黒い靄の中で
『いや、いや、いや、いや、いや、いや…』
灰色のセメントの中で、湖洲香が丸くうずくまり、うわごとの様に呟き続けている。
透視しても、そこは真っ白な空間のまま、湖洲香の赤い魂の光が視えない。
もう死んでいるのだろうか。
『えい、あれ、えい、えい、えい!…』
必死にセメントをすくい湖洲香を掘り出そうとするが、どうしてもセメントに触れない。
『黄色は幸運の色なのに、小林さん、ひどいですわ…』
恨めしそうな湖洲香の声が聞こえる。
『だって、えい!えい !…』
『目を伏せるな!京子!』
『え、はい!…』
セメントから顔を上げると、すぐ目の前に紅河がいた。
必死に抱きつく京子。
いつの間にか空中にいる。
だが、紅河の制服が脱げ、彼の身体だけが京子から離れて飛んで行く。
『うあ、わわ…』
紅河の制服を抱えたまま、落下する京子。
ドサッ!
「…!」
京子は、ベッドから落ちた衝撃で目を覚ました。
両腕で掛け布団をぎゅっと抱いている。
「…あ、あれ…」
京子はゆっくりと上半身を起こした。
壁掛け時計を見ると、針は午前6時10分を指している。
彼女は数回瞬きをし、掴んでいた掛け布団をベッドの上へ押しやった。
「何の夢だったっけ…」
よく思い出せない。
立ち上がると、両足のふくらはぎが張り、筋肉痛のように鈍く痛む。
「昨日たくさん歩いたからな…」
カラカラカラ…
ベランダのガラス戸を開け、雨戸に手を掛ける。
「今日も曇りだ。」
薄暗い灰色の空を見ながら、昨日の事を思い返す。
悪夢のような一日だったが、どこか現実感が無い。
南土蔵駅から桜田門駅に行き、灰色の使い手に腕を縛られ、腹部を叩かれ…
病院の後は『赤の使い手』を探して…
あれは現実だったのだろうか。
「ふっくしゅん!」
京子はくしゃみをするとガラス戸を閉めた。
部屋の電気をつける。
「は!…」
壁に掛かっていた黒いレディーススーツが、京子を一気に現実に引き戻した。
透明の帯に襲われたことも、腕を落とした刑事を介抱したことも、桜の風景で透明の帯を鎮めたことも、湖洲香と共闘したことも、全て…現実だったのだ。
湖洲香の生死が不明の中、自分はこのまま日常生活に戻っていいのだろうか、と京子の気は重かった。
「あ、生徒手帳…通学定期とお財布は!携帯も!」
それらは湖洲香が着ている自分の制服に入っていることに気付き、京子は蒼ざめた。
昨日は手荷物を全て紅河宅に預けていった為、移動に必要な小物は全て制服のポケットに入れて持って行ったのだった。
携帯電話や財布は、別に失くしてもいいと思うが、通学に必要なものは困る。
何が困るかと言うと…
「お母さんに叱られる…電車賃とかどうしよう…」
京子は湖洲香のスーツに目をやった。
お金、交通費だけでも借りて凌ごう、と考え、悪いと思いつつもスーツのポケットをまさぐった。
黒い手帳、財布、携帯電話、お守りが出てきた。
手帳は警察手帳のようだ。開くと、湖洲香の顔写真と、所属や氏名などが印刷されている。
携帯電話、これは、湖洲香本人から掛かってきた時の為に持ち歩いておこう、と思った。
お守り。表面の刺繍はすり減り、薄黒く汚れている。
「きっと大事なお守りだ…」
これも失くさないよう持っておき、赤羽根博士にでも渡そう、と思った。
そして、赤茶色の長財布。
人様の財布を勝手に覗くなど許されることでは無いが、母の雷の方が数倍恐ろしい。
京子は生唾を飲み込み、一度財布に手を合わせ拝み、中を見た。
「…」
カード類が数枚あったが、お札も小銭も、通貨の類は何も入っていなかった。
「この、ワカムラさんのヤクタタズ…」
棒読みでつぶやいてみた京子は、軽い目眩を覚えた。
さあ、どうしたものか。
母の雷を覚悟し、事情を話して通学費をもらうか。
舞衣に電話して迎えに来てもらい、お金を少し借りるか。
「あ、番号、自分の携帯、無いんだった…」
万事休すか。
斯くなる上は、仮病を使った病欠か…
昨日、少し雨に打たれたし…
方針が決まった。
「けほっ、こほっ…」
京子は咳き込む練習をし、体温計をタンスの引き出しから取り出すと、電気を消し再びベッドに潜り込んだ。
この先、定期とかどうしよう…
湖洲香さん無事かな…
それは京子にとって、仮病の罪悪感や心配事が入り混じる最悪の朝となった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おお、一番乗り。」
いつもより早く自宅を出た舞衣は、女子バスケ部の朝練に、誰よりも早く体育館に着いた。
バスケットボールのカゴを備品倉庫から引っ張り出し、床をチェックしてモップを掛ける。
「ふぅ。」
舞衣はボールを一個取り出した。
ダンダン!…シュッ…ガゴン!
ジャンプシュートはリングに弾かれ、入らなかった。
…湖洲香さん。
湖洲香の安否が頭から離れない。
θ棟崩落の大きな音や地響きが甦ってくる。
「舞衣さん、おはよぉ、早ぇくてらなー。」
二番目に来たのは、言葉だけですぐに判る愛彩だった。
「おはよう、愛彩!」
「きな、どすてらば?べろっと休んでぇ。」
「うん、ちょっと内緒のとこに行ってて。」
「あんまり休むな。」
「うん、ありがと。遙香先輩からも電話来た。」
「んだ、今日、サッカー部応援、行ぐべ?」
「愛彩は行くの?」
「ん、紅河先輩有名だはんで、行ってくるがってらね。」
「そんな有名なの?授業サボれるし、私も行こっかな。」
舞衣は刹那、もしかしたら霊感の強い愛彩に湖洲香のことを話したら何か判るだろうか、と考えた。
だが、霊が見えるというだけで、会ったことも無い『使い手』の安否など判るはずもないか、と思い直した。
「競合校全部、紅河先輩さマークしと。」
「ほえー、それは観にいかなきゃね。」
「いが。」
「うん!」
心に引っ掛かる靄のように、湖洲香への安否が舞衣の中に漂い続ける。
それを、空元気で隠しながら、日常に帰ってきたのだと自分に言い聞かせる舞衣。
そしてもう一人、心配な親友。
…京子、大丈夫かな。
今朝、京子の携帯電話へ掛けると、圏外かバッテリー切れか、繋がらなかった。
おそらく、服を交換した湖洲香が京子の携帯電話を持っているのだろう。
…私達、一体何と戦ったんだろう。
考えないようにしよう、と思っても、どうしても考えてしまう。
蓮田という人物が使い手達を陥れようとしていた、という構図は判った。
では、何が蓮田をそのような行動に駆り立てたのか。
何の罪も無い義継が、疑われるような行動を取らなければならなかった、その大元の大元には、どんな闇があったのだろう。
…超能力なんて、やっぱりいらない…
釈然としない。
舞衣に引っ掛かっているものは、恐怖とか、自己嫌悪とか、そういった具体的な感情では無い。
人は、学校でも、会社でも、人間関係に苦労し、時にはいがみ合うこともある。
それは解る。
それが、相手を死に至らしめようとするまでに膨れ上がる悪意、それと戦ったのだとしたら、その悪意とは一体何?
最初は紅河や橋石を手助けしたい、それだけだった。
だが、実際に白楼での体験を経て、人として大切な何かに関わるもの、その歪みに触れたのではないか、と舞衣は思った。
もう知らない、と傍観しても、もちろん許されるだろう。
だが、舞衣の中でも、昨日の悪夢は、まだ終われない痼りとして、拭いきれなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「今年の聖美陵はディフェンスがしつこいぞ、淳。」
「ん?…うん。」
高校サッカー夏のインターハイ地区予選。
準決勝のキックオフ午前10:00に先駆けて、城下桜南高校サッカー部は8:30にスタジアム入りした。
軽くジョギングを流す中、話し掛けてくるチームメイトの言葉に、紅河は上の空であった。
「おい、そのアゴのアザ、どうしたんだ?」
「うん。ちとコケた。」
「え?転んでそんなとこ打つか。」
「うん。」
「昨日は練習も出ずに、大丈夫なんだろうな、お前。」
「うん。」
紅河は昨晩、結局ほとんど眠れなかった。
入浴と、身体だけは横になっていた為、肉体疲労は残っていないのだが、精神的な疲れを引きずっていた。
湖洲香を崩落現場に残してきてしまったことが頭をグルグル回っている。
無力な自分に対する苛立ちを必死に抑えようとし、更に苛立つ。
紅河を知る周りの人間は皆、普段の彼の落ち着いた立ち振る舞いや、いざという時に発揮する集中力と判断力から、精神力の強い少年だと見ている。
だが、紅河本人に言わせれば、それは買い被りもいいところだった。
臆病で、無気力で、行き当たりばったり。
楽天家と言えば、それもそうかも知れない。
小さな後悔を性懲りも無く延々と繰り返す、進歩のない自分。
…うまく凌いで見せてるだけだ。俺は強くも何ともない。
サッカーのプレイには、自信はある。
何とかしてやる、と少なからず思ってもいる。
しかし、今日は…
…ダメだ、集中出来ねぇ…
紅河はこれまでのサッカー経験から判っていた。
こういう精神状態の時は、ボールが脚から離れていく。
好調の時は、まるで磁石のS極とN極のようにボールが脚に吸い付いてくれるが、こんな時はS極同士のように反発し、トラップもドリブルもガタガタになる。
…スタメン外してもらうべきか。
そんな内面の不調が、あまり顔に出ないのも、考えてみれば欠点みたいなものだ。
…ああ、くそっ…
今日の相手、聖美陵学園は、前大会の地区準優勝校。
去年の三年はいないが、スタメンに二年が三人いた。
名前は覚えていないが、その中の19番と24番は相当に当たりが強いヤツだった。
オフサイドトラップも速く、ディフェンスは良く見ていないと迂闊にロングパスが出せない。
…いや、だからこそ、俺の仕事か。
俺がやる。
俺が。
俺が?
なんで。
何で俺なんだよ。
うちには良いオフェンスが何人もいるじゃないか。
なに抱え込んでるんだ。
集中力を欠いた俺が出しゃばったら、勝てるものも勝てないだろうに。
昨日は警察庁の超能力者という日常を大きく逸脱した事件に首を突っ込んでたんだ。
死人も出た大惨事に、だ。
昨日の今日だぞ。
俺は普通の平凡な高校生だ。
駄目で当然だろう。
負けたら全国が無くなるんだ。
チームに申し訳が立たない。
スタメンを辞退す…
「お、いたいた、紅河!」
「スタメン?ベンチ?負けるとこ観に来たよ、紅河クン。くっくっくっくっ。」
…なに?
「出るの?やめときなって。蓮田のアッパーカット食らってんだろ、今日はその呪いが残ってるぞぉ。けけけけ。」
紅河はジョギングの足を止めた。
チームの群れが、紅河一人を取り残し、走って行く。
…橋石だけじゃ無い…
「義継クン。」
紅河は、幻でも見ているかのような惚けた顔を、客席の橋石と義継に向けた。
二人とも詰襟学ランを着ている。
彼は二重の奇跡を見た。
詰襟学ラン姿の義継、そしてスポーツ観戦に来ている義継。
「出んの?出ないっしょ?足引っ張るもんなぁ、今の紅河クンじゃさ。かっかっかっかっ。」
「う、うるせーよ。義継クンこそ、太陽の下なんかに出て、気でも触れたのか?」
「太陽?雨降りそうだけど?」
「気が散るから漫画喫茶で寝てろよ、セーラー服着てさ。」
無事で何よりだ、と言いたかった。
元気そうな顔を見せてくれて嬉しい、と言いたかった。
何よりも、本当に釈放されて良かったな、と言いたかった。
あの人間嫌いの義継が、来た。
他人に興味を示さない自閉的な義継が、来た。
変わり者で引っ込み思案な義継が、来た。
義継の憎まれ口は…
…全部パワーになった。もらったよ、義継クン!
「今日はセーラー服の気分じゃ無いんだ。紅河クンを笑いに来ただけだしね。」
紅河の中で渦巻いていた黒い靄に、小さな風穴が空いた。
「あ、そ。残念ながら、今日の俺のプレイに笑えるシーンは一つも無い。」
「へぇ、スタメンなんだ。そんじゃゆっくり観させてもらうかな。」
義継も、橋石も、おそらくは進捗情報を持っているであろう湖洲香の生死について、何も言わない。
サッカーを、紅河を観に来た、とだけ言っている。
その気遣いが、紅河に伝わっていた。
「淳ぃ!集合だ!早く来い!」
遠くでキャプテンの声がした。
風穴が空いたとは言え、そうそう簡単に心の靄は吹き飛ば無い。
…崎真さんだったかな、言ってたのは。
『切り替えられない気持ちを抱えて、それでも戦い続ける』
紅河は、ニッと白い歯を橋石と義継に見せ、チームのベンチへ駆けて行った。




