それでも前へ
城下桜南高校対聖美陵学園、後半戦は桜南ボールで開始となる。
センターサークルに立つ桜南7番は、例によって両手を後ろに回し、サインを出す。
そのすぐ横で桜南10番紅河は、両手で前髪をグワッとかき上げて大きく一呼吸すると、ダラリと両手を下ろした。
「紅河、自然芝にこの雨だ。ゴロはかなり球足が鈍る。空中戦を増やすぞ。」
「ほいよ。」
紅河は前半戦の小競り合いを思い返していた。
自分がボールを奪われるパターンはトラップ直後の初動に多かった。
自分は相手にどう見えているか。
パスを受ける直前にドリブルコースやパスを折り返す先を見る…
そして、ボールに触れた瞬間、進行方向とは違う方へ身体の向きや視線を流し、フェイントを一つ入れる。
相手の3番はフェイント方向を抑えに回り、5番はその裏、自分が実際に出ようとする方向を抑えている。
一瞬でも躊躇すると6番が後ろから足を出してくる。
三人とも背後に背負っている場合、トラップ直後ボールが地面に触れた瞬間、見えない死角から足が出て来て弾かれる。
弾かれたスチールボールは別の相手が回り込んで持っていかれる。
と、言うことは…
…まず、進行コースを右、左、前、と三つに分けて考えれば、どこか一本はクリアーな進路が見えるはず。
…三人が背後にいる時は、次のアクションはノートラップパスを基本として考える、か。
秒単位のせめぎ合いの中で、そうそう上手くいくものではないが、自分で攻撃が止まる現状をなんとか打破しなければならない。
ポン…
開始ホイッスル直後、桜南7番が紅河の前にボールを軽く転がし、そのまま前へ走り出した。
紅河は走る7番を見ながら数歩のドリブルをし、向かってくる聖美陵6番と5番をチラリ、チラリと見た後、ボールを右足と左足で前後に挟み込み、右足のかかとを使って真上にポーンと上げた。
そして、真上に上がったボールを残し、紅河自身も前へと走る。
聖美陵6番と5番は、ボールを拾うか紅河を追うか、刹那の戸惑いを見せた。
上がったボールの真下には、後半から参戦の桜南12番が走り込んでいる。
…須崎と紅河の間あたりに落とせ、か。
桜南12番へ聖美陵9番が向かっていたが、桜南の7番須崎と左右の11番、19番が既に走っている動きが陽動となり、紅河の『置き去りパス』への対処が一歩遅れる。
桜南12番は悠々と胸でトラップし、落ち着いた挙動で7番須崎と10番紅河の間辺りに高いパスを上げた。
ボールの落下地点に近い聖美陵3番は、紅河の動きを見つつ、インターセプトへと構える。
そこへ詰め寄る桜南7番須崎と10番紅河。
紅河は聖美陵6番と5番を引き連れている。
…ガッ
先に落下地点へ到達した桜南7番須崎が、聖美陵3番と肩を押し合いながらポジション争いに入る。
空中のボールを見る聖美陵3番は、額に汗が滲むのを感じた。
…桜南7番、小さいくせになんて腰が重いんだ。
だが、飛べば勝てる…そう考えて聖美陵3番が腰を落とした直後、フッと桜南7番の重さが消えた。
ボールは目の前に迫っている。
構わずジャンプし、胸でボールを受ける聖美陵3番。
…よし。
このまま味方の右ウイングへパスを出そうとした瞬間、自分とボールの間に青い『10』という数字が突然現れた。
「な!…」
そして直後、ボールと共にその『10』は左方向へと消えた。
…く、紅河…
聖美陵3番が振り向いた先で、紅河が聖美陵6番と5番二人を相手に、小刻みにボールを操りながら切り込む隙を探していた。
…7番は!?
桜南7番は、聖美陵4番の前を塞ぐようにポジションを取っている。
と、その背後で、聖美陵4番の右手が人差し指を立てた。
…了解だ。
聖美陵4番が自陣ゴールを背にして走り出した。
「む!」
気付いた桜南7番須崎が、4番を追うように戻り始める。
「紅河!トラップだ!前へ出すなよ!」
聖美陵4番はオフサイドラインを持ち上げに掛かっていた。
紅河は前後左右に器用にボールを操りながら、バックパスか、自ら切り込むか、敵味方の選手の位置を必死に追いかけている。
…それくらい見えてるよ、須崎。
ボールをキープする紅河に、聖美陵3番も迫る。
紅河の視線が聖美陵3番に向く。
その一瞬を、聖美陵5番は見逃さなかった。
ポンッ…
ボールは聖美陵5番に弾かれ、そのルーズボールは聖美陵6番の前に転がる。
…させるか!
紅河は振り向きざまに地面を蹴り、聖美陵6番へ向おうとした。
ズシャッ…
紅河の蹴り足は、水分を含んだ自然芝に取られ、ほんの数ミリ、滑った。
届くはずだった足が空を切り、ボールは聖美陵6番に持っていかれる。
…逃がしてたまるか!
それでも追いすがる紅河。
だが、ボールは聖美陵6番から聖美陵13番へパスされた。
…くっ…
またしても…またしても自分が奪われた。
7番須崎との連携は完璧だった。
思惑通り、自分にボールが来た。
それなのに、それなのに…
向こうがオフサイドトラップを仕掛ける前に、須崎に出せば良かったのか。
それとも、単身で切り込む技術が足りないのか。
三人がかりの敵。
それも、ディフェンスに定評のある聖美陵だ。
後方にはパスを出せる味方もいた。
判断ミスか。
三人に囲まれ、どんな判断が正しいと言うのか。
…ちくしょう…
頭でシミュレートした通りには、やはり事は運ばない。
紅河は、目に入った雨水を手で拭いつつ、ハーフウェイラインまで戻った。
落ち着け。
切り替えろ。
味方のディフェンスを信じろ。
またボールはここに来る。
次こそ突破するんだ。
次こそ…
どうやって?
どうやって…
さっきのプレイを思い起こせ。
何がまずかった?
3番にトラップさせたボールをスチール。
ゴール前に運ぼうとドリブルした。
5番と6番に張り付かれている。
3番も来た。
3番を見た瞬間、スチールされた。
敵の一人を見ただけで…
無視したところで同じだ。
それこそ、無視した3番に取られる。
背後には味方のミッドフィルダーもいた。
3番が近付いて来るのが判り切っているなら、スチール直後に追いかけてくると想定し、見ない、か。
いや、背後でも右から回り込まれるか左からかで、対処は変わる。
見ずに交わす、は無理がある。
では、どうすれば…
3番を見ずに…
いや、3番を…
ん、3番?
紅河は、あることに気付いた。
ある、一つの事実に。
…試してみるか。
紅河は顔の雨水をユニフォームの襟の部分でグイッと拭うと、再び両手で前髪をオールバックのように撫で上げて、聖美陵のマーク三人を睨み、腰を落とした。
左手は膝に当て、右手はダラリと下げている。
その紅河の屈んだ背から、汗や雨水が、熱い体温を受けて、ゆらゆらと蒸気を立ち昇らせている。
聖美陵のマーク三人は、鋭い眼光でボールを待つその紅河の姿に、言い知れぬ威圧感を感じた。
自陣深く戻っていた桜南7番須崎が、後ろ向きの小走りで、ハーフウェイラインまで上がって来た。
「来るぜ、紅河。」
「たりめーだ。後半からバックスの要、田所が入ってんだ。入れられました、は許さねぇよ。」
「だな。」
「で、須崎。」
「ん?」
紅河は須崎に何やら耳打ちした。
「んー…ま、いいや、やってみ。しくじるなよ。」
「そういう言い方は点を取ってからしろよ、無得点の主砲君。」
「うるせーよ。」
ドウン!…
桜南4番、センターバック田所のインフィールドカットが飛んできた。
やや左に流れているが、充分に拾えるボールである。
右に走る7番須崎、中央を走る10番紅河。
カットボールは桜南11番が受け、聖美陵8番を交わし、左ラインギリギリをドリブルで運ぶ。
ポジション的には桜南左を潰すのは聖美陵6番の仕事だが、彼は紅河に張り付いている。
こういう場面で、三人マークの偏りは裏目に出る。
…紅河、水を吸ってちと重いぞ。
バシュ!
難なくセンタリングを上げる桜南11番。
その落下地点、ゴール前に紅河、そのやや後方に桜南7番須崎。
紅河の前に聖美陵5番、紅河とゴールの間に聖美陵3番、紅河と肩を並べて聖美陵6番が付く。
ゴール左よりに聖美陵キーパー、その後ろに聖美陵4番、桜南7番須崎の横に聖美陵2番が守る。
紅河と肩を押し合う聖美陵6番は、紅河の腰の軽さを、不審に思った。
…いつも力士みたいに重い紅河が、何だこの軽さは。
腰が軽いということは、ボールを競り合うのではなく、動こうとしているという事だ。
という事は、シュートは7番か…?
聖美陵6番は、チラッと桜南7番を見やる。
一人マークが付いている。
任せるか、と聖美陵6番は考え、紅河との競り合いに集中する。
ボールが落下して来る。
ここはゴール前だ。
中途半端なカットは命取りになる。
競り合っている以上、ノートラップカットは難しい。
確実にキープ、そして即カット、だ。
聖美陵6番は、紅河と肩を合わせたまま、ジャンプし、胸で一度トラップした。
…ん!
紅河は、肩を押し合っていた桜南10番は、軽いどころか、感触が、否、存在が、消えた。
ズシャアァ!
聖美陵6番の目の前に、水しぶきと、一瞬消えた桜南10番が、同時に現れた。
それは、ジャンプした聖美陵6番には、あたかも地面から突き出てきたかのように見えた。
胸に当たったボールが、膝下に落ちるはずのボールが、現れた桜南10番の胸に張り付いたのが見える。
ボールを胸に押し当てたまま、桜南10番と水しぶきは、聖美陵ゴール方向へ流れて行く。
その桜南10番の横顔が、鋭い眼光が軌跡を残して尾を引き、流れて行く。
…な…なに…
聖美陵6番の背筋が、いや、全身が、凍りつく。
紅河が気付いた事実。
先ほどボールを奪われた後に気付いた、事実。
7番須崎に耳打ちしたこと。
それは、ゴール前で敵にトラップさせ、そのボールを奪いゴールへ押し込む、であった。
あの時、聖美陵3番のトラップしたボールは、思惑通りスチール出来た。
紅河自身がトラップするから、三人の誰かに奪われるのだ。
もし、三人マークの誰かがボールをトラップすれば、他の二人は奪いに動かない。
味方のキープしたボールを奪うことはしない。
となれば、その瞬間は、ボールを受けた者以外の二人の動きが止まる。
…それを奪えばいい!
胸でボールを押し込みに行く紅河に、聖美陵キーパーが横っ飛びに両手を伸ばす。
キーパーの手の位置を見た紅河は、片足でブレーキを掛けつつ、胸にあるボールを足元へと、身体を伝わせて落として行く。
更に、キーパーと接触しないよう、ボールだけを聖美陵ゴールのネットへ蹴り込む…動作をした瞬間、紅河の足に何かが引っかかった。
「うっ…」
何かにつまづき、前のめりに倒れこむ紅河。
飛んで来たキーパーより早く、紅河の身体は聖美陵ゴール内へ突っ込んだ。
ドシャ!
ゴール内で紅河が倒れこんだのと、キーパーが横倒れに地面へ落ちたのと、ほぼ同時だった。
ボールは…ゴールには入らず、キーパーの手にキャッチされていた。
すぐ様振り返った紅河は、見た。
地面から30cmくらいの範囲を、空中を伝い流れ落ちる雨を。
あたかも、ガラスの板でも置いてあるかのように、つつつ、と不自然に流れ落ちる、雨の雫を。
…『光の帯』か!
ノーゴール。
桜南10番は、惜しいところで、ボールを残して地面に足を取られ、つまづいた。
そう映った。
誰の目にも、そう映った。
「大丈夫か、紅河!」
駆け寄る桜南7番、須崎。
立ち上がる紅河。
…そうだ。忘れてはいけない敵がもう一人いた。
「大丈夫だ。」
紅河は、今しがた『光の帯』があったであろうゴールラインの辺りを踏みつけて通った。
だが、既に、何の感触も、そこには無かった。
…悔しいが、今回は俺の負けだ。だが、まだだ。今の俺は、それでも前へ出るしか無いからな。
バックスタンド席。
柴山は興奮気味に身を乗り出している。
「危なかったな、聖美陵は。なんとも恐ろしい選手が出てきたもんだ。紅河君、か。」
その横で、翔子は、内心で狼狽えていた。
…転ばす気なんて無かった。
…見えるのに、何で?急に出したから?
翔子は、ゴールに迫った紅河を、三次元クレヤボヤンスで、間近で見ていた。
その真剣な表情、必死な様は、少なからず翔子にも伝わっていた。
翔子にとって、紅河は嫌なヤツだ。
理解出来ない強さで翔子の邪魔をした、不可解な男だ。
柴山が楽しいだろうと思ってやった聖美陵ゴールの守りは、翔子にとって、いつしか紅河との戦いのようになっていた。
だが、殺し合いでは無い。
ボールが入れられてしまうか、防げるか。
紅河を転ばせようとか、怪我をさせようとか、そんな事は少しも考えていなかった。
…くれかわ、痛かったかな。
翔子の心に、後ろめたさのような感情が、生まれ始めていた。
柴山と翔子の席から2ブロックほど離れた席に、橋石と義継がいる。
橋石が、冷めたトーンでボソッと言った。
「やーい、転んでやんの。」
義継は腕を組んでいる。
「やり過ぎだねぇ。」
「やり過ぎ?熱くなり過ぎってことか?」
「怪我させちゃあ、まずいなぁ。」
「あれくらい、サッカーならしょっちゅうあるだろ。」
「度がすぎると、僕も出しちゃうぞ。」
「は?」
義継はそれ以上何も言わず、缶コーヒーのプルトップをカチッと倒し、コクッと一口飲んだ。
東側メインスタンド。
紅河を転ばせた赤紫の『光の帯』を目にした京子は、ガタッと音を立てて席から立ち上がった。
「もう許せない…」
愛彩が、京子の腕を掴み、首を左右に振った。
「今、試合に手出ししたら駄目。」
「だって…」
「紅河さん、気付いてる。」
「え?」
「と思う。」
「でも…」
「信じよ。」
「でも…」
「スポーツ選手の神聖な場所。終わるまで待と。」
「でも…」
「紅河さんの気持ち、考えて。」
「…」
京子は、席に座りなおした。
…許せない。私、絶対に許さない。
京子は、『赤紫』の使い手を探す手立てを考え始めていた。




