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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第一章
116/292

治信と天然娘

…あ、いや、待て。


治信はるのぶは、湖洲香こずかの無事を赤羽根に伝えようとして入力した白楼はくろうの秘匿回線番号を見ながら、発信ボタンを押さず指を止めた。

盗聴や記録される可能性のあるこの回線に、湖洲香の所在情報を流していいものか。

浮かれていた。

幽霊が現れたとの誤解に気が動転していた。

冷静さを欠いていた。

赤羽根には一刻も早く伝え、安心させたい。

だが、よく考えろ。

この回線での会話は誰の耳に入るのか。

佐海さかい局長ならまだしも、査問委員会に掛けられるという捜査課長やその上層部の腹の中が、まだ読めていないではないか。

いや、佐海局長すらも、警視監という階級に縛られ、知り得た情報に関する義務と責任をどの様なかたちで果たす事になるのか判らない。

湖洲香の罪状は外された、との佐海の言葉は信じるに足るだろう。

しかしながら、今現在も湖洲香は県警の特殊査定班内施設で生活し、外出は全て申請から承認を経て行われている。

そう、今も軟禁されている様なものだ。

県警も含め全ての警察を管理する警察庁での湖洲香の扱いの実態、それも把握し切れていない。

治信は、入力した番号を一旦消去し、携帯をポケットに戻した。


「あの、お兄さん…」


脱衣所から湖洲香の声がした。


「はい。」

「もう少し幅の広いバスタオル、無いでしょうか。」

「あ、ああ、それでしたら、バスローブを取ってきます。待って下さい。」

「え、バスローブって、あのガウンみたいな着るバスタオル?」

「はい。私ので、嫌でなければ。」

「まあ!憧れてました、バスローブ!」

「ははは…」


生死が問われる様な状況に晒されていたというのに、気丈というか、天然というか、憎めない子だな、と治信は思った。

赤羽根に伝える手段は他に無いか。

携帯電話は圏外になる白楼。

教育生や刑事局の使い手もいる白楼に、テレパシーは論外。


…今は無理、か。


治信は、赤羽根の安心した顔を早く見たい、と切に思った。


「ドア、少し開けますよ。」

「はい。」


治信は脱衣所のドアを数センチ開け、白いバスローブを持った手だけを入れた。


「まあ素敵!」


湖洲香がバスローブを受け取った感触を感じ、治信は手を引き抜いて再びドアを閉めた。

眠くはないだろうか。

どこか怪我はしていないだろうか。

左肩の脱臼治療の跡は大丈夫なのか。

聞きたい事は沢山あるが、今は湖洲香の安静を優先してあげたい。

とりあえず一つだけ、確認しておこう。


「湖洲香さん。」

「帯、長いのですね、横で結べばいいのかしら。」

「横でも前でも、お好きに。」

「襟がフカフカで豪華ですわ。」

「あの、湖洲香さん。」


カチャ、とドアが開き、バスローブ姿の湖洲香が出てきた。

男性用バスローブは大きく、裾はかろうじて足首が見えている程の長さだ。

両手は手首が完全に隠れている。

その愛らしい姿に、なぜか治信は恥ずかしくなり、一瞬目を背けてしまった。


「はい、何でしょうか。」

「ああ、ええ、えっと、リビングのソファが濡れているのですが、何か…」

「あああ!そうでしたわ!」


慌ててリビングに行こうとする湖洲香を、両手の平を彼女に向けて制する仕草をする治信。


「ああ、いえ、あれ、ただの水ですよね?」

「そうです。セメントだらけになってしまって、あ、キッチンに掛かっていたタオルをお借りして、セメントを、ああ、そう、タオルも汚してしまいまして、お湯で拭き取って、ジャリジャリしたのを何度か拭き取って、まだ汚れてました?」

「いえ、キレイに拭き取られていました。」

「よかった。乾拭きしたかったのですが、タオルがどこにあるか判らなくて、あ、でも一つはセメントでドロドロにしてしまって、ごめんなさい…」

「いいえ、いいえ、いいんです。あれが水だと判れば、ええ、いいんですよ。」

「乾いたタオルを貸して頂ければ、ちゃんと最後まで拭きますわ。」

「大丈夫です。それより、もし眠いのであれば私のベッドへどうぞ。今シーツを変えますので。」

「そんな、お兄さん、洗濯物が終わったらすぐ出て行きますので!」

「お怪我とかはありませんか?」

「えっと…」


湖洲香は裾を少し捲り上げた。


「ここの、膝の下、ちょっと擦りむいてました。でも、もう血は止まってます。」

「ふむ。消毒液と絆創膏を持ってきます。」

「ああ、お構いなく…」

「気分が悪くなければ、立ち話もなんですから、リビングで話しましょう。」

「気分は爽快ですわ。」

「それは良かった。」


治信はニコッと笑うと、寝室にある救急箱から消毒液と絆創膏を取ってくると、湖洲香をリビングのソファに座らせた。


…ん。


膝をきちんと併せ、背筋を伸ばして浅く座る湖洲香だったが、治信は、また目を背けなければならなかった。

男物のバスローブで女性がソファに座ると、襟が大きいため胸元が開いてしまうのである。


「湖洲香さん…」

「はい。」


純朴な目で真っ直ぐこちらを見上げている湖洲香に、治信は横を向きながら、両手を軽く握ってクイックイッと交差し、胸元を閉めて、という意味の仕草をした。

だが、湖洲香には伝わっていないようだ。


「え?」


仕方なく治信は、横を向いたまま湖洲香に近寄り、彼女のバスローブの襟を首元まで寄せ合わせた。


「あら、恥ずかしい、ごめんなさい…」

「いえ…」


猜疑心や警戒心を全く見せない湖洲香に、赤羽根が妹のように可愛がっている気持ちが、少し解ったような気がした。

義継よしつぐが、年上の湖洲香を『可愛い』と形容するのも、頷けた。


「ちょっと失礼するよ。この辺りでしたか。」


治信は、湖洲香の脛の傷の辺りをバスローブを押し付けるように軽く握り、水分を取ると、裾を少し捲り、消毒液を吹いた。


「ありがとうございます。」


ニコッと笑う湖洲香に、絆創膏を渡す。


「塗り薬とかは要らないと思います。これ、張っといて下さい。」

「優しいのですね。」

「いえ、実は結構悪い男です、私は。」

「悪い人は、自分のこと悪いなんて言わないです。」

「ああそうか。とても良い人です、私。」

「ふふふ。」


屈託無く笑う湖洲香を見ながら、飲み物を用意しようと考えた治信は、気付いた。

そう言えば、自分は湖洲香の好みを良く知らない。

一度食事をしたり、面談の経験のある相手の場合、治信は飲み物の好みを必ず記憶するようにしている。

だが、湖洲香については記憶が無い。


…そうか、直接会ったのは数えるほどしか無いのか。


初めて湖洲香と会ったのは、この事務所だ。義継への面会の時。

二度目は緑養の郷で、皆月岸人みなづききしととの戦闘で気を失った義継を抱き抱えてうずくまる彼女だった。

それはそうか。湖洲香は自由に外出できない身なのだ。


「アイスコーヒー、飲めますか?」

「はい、好きです。」

「良かった。」


治信はガラスのコップに氷とアイスコーヒーを注ぎ、乾いたタオルを二本持って来た。

ガムシロップと生クリームと共に、アイスコーヒーのグラスを二つテーブルに置き、タオル二本を湖洲香へ手渡した。


「気になるようでしたら、ソファ、それで拭いて下さい。汗を拭ってもいいですよ。」

「ありがとうございます。」


治信は、自分がソファを拭いたらまた気を揉んでしまう子だろう、と考えての事だった。

エアコンは除湿に合わせ、あまり部屋が冷えないようにした。


…湖洲香さんがリラックスする話題は、と…


治信が話の切り出し方を考えていると、アイスコーヒーを一口飲んだ湖洲香が、パッと表情を明るくした。


「おいしい。思い出すなー。昨日ね…」

「うん。」

「黄色い小さい車に乗った学生さんに、ハンバーガーをご馳走になったの。」

「ほお。」

「博士のお知り合いの病院から、どうやって白楼に行こうか困って、ヒッチハイクしたんですよ。」

「ほおほお。」

「最初はなかなか誰も止まってくれなくて…小糸真梨こいとまりさんていう、活発そうな学生さん。」

「そうですか。」

「それでね、私、お腹が鳴っちゃって…」

「ははは。」

「ビーフベジタブルと、ポテトと、ジェラート、それにアイスコーヒー。」

「おお、ビーフベジタブルは美味いですよね…え、どうしました?」


なぜか湖洲香の瞳が潤み始めている。


「ハンバーガー初めてで、とっても美味しくて、楽しくて、一人で外に出たの初めてで、あんなに親切な方に会えて…」


…15年間の軟禁、今も一人では外出が許されない。これはどうにもならない事なのか。


改めて使い手が置かれる過酷な環境を思い知らされる。

義継は、まだ幸せな方なのかも知れない。


「次は何に挑戦しますか、湖洲香さん。」

「え…」

「ハンバーガーの次です。義継を助けて頂いたお礼は、嫌という程させてもらいますよ。ピザの美味い店があるのですが、どう?」

「え、え、私?」

「他に誰かいます?」


治信はキョロキョロして見せた。


「えええ、あの、お食事、誘って頂けるのですか?」

「何なら毎週、週末は私が知っている美味しい店を一緒に廻りますか。」

「行きたいですっ!」


この素直さ。

変に尻込みせず、外出手続きの煩わしさに囚われず、まず自分の気持ちを表す素直さ。

18歳になるまで煩わしい人間関係から隔離された、良くも悪くも擦れていないその性格は、治信にとって少し眩しいほどだった。


「よし、約束した。」

「赤羽根博士も一緒です。私、一人で外出できないの。」

「おお、美女お二人と。私は幸運だな。」

「あの、それと、あの、よ、義継さんも、ご一緒は駄目ですか?」

「あいつかぁ…」

「あの、ダメ、でしょうか…」

「もちろんいいのですが、義継は相当な引っ込み思案でね、引きこもるとテコでも動かないんだ。それに、湖洲香さんとなると…」

「私じゃ、駄目なのでしょうか…」

「いや、そうじゃないんです。あいつ、湖洲香さんの事が大好きだから、恥ずかしがって引きこもりそうだなと思ってね。」

「え!?」


湖洲香が身を乗り出した。

またバスローブの胸がはだける。

治信が目を閉じて、胸元を閉じて、の仕草をした。

湖洲香は襟を寄せ合わせながら、黒い瞳をひときわ大きく見開く。


「私を、好き?義継さんが?」

「はい。間違いありません。」


湖洲香は両手で襟を寄せたまま、遠くを見るような目になった。

口は小さく半開きである。

そのまましばらく固まっていた湖洲香は、突然両手でアイスコーヒーのグラスを持つと、グイッと飲み、トンッとテーブルに置いた。

そして治信の顔を見ると、言った。


「お手洗い、いいですか。」

「ああ、どうぞ、バスルームの隣の…」

「知ってます。」


湖洲香はスッと立ち上がると、リビングのドアに向かっていき、そのまま閉まっていたドアにゴンッと額をぶつけた。


「だ、大丈夫ですか…」


湖洲香はドアに向かったまま頷くと、ドアを開けて出て行った。

そして数秒後、ゴンッとまた鈍い音が、廊下から聞こえた。

治信は苦笑いをした。


…さて、この密室にどうやって、なぜ入ってきたのか聴きたいが、切り出すタイミングが掴めんな。


窓の外を見ると、風が出てきたのか、雨が横殴りにガラス窓を叩いている。


…義継はスタジアムに行ったのか?


大方、面倒になって自分のアパートで寝ているのではないか、と治信は思った。


紅河くれかわ君は頑張っているだろうか。


紅河が高校サッカー界ではかなり有名な選手だということは、彼が二年生の昨年、橋石きょうせきのツテで相談に来た直後に調べて知ったことだった。

昨日の今日で、気持ちが不安定なのではないかと、ふと思い、出来るなら彼にも湖洲香の無事を知らせてやりたいな、と思う。

橋石はスタジアムに行っているだろう。

電話してみるか…そう考えた時だった。


「ああああ!大変!」


湖洲香が叫んでいる。


…なんだ、なんだ。


治信がリビングを出てみると、脱衣所のドアが半開きになっている。

覗いてみると、洗濯機を前にして、湖洲香が両手で口を塞いでいた。


「どうしました?」

「小林さんの制服が…私の下着も…ああ、どうしましょう…」


治信が洗濯機の中を覗いてみると…灰色のドロッとした液体に浸かる城下桜南高校の制服がそこにあった。


「もしかして、セメントだらけのまま、突っ込みました?」

「はい…」


治信はため息をついた。

おそらく、洗濯機は素骨材などで排水系が詰まり、下手をしたら二度と使えない状態になっているだろう。

それと、制服のブレザーは、丸洗い出来る生地素材なのだろうか。


「ちょっと見せてもらいますね。」


治信は京子のブレザーを灰色の液体から引き上げると、ケアラベルを探した。


「あった。ええと、水洗いはOKですが、水温30℃が上限ですね。弱流水モードなら大丈夫ですよ。」

「うう…一番凄そうなスイッチを入れていました…よく落ちると思って…」

「この『最強』を?」

「はい…」

「結構湯気が出てますが、水温は?」

「お湯の方が落ちると思って、シャワーのを…」

「シャワーだと、40℃前後かな。」

「そのくらいでしょうか…」

「んー…」

「どうしましょう…小林さんの大切な制服を…」

「どうしてまた、京子さんの制服がここに?」

「えっと、蓮田はすだ班長を騙そうと思って、服を取り替えて…」

「ほほう、策士ですね、湖洲香さん。」

「もと通りにキレイになるかしら…」

「もう一度軽く手洗いして、クリーニングに出した方が良さそうですね。」

「はい…」

「紺色か…40℃で最強モードってのが心配ですね。色落ちするかも知れない。」

「ああ…どうしましょう…」

「あ、そう言えば…」

「はい…」

「義継が持ってますよ。確か、城下桜南高校の女子制服。」

「あら、どうして?」

「あいつ、変態なので。」

「変態さんですか!?」

「はい。間違いありません。」

「そ、それでも私、平気です!」

「何がです?」


その頃、小雨が斜めに吹き込むスタジアムのバックスタンドで、義継が大きなクシャミをしていた。


「ぶぇっくしっ!…」

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