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桜は城下いとあはれ  作者: 木漏陽
第一章
115/292

南條探偵事務所の怪

白楼はくろうα棟の病室。

治信はるのぶは散々考えた挙句、ある決心をした。

遠熊とおくま所長定義における霊視を行った後の雅弓まゆみの脳波状態は、明らかに平常のそれとは違う。

彼女が起きても、湖洲香こずかの消息追跡の件で『霊視という能力発動状態』について根掘り葉掘り聞き出すのは、やはり酷だ、いや、危険だ、と考える。

雅弓と風見かざみ巡査は、θ棟には既に湖洲香は居ないという事を特定してくれたのだ。

ならば、まず…


伊織いおりさん、風見さん。」

「はい?」

「はい。」

「私はここを出ます。湖洲香さんが飛ばされた可能性のある場所を、しらみつぶしに当たってみようと思います。」


風見が言う。


「それならば、刑事局の捜査課の者を、佐海さかい局長を通して動かしてもらえば、人数もいますし早いのではないでしょうか。」

「いえ、おそらく、私の方が早いでしょう。佐海局長はθ棟壊滅と死傷者の後始末で、警察庁長官を始め、次長や各局長の査問を受ける事になるはずです。そうなれば、捜査指示どころではないでしょう。」

「では、私のクレヤボヤンスで…」

「いえ、風見さん、あなたもまだ顔色が優れない。『光の帯』を酷使することが使い手にとってどれ程の精神負担なのか、私には判りませんが、能力の連続的な乱用のリスクは抑えられない眠気だけではないはずです。」

「私は自然に起きましたし、大丈夫だと思います。」


治信は穏やかに笑みを浮かべ、言う。


「さすが風見さん、佐海局長がおっしゃった通り、正義感の強い方ですね。それでは、刑事局の捜査課から正式に風見さんへ捜索指示が降りた時、宜しくお願いします。私は、私立探偵として独自捜査のかたちで動きますので。」

「判りました。」

「それから、伊織さん。」

「はい?」

「湖洲香さんが消えたことについて、私の推測を話しておきますと、遠熊所長か古見原こみはら所長により身体をどこかへ転送された、と考えています。」


赤羽根はやや上目遣いをし、黙って聴いている。


野神のがみ巡査から伝えられた古見原所長の状況から、古見原所長はオーブリカバリーで手一杯の中で息を引き取ったとすると、消去法的に、遠熊所長の可能性が高い。遠熊所長は肉体が死ぬ前に自ら『光の帯』を離脱させ、湖洲香さんを転送したのではないでしょうか。」

「さっき言ってた、四つの条件を満たす、ということね。」

「そうです。」

「それについて、マユミに聴こうとしていたことは何?」

「一つは、幽体離脱後も、肉体と繋がっている時と同じように不自由なく『光の帯』が操れるのか、もう一つは、使い手だった遥子ようこさんの霊は『光の帯』として機能する霊体だったのか、です。」

「なるほど。」

「ですが、雅弓ちゃんが起きても、これは聴かないであげて下さい。雅弓ちゃんは、まずは心身ともに健康な状態に戻してあげるのが先決でしょう。あの子のことだから、答えられない場合、また第三階層へ行ってみると言い出しかねない。」

「そうね、わかった。」


治信はツカツカと赤羽根に歩み寄り、おもむろに彼女の手を取った。

ビクッとする赤羽根。


「え、な、なに?」


治信は赤羽根の指先を、角度を変えながら見ている。


「うん、大分良いですね。はい、続けて。」


そう言うと、返した赤羽根の手の平に、ハンドクリームを乗せた。

それは、以前、喫茶店で手渡された物と同じものだった。


「あ、ああ、ども…」


…いつの間にか、『伊織さん』て呼ばれるの、慣れてしまったな。


赤羽根は右手を握ったり開いたりした。

皮膚が突っ張る感じが無くなり、肌に潤いが戻ってきている。


「博士、いいなぁ…」


風見が意味深にニヤニヤしながら小声で言った。

その風見の目の前に、治信がスッと手を伸ばした。

その手には栄養ドリンクが握られている。


「はい、風見さんはこれ。250円のですが。」

「あら、ど、どうも。」

「では、私は行きます。雅弓ちゃんに宜しく。佐海局長には、勝手にいなくなったとか適当に言っておいて下さい。」


…だよね。女には皆に気配りしてるのよね。


出て行く治信の後ろ姿を見ながら、赤羽根は、変な勘違いや期待はやめよう、と自分に言い聞かせた。

ボサボサの髪にそばかすを隠しもしないやつれた顔、猫背。

風見のように胸も無いし、女らしさなどどこにも無い自分。

好意を持たれる訳がない。


「10倍かぁ。」


風見が赤羽根の持つハンドクリームを見ながら言った。

赤羽根が目を丸くする。


「え、何が?」

「それ、2500円。これ、250円。」

「え、このクリーム、そんなにするの?」

「医学博士なのに、市販の薬用クリームもご存知無いの?」


風見が笑い、こう続けた。


「普通高くても50mlなら1800円くらいね。それはネット通販にしか無くて、すぐ売り切れちゃうクリームよ。」

「そうなの?」


赤羽根は、今初めて含有成分を見た。

数多くの植物性油が使われており、鉱物油はもちろん、合成保存料も一切使われていない。


「ふぅん、希少な植物油も使われているのね。」

「いいなぁ。愛されているのね。」

「な、ちが、違うって言ったでしょ。」

「あれ、南條さんの片想い?」

「え、や、だから、想われてないって。」

「おや?」

「な、なんですか。」

「もしかして、お二人は、そういう話をしていないの?」

「ど、どど、どういう?」

「お付き合いとか、結婚とか。」

「け、か、や、な、なな、無いないない、無い。」

「あらそう。」

「うん、うん。」

「へぇ。」

「へぇって、何ですか。」

「私ね、テレパス。」

「知ってます。」

「ふふふ。」


…なんだその笑い…


顔を真っ赤にする赤羽根。


「あ、ちょ、まさか、人の思考を勝手に…」

「いいえ、読んだりしませんけど。」

「じゃあ何ですか、その笑い。」

「別に。」


…心なんか読まなくても、お二人が意識し合ってるのバレバレなんだけどな。


風見はキュッと栄養ドリンクの蓋を開けると、一口飲んで、言った。


「ご存知とは思うけど、私は21歳から10年間ここで生活していました。もう30歳過ぎちゃった。この後も、恋愛なんか出来るかどうかわからない。また軟禁されるかも知れない。だから羨ましいんです、赤羽根博士が。いいなぁ、って、そういう意味です。」

「…」


赤羽根は言葉が出なかった。

自分と風見では置かれている環境が全く違う、という事に気付かなかった。

ただただ、からかわれていると思ってしまった。


「朝食、まだですよね?」


風見の言葉に、赤羽根は無言で頷いた。


「では、雅弓から離れられないでしょうから、ここへ運ばせますね。一緒に取りましょう。少し遅い朝食ですが。」

「はい、どうも…」


病室から出て行った風見の後ろ姿を見ながら、赤羽根は思った。

ラボ教育の長い使い手のメンタルケアを刑事局へ起案しよう。

異性への興味が無い者など、いない。

国家公務員として辞令を受けた風見達は、今は自宅を持ち普通の生活をしている。

再び軟禁される事の無いよう、精神の健康面からの環境提言を用意しておこう…そう思った。


治信は、総合管理センターを通してβ棟B2から白楼を出ると、タクシーを拾い、県警に向かった。

自分のバイクを引き取る為である。

交通違反の指摘も無く、無事にバイクを受け取ると、自宅兼探偵事務所へ戻った。


崎真さきまさんの行動予定、聞き出せなかったな。


携帯も繋がらない。

大方、皆月岸人みなづききしとの捜索関係だろうと思われるが、治信には崎真に聴きたい情報があった。

湖洲香が15年間軟禁されていたという施設についてである。


…施設の名称と所在地は手に入った。戻ったら情報屋へ打診するか。


小雨の中、治信のバイクは国道を下って行った。


事務所に着き、ドアの鍵を開けると、何か違和感のようなものを感じた。

白楼から民間総合病院へ、再び白楼、と、二日ぶりの帰宅であるせいか。

ドアの鍵はしっかりと掛かっていた。

ドアが開けられた形跡も、もちろん無い。

室内の電気も全て消灯されている。

玄関口に見慣れない靴なども、無い。

気のせいだろうか。

事務室兼応接室のリビングに入る。

治信は、ハンカチ越しに、灯りのスイッチを入れた。

誰かの指紋が残っていないか、後で調べる為だ。


「ん!」


ソファが濡れている。

幅1500mmの革製ソファ、その座る部分全体が、ぱっと見、無色透明の液体で濡れている。

真上の天井を見るが、天井は濡れていない。

上階からの水漏れでは無さそうだ。

治信は辺りを見回した。

誰もいない。

いないのだが…何かいるような気配がしてならない。


…まさかとは思うが…


白楼には不幽霊が多い、という話を聴いた。

地縛霊と直接対峙した雅弓や風見、その間近に自分もいた。


…良からぬ霊を連れて来てしまった、ということは…


カーテンというカーテンを開け、窓という窓の鍵を確認する。

全て、内側からロックされている。

出た時のままだ。

恐る恐る寝室を除く。

誰もいない。

鍵も内側から掛かっている。

普通の留守宅、いわゆる密室だ。

無数の書籍が詰め込まれているもう一つの部屋も見る。

異常なし。


…あのソファの液体は何だ。


もう一度リビングに戻り、ソファを見る。

濡れている幅はほとんど変わっておらず、揮発性の液体ではないと解る。

だが、毒性があるかどうかは、まだわからない。

立ち位置からは、無臭だ。


ピピピピ…


突然、浴室の方からアラーム音が鳴り、治信は思わずビクッとしてしまった。


…あれは、洗濯機のアラーム音だが…


タイマー設定などして出掛けた覚えは無い。

しかも、二日後に設定など、する訳がない。


…誰かが忍び込んでいるのか。


この完全なる密室に、か。

リビングの床を、濡れたソファを中心に見てみる。

土足の足跡や、濡れた足跡などは見当たら無い。

だが、水滴が所々垂れており、それは浴室に繋がっているようだ。

もしも、だ。

もしも、仮に、こういう状況を作るとしたら、どういう手段があるか?

浴室から、バケツのような物に液体を入れ、床の水滴はバケツから垂れて、ソファに液体を掛けた。


…いや、それなら、なぜソファの下は濡れていないのか。


いや、いや、いや。

そもそも、浴室には窓がない。

浴室にいきなり潜入、が出来ない。


…やはり心霊現象なのか。


治信は身震いした。

このマンションに6年住んでいるが、こんな状況は初めてだ。

治信は意を決して、浴室の方へ、足音を忍ばせながら、進んだ。

脱衣所のドアを、ハンカチを持ちながら、ゆっくりと開ける。

中は、電気の灯りすらついておらず、真っ暗だ。

脱衣所にある洗濯機のダイオードだけが、不気味に赤く光っている。

脱衣所と浴室はガラス戸で仕切られており、浴室の電灯が点いていれば、脱衣所もほんのり明るい。

だが、真っ暗だ。


…む。


開けたドアから顔を覗き込ませた時、気付いた。

真っ暗な浴室の中で、シャーッというシャワーの栓が開かれている音がする。

誰か、いや、何かいるのか。

なぜ電気を点けない。

いや、一体どこから入った。

治信は、脱衣所には入らず、ドアから手を伸ばし、脱衣所の明かりを点けた。

浴室の中は暗く、デザイン硝子のドア越しでは中の様子が判らない。

ただ、シャワーの音だけが聞こえる。

その時である。

治信は後ろからグイッと引っ張られ、脱衣所のドアが独りでにバタンッと閉まった。

よろけながら後ろを振り向く治信。

だが、誰もいない。


「うわ、うわあああああ!」


治信は思わず叫んでしまった。

霊だ。

心霊現象だ。

悪い霊を連れて来てしまったのだ。

治信は、後退りながら玄関口に向かい、とにかく一旦出ようとし、靴を履こうとした。

だが、足が震え、思うように靴が入らない。


…霊の、霊の撃退方法なんか、し、知らん…


更に、真っ暗だった浴室の方から、声がした。


「待って、待って…」


ドンッ!


思わず玄関のドアに背中をぶつけた治信の、その心臓は止まらんばかりである。


「ま、待って、お兄さん、待って下さい、治信さん…」


…え!


聞き覚えのある、女性の声だった。


「あ、でも、まだそこに居て下さい。あと、あと、着るものが無くて、バスタオルもお借りしますっ!ごめんなさいっ!」


…え、え!


その声、その喋り方…治信は、幽霊の正体がやっと判った。


「こ、湖洲香さん…湖洲香さんか!」


カチャ…


脱衣所のドアが開き、バスタオルを体に巻いた湖洲香が顔を出した。

長い黒髪は濡れ、ホカホカと湯気が立っている。

頬は紅潮している。


「ごめんなさい。驚かせてしまって…」


生きていた。

湖洲香が生きていた。

そして、目の前にいる。

恐怖に震えていた治信の心は、一気に安堵へと変わった。

湖洲香が廊下へ出て来る。


「あの、ご説明が難しいのですが、どうして私がここにいるかと言いますと…」


治信は目を伏せながら右手をかざした。


「あの、はい、いえ、話は後で…見えてます、その、胸が…」

「あらま!」


湖洲香は一旦脱衣所へ引っ込んだ。

治信はヘナヘナと、玄関に座り込む。


伝えなければ。

伊織さんに、一番に知らせなくては。

治信は携帯電話を取り出し、潜入中に盗み出しておいた白楼の秘匿回線の番号を入力した。

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