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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第一章
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遠き重なり

義継よしつぐ、お前マジで帰れば。」


雨とはいえ、少し蒸し暑いくらいの陽気の中でクシャミをした義継を見て、橋石きょうせきはボソッとつぶやいた。


「そうだねぇ。」


そう答えた義継が、軽く鼻をすすりながら何気なく両手をポケットから出すと、その拍子にコトっと携帯電話が座席に落ちた。


「ん。」


ディスプレイを見ると、メッセージ受信をしたところだった。

兄の治信はるのぶからである。

義継はメッセージを開いた。


ガタッ…


思わず立ち上がりかけて、中腰になる義継。

そして、改めて治信のメッセージを確認すると、ゆっくりと腰掛け直した。


『WKEH0–SS–N1 出なくていい 寝てろ』


…本当かよ。どういうことだ、それ。


「どうした?」

「うん。」


うつむいたまま何も答えない義継に、橋石はまた視線をフィールドへ戻した。

義継は少し視線を上げ、フィールドを見るでもなく見ながら、携帯をポケットへ戻す。


…出来るなら紅河クンには伝えたいが、SSか。


治信のメッセージは、『湖洲香こずかの生存を確認した。健康な状態。守秘度S級。今事務所に居る。出なくていい 寝てろ』といった内容だった。

義継は全身から力が抜けるような感覚を覚えた。

無意識に心も身体も緊張状態にあったことに、改めて気付く。

そしてそれは、試合に臨む紅河への思い入れでは無く、栂井とがいと遭遇した事でも無い。

湖洲香の安否、それだけが心を縛っていたのだと気付いた。

心の中に漂っていた煤だらけの氷の塊が、氷解し、消えていくような感覚。


突然、場内がワッと沸き立つ。

桜南10番の紅河がミドルシュートを放った瞬間だった。

シュートボールは大きく弧を描き、キーパー正面へ飛び、キャッチされる。

紅河を見ると、聖美陵選手三人に囲まれ、思うように蹴れない様子だった。

橋石がスナック菓子を食べながらつぶやく。


「真っ直ぐ蹴れば入ったんじゃねぇの、今の。」


…違う。『赤紫』が ボールのコースを変えた。


シュートボールの軌跡に、空中に浮くレールのようにある赤紫の『光の帯』を見て、義継が内心で橋石に突っ込む。

だが、彼にとってそれはどうでもよく、半ば上の空であった。

義継の心中を占めているのは、湖洲香と初めて会った日の事だった。


怖そうなボサボサ頭のお姉さんと、ストレートの黒髪が綺麗な色白の女。

その色白の女は、赤い『光の帯』を出し、テーブルの玉子を立たせた。

ボサボサ頭が合図すると、その不気味な赤い『光の帯』は、自分の頭の方へジワジワと伸びてきた。

もう駄目だ、自分が『能力者』だということがバレる、と思った。

だが、兄貴が止めてくれた。

その後だ。

不気味な赤い『使い手』が、残酷な過去を背負う『鎖に繋がれた使い手』だと判ったのは。

あの時心に入ってきた悲しみの深さは、例えられるものが無い。

世界でたった一人、最愛の母親を、唯一無二の拠り所を、自らの手で殺してしまった悲しみ。

母親代わりになってもらえるかも知れない、優しい皆月みなづきという保母も殺してしまった自己嫌悪。

未だに生きている自分が許せない、といった感情さえも、その心象の渦の底の方に垣間見えた。

それが、若邑湖洲香わかむらこずかという19歳の女性だった。


言葉では伝わりきらないことが、精神感応では残酷な程ストレートに伝わる。

あたかも疑似体験をしているかの様に、当事者の見たもの、感じたことが、覆い被さってくる。

それでも人間嫌いの義継は、こうも考えた。

若邑湖洲香の『人たらし』な気質に当てられただけだ。

同情が何になる。

自分に置き換えて考えてみろ。

サイコの父親に自殺に追い込まれた母の事で同情されても、その苦しみが誰に解るものか。

同じだ。

若邑湖洲香、他人に寄り掛かるな。

同情を誘うな。

その苦しみは、決して誰にも理解出来ない。

独りで抱えていけ。

だけど。

だけど…


『私のようにならないで。義継さんは自由に生きて』


なんだ。

何なんだ。

悲壮な瞳を残して、無理に作った笑顔で、去ろうとする若邑湖洲香。

この気持ちは、一体何なのだ。

この人を守りたい、という気持ち。

僕が男だからか。

男の本能というやつか。

そんな本能など、母が死んだ時に削がれて無くなった。

だったら、何なのだ。

どうせ同情だろう。

同情?

憐れみ?

憐れ、か?

若邑湖洲香は憐れか?

いや。

前向きに、必死に生きようとしている。

誰にも理解出来ない苦しみを抱えながら。

そんな人が、憐れなものか。

強い人だ。

いや、いや…

強いわけでもない。

緑養の郷で岸人に、跪いて身を捧げた湖洲香。

それは、死の覚悟とは違う。

どうしようもない、どうにもならない、懺悔の念。

死にたいという気持ちと、死にたくないという気持ちが、同じ強さで引っ張り合う。

裂けてしまいそうなほどに。

岸人に手足を貫かれ、打撃で呼吸困難に陥った僕を突き動かしたもの。

それは、弱さ。

若邑湖洲香の弱さ。

考えたって、解るわけがない。

湖洲香を守りたいという気持ち、それは…


「…理屈じゃないんだ。」

「何が。シュートのことか?」


橋石との噛み合っていない会話に、義継は答えなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


治信と湖洲香は、再びリビングに戻り、ソファで向かい合っていた。

浴室には、セメントが洗い流された京子の制服と、湖洲香の下着類が仕分けされ、漬け置きされている。

脱衣所には、京子の生徒手帳、財布、定期入れなどが、薄汚れて皺々になり、並べられていた。

京子の革靴も置かれている。

そこに、ドライヤーの風が当てられていた。


「肝心な部分を、覚えていないようだね。」

「はい…はっきり覚えているのは、行くならここのソファがいいな、って思い描いたことです。」

「夢なのか現実なのかも、定かではない、と。」

「う、ん…」


湖洲香の話を要約すると…白楼θ棟で紅河と京子を救助した後、紅河とテレパシー交信している途中で眠くなり意識を失った。

15年間暮らしていた施設の部屋にいる夢を見た気がするが、細かいことは覚えていない。

微かに、メタリックブラウンの光を見た気がするのだが、それが過去の記憶なのか、その時に目にしたものなのか、よく判らない。

メタリックブラウンの光とは、遠熊とおくまの『光の帯』の色であることは判る。

誰かに『何処に帰りたい?』と問われ、湖洲香が思い描いた場所が、この南條探偵事務所のソファ…ということだった。


「ちなみに、なぜここを?」

「んーと、義継さんが、初めて私の罪をテレパシーで打ち明けた人で、あ、警察ではちゃんとお話ししてるのよ。テレパシーで打ち明けたのが初めてなの。それで、義継さんは泣いてくれて、その時、私、ああ義継さんに心を見せて良かったって、初めて思った人なの。嬉しい場所と言うか、あ、ちょっと違うな、悲しい場所…あ、もっと違うな、んーと…」


治信は言葉を挟まず黙って聴く。


「…とにかく、大好きな義継さんと初めて会った場所だから、ですわ。」

「そうですか。」


真っ直ぐな、綺麗な瞳だな、と治信は思う。


「…それで、自然に起きたら、ここのソファの上だった、ですね?」

「そうなんです。私、身体中セメントだらけで、大変、と思って、靴も履いてたし、動いたらどんどん汚しちゃうなと思って、どうしましょう、と思って、セメントの付いた小林さんの制服を脱いで、あ、洗濯機あるかしら、と思って、脱衣所に、『光の帯』で橋を渡して歩いて、お兄さんいらっしゃらないようでしたので、全部脱いじゃえ、と思って、脱いだもの全部洗濯機に入れたの。」

「靴も?」

「はい。」

「普通、靴と服は一緒に洗わないですよね。」

「そうなのですね…私、靴って洗ったことなくて、みんなセメント付いてるし、一緒でいいや、と思ったの。」

「普通、思わないですよね。」

「うう…」

「ポケットの物、これも一緒に洗おうと?」

「ああ!それは!それは出し忘れですぅ…小林さんの物をあんなにしてしまって…本当にどうしましょう…」


湖洲香は涙目だが、治信は心を鬼にした。


「そういう所は、少し気を使いましょう。水に濡らしてはいけない物はどれか、冷静に考えてみましょうね。」

「はい…」

「それと、なるべく、色物と下着は別けて洗濯すること。下着と靴を一緒にするなど、言語道断です。」

「はい…」

「制服などの上着類、ケアラベル、見方は解りましたね?」

「はい…」

「大きなゴミや小石などが洗濯機に混ざると壊れる。これも覚えましたね。」

「はい…ううう…」

「宜しい。これで湖洲香さんは、一歩お嫁さんに近付きました。」

「お、およ、およめさんっ!」


湖洲香が驚いた顔を見せる。


「はい。旦那さんの衣類を間違えず洗えるよう、精進して下さい。」

「はいっ!一生懸命!お兄様!」

「ええと、私は湖洲香さんの兄ではありませんので、治信で結構です。」

「え、あれ…」


治信は可笑しくて笑ってしまった。

自分の意地の悪い言葉の誘導もあるが、どうやらその前に、湖洲香の妄想は義継との結婚まで発展している様子がその表情から手に取るように判るからだ。

まるで初恋をした児童のようだ。


「ソファに付いたセメントは、濡らしたタオルで何往復も?」

「いいえ、洗濯機にお湯を入れてスイッチを入れた後、キッチンのタオルをお借りして、お湯をこれくらい持って、お湯でタオルを洗いながら。」

「え、お湯を持ったまま?ソファの周りが濡れていませんが…」

「え?…あ、『光の帯』を使えば、器を使わずに何リットルでもお湯を持てるのよ。周りに『光の帯』を張っておけば跳ねても濡れませんわ。」

「そうかそうか、便利ですね…あ、ん?もしかして…」

「え?」

「その、洗濯機を回した後に、と言うことは、あの、裸でソファ掃除を?」

「だって、誰も見ていないし…」


治信は口を結んで、湖洲香を睨んで見せた。


「それはいけません。いけませんよ。」

「だって、着るもの無いんですもの…」


治信は天井の一角と、デスクの脇を指差した。


「はい、あそこには何がありますか。」

「ええと…あら、カメラでしょうか。」

「そうです。録画出来る監視カメラです。」

「あらやだ、私、裸を撮られてしまいましたか?」

「今日は作動させていません。ですが、私が言いたいことはですね…」

「はい。」

「一つ、他人の家でむやみに裸にならないこと。二つ、見られたり記録されたりしないか、環境や状況をよく確かめること。」

「はい、ごめんなさい…」

「大切な湖洲香さんのお身体を他人に見られてしまったら、悲しむのは旦那さんです。」

「そうですね、判ります…」

「はい、これでまた一歩お嫁さんに近付きましたね。」

「はい、お兄様!」


全く、この子の旦那になる男は気苦労が絶えないだろうな、と苦笑する治信。


「電気が真っ暗でしたが、どうして点けなかったのです?」

「あ、電気もお金が掛かるでしょう。なるべく使わないように、と。」

「暗いと危ないじゃないですか。」

「え?」

「え?」

「あ、ああ、三次元クレヤボヤンスは暗闇でも視えるのですわ。」

「ああ、そうか、なるほど。」

「これは、およめさんポイントはありますか?」

「そうですね…旦那さんが帰って来た時、真っ暗だと驚きますね。帰って来る人のことを考えて、電気を使いましょう。」

「はい!お兄様!」

「それよりも…」

「はい。」

「ぼーっとしてドアなどにぶつけないよう、心配事がある時でも、注意して歩きましょう。」


湖洲香は額に手を当てた。


「ううう、だって、お兄さん、急に言うんですもの。」

「義継が君を大好きだ、と?」

「はい…」

「あいつが湖洲香さんを好きなことは確かです。ただ、それが恋愛感情かどうかは、私には判らない。その辺は、義継本人とゆっくり話してみて下さい。ただ…」

「はい…」

「あいつも心の傷を抱えています。刺々しいところもある弟です。人が人を理解するには長い時間が必要だということも、考えて欲しいかな、と思います。」

「そっか…」


湖洲香は下を向き、少し考えると、言った。


「私も、本当は、恋愛ってよく判らないの。どういう好きが、恋愛なのかな…」

「ははは。恥ずかしながら、私もよく判らない。だけど、全てを許せると思った相手が、きっと良いパートナーなんだろうなと思うよ。」

「全てを許せる…」

「あ、そうだ、ちょっとドライヤー止めてきます。そろそろいいでしょう。」

「あ、私が。」


そう言うと湖洲香が先に立ち、そそくさと脱衣所の方へ走って行った。


「きゃあああああ !大変!」


…今度はなんだ。


治信も脱衣所へ行く。

湖洲香は床にうずくまり、何かを両手で持って見つめている。


「どうしました?」

「小林さんの…小林さんの…ああ、どうしよう、もう謝っても駄目だわ…ひどいことをしてしまいました…」


治信は湖洲香が持っているものを覗き込んだ。

それは、波打って色落ちしている画像だった。

かろうじて、紅河の写真であることが判る。


「画像など、データをプリントアウトすればいくらでも…」


湖洲香がキッと治信を見上げた。

泣いている。


「そういう問題ではないのよ。もしかしたら紅河さんから貰ったものだったら、これ、この紙に意味があるんですわ。写真なら何でも良いとかじゃないの…ああ、私、一体どうしたら…もう死にたい…」


治信は頭をポリポリかいた。

そして、リビングのデスクに戻り、京子の持っている紅河の画像と同じものをプリントアウトした。


「湖洲香さん。」

「私、私、ごめんなさい小林さん…」

「湖洲香さん。」

「謝まろう…一生懸命謝って、小林さんが死ねって言ったら、私、死にますわ…」

「湖洲香さん。」

「お兄さん、いろいろお世話になりました…」

「それ、私が京子さんに差し上げた画像です。はい、印刷し直したので、これに差し替えといて。」

「あら…」

「なぜか、それ、房生ふさおさん達には内緒とのことなので、バラさないように。この守秘義務を果たせない場合、湖洲香さんは一生お嫁さんになれないでしょう。」


湖洲香はゆっくりと立ち上がり、涙を拭いて、拳を握りしめた。


「命に代えても守り通しますわ、この秘密!」

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