライン辺りに待機しているのは11番のみである。
…もう1点も取らせない、ってか。
聖美陵のこの布陣は、桜南7番須崎のボール運び能力の高さを封じることが目的だった。
聖美陵10番の、須崎に対する当たりが強くなってくる。
フィールド中央辺りで、ボールは紅河へスイッチされた。
そのまま左寄りへ走る桜南7番須崎。
紅河は、右寄り中央をドリブルで進む。
だが、左右から聖美陵5番と6番のショルダーチャージが交互に迫る。
…正面に4番か。
去年からスタメンを経験している聖美陵4番、油断は当然出来ない。
足を止めると後ろから聖美陵3番が絡んで来る。
どうする…
…って、どうするもこうするも無ぇ!
この選手密度ではパスコースも無い。
足を止めてパスを出すタイミングを作ることが出来ないなら、突っ込むしかない。
紅河はマーク三人を引き連れながら、聖美陵4番へ強行突破を計った。
…今左にいる6番は右利き、なら、ヤツから見て右にいる俺の挙動は比較的止めにくい。
紅河は左に軽くフェイントをいれる素振りを見せ、すぐさま右寄りにドリブルコースをややズラし、更に、左へ切り返した。
聖美陵6番と激しく肩がぶつかる。
だが、聖美陵6番も怯まず押し返してくる。
正面にいた聖美陵4番が右足を出してくるのが見える。
ズシャァッ!…ポン…
紅河はボールを膝の高さまで浮かせた。
そして、両足で地面を蹴り、膝を曲げる。
聖美陵4番の右足を跳び越えた瞬間、聖美陵6番のショルダーチャージが、空中の紅河の姿勢を崩した。
だが、紅河には想定内のこと。
紅河は右足を先に地面へ着地させ、曲げている左足で浮いているボールを内側へ巻き込んだ。
聖美陵6番に押された勢いに逆らわず、聖美陵4番の背後へと身体を倒していく。
右足だけついて右へ倒れこんでいる為、このままでは転倒する。
紅河は聖美陵4番の背後で、右足を時計回りに捻り、クルリと身体の向きを変えた。
聖美陵ゴールに背を向けたかたちになる。
同時に、桜南7番須崎が走った右手側を見て、左足を一瞬地面に付けた。
そのまま左足で地面を蹴り、左腿でボールを蹴り上げ…ドサっと左肩から地面に倒れた。
聖美陵5番、6番を振り切りながら4番を抜き、紅河の持ち上げたボールは…桜南7番須崎の頭上へゆるゆると上がっていた。
桜南7番須崎は、聖美陵2番と聖美陵10番に前後を挟まれている。
ジャンプした桜南7番須崎は、聖美陵2番が壁となりゴール方向へは打てず、右方向へヘディングした。
ボールは倒れている紅河を飛び越え、聖美陵ゴールの左隅、桜南側から見た右隅へ向かって流れる。
それを、右サイドから走り込んでいた桜南19番が押し込みにいった。
聖美陵4番と聖美陵キーパーもボールに飛び付く。
桜南19番の右足と聖美陵4番の左足が、同時にボールを蹴った。
インフィールド方向へ弾き飛ぶボール。
そのルーズボールへ、聖美陵8番と桜南7番須崎が突っ込む。
聖美陵8番がヘディングしたが、触れたのが精一杯でカットには至らなかった。
溢れたボールを桜南7番須崎が、聖美陵8番との間に身体を入れるようにキープ、聖美陵ゴールに背を向けている桜南7番須崎の目の前に、聖美陵9番藤嶋が迫っている。
刹那、須崎と藤嶋の目が合う。
『俺は、全日本に通用する天才センターフォワードと言われていたんだ』
桜南7番須崎は、左に身体を向けつつ、右足のかかとでボールを聖美陵8番の股下を通すように軽く蹴った。
そのまま聖美陵8番の横をすり抜け、右足を一歩踏み込むと、左足を大きく後方へ残し、両腕を左右に開いてバランスを取った。
ボシュッ!
水を含んだボールの鈍い音を残し、桜南7番須崎の左足がフルスイングで振り抜かれた。
シュウウゥゥ…
ボールは地面から2メートル位の高さを、水しぶきを上げながら走り、立ち上がっていた紅河の真正面で、鋭く落ちる変化を見せた。
紅河と須崎の目が合う。
須崎には、紅河がニヤッと笑ったように見えた。
紅河が、スッと身体を避ける。
バシュッ!
ボールは、聖美陵ゴールネット、その地面スレスレに刺さっていた。
ピイイイィィイィ!
「ゴール!」
後半25分、遂に城下桜南高校は逆転のゴールをもぎ取った。
3対2。
茫然として紅河を見ている聖美陵4番。
ファウル覚悟でショルダーチャージにいった聖美陵6番は、身体を震わせていた。
聖美陵9番藤嶋は、桜南7番のショットの音で、その蹴り角度の正確さや振り抜くパワーの強さがわかり、無意識に拳を握りしめていた。
バックスタンドで、翔子は、氷だけになっていたいちごソーダのカップを思わず手から落としてしまった。
…見えなかった。くれかわの体で、見えなかった…
なにこれ。
凄く悔しい。
なんだか凄く悔しい…
翔子は、席を立った。
柴山が声を掛ける。
「どうした?」
「んと、トイレ。」
「そうか。場所、わかるかい。」
翔子は黙って頷くと、席を離れた。
実は、それほどトイレに行きたい訳でも無かった。
なんだか、少し歩きたかった。
…くれかわ…
もしかしたら、紅河は、すごい人なのかも知れない。
何が、と聞かれるとわからないが、転ばされても怒っている様には見えなかったし、考えてなのか、偶然なのか、仲間が蹴ったボールを体で隠して、点を取った。
…くれかわ…
下を向いて歩いて行く翔子を、前に座っている女子高生二人が、見ていた。
「ね、ガキ、一人になったよ。」
「やる?」
「金持ってんのかな。」
「いいよ、持ってなくても。教育してやろ。」
女子高生二人は、ブラリと立ち上がった。




