驚異の紅河ママ
崎真の運転する警察庁の覆面パトカーは、国道から県道に入った。
『水道道路』という標識が見られ、道路の左側には深めの水路があり、それを挟んで歩道がある。
幅2メートルほどの水路は、一定感覚で小さな橋が作られており、所々鉄骨入りコンクリートの蓋がなされているが、ほとんどは小川の如くその流れが見える。
一度強まった雨はまた小降りになり、崎真はワイパーをリレー作動に戻した。
彼はルームミラーで、後部シートの京子と舞衣を見る。
舞衣が起きていた。
その目は虚ろで、ぼんやりと車窓を見ている。
崎真は助手席に置いてあったハンカチ包みを左手で取り、舞衣へ差し出した。
「おむすびだそうだ。紅河さんの娘さんが握ったそうだよ。」
「え、あ、ひかりちゃん?」
「ああ。」
舞衣はそれを受け取った。
まだ温かい。
「奥さんが、君と小林さんのご自宅に『夕食を食べさせて帰す』と電話していたらしい。出来るなら、食べておいた方がいいな。」
「そうですか、どうも…」
食欲がない。
空腹は感じているが、何かを口にする気分ではない。
…あの子が握ったのか。
舞衣はハンカチ包みを解いてみた。
結構大き目のおにぎりが2個入っている。
…1個でお茶碗二杯分だな、これ。
自分で炊事をする舞衣は、見た目と重みで分量がすぐに分かった。
光里ちゃんは幼稚園に通っていると言っていた。
舞衣も、小学校に上がる前、母におにぎりを教わったことを思い出した。
「崎真さん。」
「ん。」
「お茶碗二杯分てね、子供の手には凄い量なんです。」
「そのおむすびのことか?」
「はい。」
「結構お米を使うものなのだな。」
「母やお婆ちゃんはお茶碗一杯分の小さいおにぎりでいいんですけど、父のお弁当を作る時、二杯分にしてました。」
「ほお。」
「一生懸命三角に握ろうとするんですけど、手からはみ出ちゃうし、どうしても丸くいびつになっちゃうの。」
「はは。子供の手では、そうなのだろうね。」
「お母さんと作った私のおにぎりにそっくり…」
「そうか。今は手も大きくなったのでは?お母さんのように作れるようになったかい?」
「うん。今はお茶碗四杯の量でも三角に出来ますよ。」
「それは凄いな。職人技だな。」
「コツがあるんです。」
「お母さん直伝か。」
「あ、いえ、自分で研究して。母は小一の時に亡くなってますので。」
「そうだったのか、それは…ご病気か何か?」
「うん、急性骨髄性白血病です。」
「そうか…では、今はお父様と、お祖母様と?」
「父は去年亡くなりました。脳出血です。今はお婆ちゃんと二人。」
「そうか、それは大変だな…」
舞衣は2個のおにぎりをじっと見つめている。
ルームミラーで舞衣の顔をチラッと伺った崎真は、嫌なことを思い出させてしまったか、と気を揉んだ。
「房生さん、もうすぐ小林さんのご自宅に着くと思う。彼女を起こしてくれるかい。」
「え、あ、はい。」
舞衣は少しの間おにぎりを見ていたが、ん、と何かを決心したような表情をして、京子を揺さぶり始めた。
「京子、京子。」
起きない。
「京子!」
起きない。
「あ!紅河さんだ!」
ビクッとする京子。
「は、れ、わ、くれ、紅河、キスは、え…」
「なに言ってんの京子、起きて。おにぎり食べるわよ!」
「あ、え、おにぎり、おはよう…」
「あんた今、キスって言わなかった?思春期全開ねー。」
「え、え、言ってないよ…」
「今のキス発言、お昼の会議にかけるからね。ほら、おにぎり。1個食べて。」
「え、あ、でもいい。お腹すいてな…」
舞衣はおにぎりを一つ京子の手に押しつけるように渡した。
「ひかりちゃんが握ったんだって。食べないとバチ当たるよ。幼稚園の子がこの大きさにするの大変なんだから。」
「ひかりちゃん…」
京子は手渡されたおにぎりを改めて見た。
大きい。
「あれ、ここどこ…」
「水道道路だね。京子んち近いんじゃない?」
「あ、ほんとだ。…あ、カバンは?」
「あるよ、ほら。」
「ありがと。」
「とにかく、おにぎり食べるわよ。なんかね、紅河さんちでご飯食べたことになってるみたい。そう電話してくれたんだって。」
「そっか。」
崎真が無言で350mlのペットボトルを二本、後部シートへ差し出した。
緑茶だった。
舞衣が受け取る。
「あ、ありがとう崎真さん。」
京子はラップに包まれた丸いおにぎりを両手で回しながら見ている。
「食べれるかな。でも温かいね。」
「いただきまーす。」
舞衣は既にラップを開き、口に運ぶところだった。
大口を開けて大胆にかぶりつく舞衣。
「んむ…ん、え!なにこれ、んま!」
「おいしいの?」
「なんだろこれ。このお塩、お米がおいしいの、すごく。」
頬張る舞衣の横顔を見て、京子もラップを開いた。
一口、口にする。
「んあ…おんと、んんしいね、これ…んむ…」
「んー、この塩加減、お塩自体がおいしいのかな、だし入りかな…んむ…出汁って色じゃないな…んむんむ…」
「んむ、あんか、ちょっと食べたらお腹空いてきた…はむ…」
「んたしも。食べれないかと思ったけど…んむ…」
「あ、シャケだ…んむ…」
「ん…この、シャケの、焼き具合…紅河さんママ恐るべし…はぐ…」
「んむ…なんか食べれちゃいそう…んむ…」
崎真は思った。
高校生の胃、恐るべし…
「んまんま…んむ…」
「お茶もおいしいね。」
「んむ…」
崎真の腹が鳴る。
「んく、んく、んく…ふー。」
「…んいしかったぁ、ふぅ。」
「今度教わろうっと。紅河ママに。お塩なにか聴かなきゃ。」
「え、行くの、紅河さんの家。」
「京子も来る?」
「あ、でもいいや…」
「あそ。じゃ、千恵と愛彩誘おっと。」
「え、皆んな行くの?」
「来ないんでしょ、京子。」
「え、あ、え、あ、え、でも、あ…」
「ちょっとそれかして。」
「え、うん…」
「よ、ほ、よ、っと…崎真さん。」
「ん?」
「はいこれ。」
舞衣は、自分と京子が少し残したおにぎりをラップ越しに握りあわせ、崎真に手渡した。
「お、おお、これはありがたい。頂くよ。」
「美味しいものは皆んなで。」
「なるほど、売り物のような見事な三角だな。」
「まあねー。」
「だが小さいな。」
「文句言うなら返してくださーい。」
「断る。」
「ははは。」
「ふふ。」
「…ほお、これは美味いな。」
「でしょー。」
「えと、舞衣さん。」
「ん?」
「えと、行きたいな、私も…」
「どこへぇ?」
悪戯っぽく京子の顔を覗き込む舞衣。
「おにぎり教わりに…」
下を向いてチラッチラッと上目遣いの京子。
「何の為にぃ?」
「え、だって、おいしかったから…」
「おにぎり教わったら、誰に作るのぉ?」
「え、じ、自分のお弁当…」
「それだけぇ?」
「え、う、うん…」
「んじゃ、ワザワザ来なくていいよ、後で教えてあげるからさー。」
「え、あ、え、でも、ちゃんと、紅河さんのお母さんに教わりたいし…」
「どうしてぇ?」
「え、あ、え…」
「ははは、その辺にしておいてあげよう、房生さん。イジメはよくないぞ。」
「はーい。」
三人の乗る車が小林宅に到着した。
「小林さん、頭は重くないかい?何か不調を感じたらここへ電話を下さい。サイコスリープに詳しい者が、おそらく赤羽根博士が診察しますから。」
「あ、はい…」
言われてみれば、少しボーッとする。
寝不足の時の感じ…
「お世話になりました、おやすみなさい。」
京子は丁寧に頭を下げると、自宅の玄関へ入っていった。
「ひあ…」
ただいま、と言おうとして、京子は驚いた。
視界の右側に、湖洲香の姿が目に入ったからだった。
だが、それは姿見に映った自分の姿だとすぐに気付く。
…そうだ、湖洲香さんのスーツ着てたんだった。
「ただいま。」
靴を脱ぎ、それを靴箱にしまうと、母の声が返ってきた。
「遅かったわねぇ。」
その声は、玄関に向かいながら近づく声だ。
「あら、何そのかっこ。制服はどうしたの?」
まずい。
言い訳を考えていなかった。
「あ、えっと、あのね、ちょっと制服汚れちゃって、えっと、借りたの、あ、紅河さんのお母様の服。」
咄嗟に出た、少々苦しい言い訳。
「ええ?汚れたって、お勉強していてどうして?お食事でもこぼしたの?」
厳しい母だ。
よそ様の家で食事を溢すなど、どれだけ叱られるかわからない。
「え、ううん、あの、あ、公園、日比谷公園に、えっと、野草とか、生物の野外観賞で、だから三年の紅河先輩について来てもらって、あ、雨だったし、ちょっと汚して…」
「そうなの?だったら早く出しなさい、クリーニングに出すから。」
信じてもらえたようだ…が、制服は湖洲香が着ている。
持ち帰っていない。
「あ、うん、いいって言ったのに、紅河さんのお母様が洗ってくれてて…」
「ええ?そういうのはご遠慮しなさい。人様の手を煩わせるなんて。」
「ごめんなさい。」
「ま、いいわ。紅河さんの奥様、とてもいい方だし、今度菓子折りを持ってお伺いしましょう。普段着でいいのに、そんな素敵なスーツをお借りして、もったいない。」
え…母の雷が落ちない。
奇蹟だ。
紅河さんのお母さん、どんなマジックを使ったのだろう。
とてもいい方、とは、電話でどんな話を…
「あ、なので、冬服、明日着ていく。」
「仕方ないわね。」
ほっ…
とりあえず凌いだ。
胸を撫でおろす京子。
「奥様がね、あなたのお辞儀の仕方、和式の正式な作法ねって感心されてたわ。挨拶してから頭を下げる、手の位置、腰の深さ、茶道か何かされているでしょう、って。だからね、書道なのよ、って話したのよ。」
「え…あ、そ、そう。」
驚いた。
京子は玄関口で頭を下げただけであり、紅河母とは会話すらまともにしていない。
あの一瞬で、そこまで気付いたのだろうか。
その上、和式の作法もご存知とは…
そう言えば、家に電話をしておく、という話の中で、自分はこう言った。
『お母さんが出ます。怖いけど、優しいです』
この言葉から推測したのだろうか。
礼儀にうるさい母だ、と。
紅河ママ、恐るべし…
「すぐにお風呂に入りなさいね。明日、紅河淳さんに、母とご挨拶に参りますので、とご都合を伺っておきなさいね。」
「え、はい…」
ひえええ…
お母さんと紅河家訪問…
新たな試練が…
京子はフラフラと二階へ上がって行った。
階段の途中、二度ほど、つまずいた。
その頃、舞衣が自宅に到着していた。
「君も不調を感じたらここへ電話を。ゆっくり休むんだぞ。」
「はい。どうもありがとうございました。」
舞衣は車を降りると、崎真へペコリと頭を下げた。
覆面パトカーは夜の小雨の中へ消えて行った。
「お婆ちゃん、ただいまー。」
居間へ走る舞衣。
祖母はテレビを見ていた。
「おかえりなさい。」
「ご飯食べた?何か作る?」
「大丈夫よ。御釜にご飯あったし、冷蔵庫におかずも残ってたし。」
「あー、ごめんね、身体不自由なのに…」
「それくらい出来ますよ。舞衣ちゃんのおかず美味しいしね。お風呂、お湯張ってあるからね。」
「やーん、ありがとう、お婆ちゃん。」
祖母は和かに笑った。
一安心した舞衣は、仏壇の父と母に手を合わせると、居間にカバンとコートを置き、そのまま風呂場へ向かった。
服を脱ぎながら、帰りの車で見た夢を思い返していた。
父の夢。
全ては思い出せないが、耳に残っている言葉がある。
『別れの時が来た。もう私に手を伸ばしてはいけないよ。舞衣は独りでやっていける』
言葉としては、悲しいと言うか、寂しいと言うか、切ない言葉だったが、夢の中の舞衣は、何とも晴れやかな気持ちに包まれていた。
武者震いのような、独り立ちする大人になったような感覚。
少し熱めの湯船に浸かる。
「ふぅー…」
もう手を伸ばしてはいけないって、そんなに父の事ばかり考えている訳でもないのに。
別れの時?
父は、亡くなった去年の12月、言い残した事を言ったのだろうか。
夢は、自分の意識が作り出しているらしい。
そう言って欲しかったのかな私…と舞衣は考えてみた。
だが、自分の思考らしくない表現だな、とも思う。
それに、夢なのに、その部分だけ妙に生々しく覚えている。
「あつ…」
少しのぼせ気味になり、湯船から出ると、頭からシャワーを浴びた。
シャワーの温度が冷たく感じる。
手探りでボディーソープを取ろうとしたが、なかなか手に触れない。
舞衣は片目を開けた。
「あった。」
シャワーから少し離れた位置にあり、面倒なので、舞衣は『光の帯』を伸ばそうとした。
「ん、あれ…」
どうやるんだっけ。
まだ出し方がおぼつかない。
「えーと…」
あれ…
上手く出てくれない。
気持ちがこもってないからかな。
「ま、いいや。」
舞衣は諦めて、シャワーから離れて手で取った。
…湖洲香さん、無事だといいな。
風呂から上がり、身体にバスタオルを巻いて制服を抱え、自分の部屋に戻った。
部屋着を着て、携帯電話を確認すると、数件のメールがたまっている。
通話着信も二件。
千恵と、二年生の高島遙香先輩。
「おおっと、鬼遙香!」
舞衣は遙香にまず折り返した。
「…あ、こんばんは、着信来てて、夜遅くすみません。」
「美人ちゃんおつかれー。明日は部活出るよね。」
「あ、はい、出ようと思ってます。」
「言い忘れてたけど、三日以上連続で休むと、うちの顧問、試合に使ってくれなくなるのよ。どんなに上手くてもね。用事もあるんだろうけど、なるべく出てね。」
「そうなんですかー!あやー!試合出れないのは嫌です!出ます部活!」
「うん、私もね、貴重な戦力として期待してるのよ、美人ちゃん。」
「その、美人ちゃんて、ちょっと、その、恥ずかしいので…」
「じゃあ、んー、ニコールちゃん。」
「なんですかそれ…」
「若い頃のニコールキッドマンに似てるから。」
「えー、似てませんよぉ。」
「金髪にしておデコ全開にしてみ、結構似てる気がするぞ。」
「退学になりますって…」
「アデルもちょっと入ってるかなぁ、エグザルコプロス。」
「誰ですかそれ…」
「角度によって。」
…どんだけ私の顔観察してるんですか…
「房生でお願いします、フサオで…」
「とにかく、出るのよ部活。体調が悪い時は顧問の前でゲロしてから帰りなさいね、ゲロ。」
「う、は、はい…」
「じゃねー、おやすみー。」
「おやすみなさい。」
…金髪に染めてゲロ。
「無理。」
舞衣はベッドに身を投げると、そのまま寝息を立て始めた。




