1
ママチャリに乗るのなんていつぶりだろうか。小学生の時にはすでに、クロスバイクもどきの、スポーツ自転車に乗っていた。中学からはロードバイクだ。となると、俺は自分のママチャリを持ったことがないことになる。なんとなく不思議な感慨に浸りながら、俺は学校の生徒用の駐輪場に、無骨な銀色のママチャリを滑り込ませた。ついこの前まで乗っていた自転車がGIANTのTCRで二〇万円、このママチャリは近所のホームセンターで買ってきた八九八〇円。乗り心地は、慣れもあるだろうけど、お値段どおりの二〇倍。一見無駄な買い物だ。自転車関係の金は、お年玉とバイトの給料から自分で出している俺にとっては深刻な出費だが、こればかりは仕方がない。俺と一緒に戦ってきて、一緒に勝利と敗北を積み重ねてきたあの自転車には、常に過去の俺のイメージが付きまとう。あれに乗っている限り俺は、いつまでも「自転車競技部の桜井瞬」としか認められなくなる。もう既に自転車競技部をやめていたとしても、だ。
人にはきっと、アイデンティティを象徴するものがあるのだろう。たとえば幌南高校の理科の中田先生は研究なんかしていないのに、普段の授業中まで白衣を着ている。白衣を着ている間、中田先生のアイデンティティは理科教師というものに置き換えられ、白衣を脱いだときに、ただの中田になれるのだと思う。俺もそれと同じだ。ロードバイクに乗っている限り、俺は過去の俺に縛られる。むしろ退化なのかもしれないが、退化だって変化は変化だ。変わるためにはこのママチャリが必要だった。
太いのに滑りやすいタイヤが、ブレーキをかけてから体感では恐ろしいほどの時間を置いてから、地面を捉えて停止した。自転車を降りてから、車体に備え付けられている鍵をかける。その後ろから、「あれっ?」と聞きなれない声がした。声の方向を振り返ると、いつもこの時間に駐輪場で見かける、矢筒を背負った女の子が、俺と目が合って気恥ずかしそうにしていた。
朝練をやめても、生活習慣は変わらないものだ。俺は部活にいたころと同じ時間に登校している。この時間にいつも見かける彼女もきっと、部活の朝練に出ているのだろう。私服の高校とはいえ、ジャージで登校しているあたり、部活に気合が入っているのを窺わせる。
幌南高校の駐輪場は、学年ごとに区切られている。彼女は一年生の区画に駐輪しているので、まあ、その通り一年生なんだろう。背が低く、身の丈に合っていない長い筒を背負っている。恐らくは弓道の矢が入っている、矢筒。弓道部なのだろう。俺の幼馴染の上妻純平の後輩なんだろうな。真面目ないい後輩を持ったものじゃないか。そう、一人得心した。
勝手に分析して勝手に納得している俺の視線を別の意味に勘違いしたのか、彼女は慌ててぎこちない笑みを浮かべ、「すいません。何でもないんです」と小さく謝り、俺の前から足早に立ち去った。あっという間に揺れるショートカットが遠くなる。俺は長い間太陽に目を眇ながら走ってきたせいか、ものを見るときに目を細める癖がある。事情を知らない人間からすれば睨まれたように感じるだろう。不躾にじっと見るべきではなかったと嘆息し、ママチャリのタイヤに外付けのチェーンを巻いた。小柄な女子にああいう表情を浮かべさせると、子どもを怖がらせたようで、意味もなく心苦しくなる。後で、上妻を通して謝っておくべきか。
誰もいない教室は、静かすぎてどこか不気味さのようなものを湛えている。教室の前の引き戸の、少し開いた隙間を凝視すると、異形の何かが覗き込んできているような錯覚を覚えた。意識的に隙間を見ないようにし、机に数学の問題集を開く。趣味は自転車しかなかったし、読書もしないので、教室で時間を潰すといえば勉強以外に知らないからだ。静けさを意識に浮かべぬよう、無心に問題を解く。去年はほとんど勉強をしていなかったので、使っているのは一年生の頃の問題集だ。解いてみると、習っているはずなのに見覚えのない公式がたくさん出てくる。授業時間は寝るための時間だと思っていた自分に、今更ながら呆れ返った。
一人、二人とクラスメイトが登校してくる。挨拶をすると、彼らも自分たちの机について、単語帳などを眺めたりしている。しかし一〇分、二〇分と経ち教室に人が増えると、一人きりで勉強に勤しむ者は俺一人になり、誰もが、誰かと集まり談笑に興じるようになった。俺もかつてはその輪の中にいたものだが、今では楽しそうだとも思わない。何の意味もない馬鹿みたいな笑い話に、存在しない深い意図を探っては疲れるだけだからだ。仲が良かったクラスメイトも適応が早く、夏休みが終わって二週間も経っていないが、俺の変化を敏感に察して、俺を一人にしてくれた。それが気遣いによるものか、負の意味を持った放置なのかは、俺には知る由もないが、そういうことを考えるのも疲れたので現状に甘んじている。
だが、こんな俺に対して、ずっと変わらない付き合いをしてくれるやつもいる。孤独を求めておきながら、邪気のないそいつとの繋がりだけはどうしても切る気になれず、そいつもまた俺の変化を感じながら、繋がりを残してくれるのだ。上妻純平。小学校から高校まで、ずっと同じ進路を辿った唯一の幼馴染みだ。
ホームルーム、小学校の言い方にすれば朝学活、が終わってから一限目が始まるまでの短い時間にも、あいつは俺のところに来る。クラスが違うのにだ。
「よぉ、チャリ変えたらしいね」
「いきなりか。よくわかったな」
「まぁ、瞬の生活をおはようからお休みまで見守ってるからな」
「それ、ストーカーな」
一見は中肉中背でどこにでもいるような顔をしているが、唇の右端を常に吊り上げているので、それが酷く独特な雰囲気を醸している。悪いイメージで、だが。そんな表情をしていて口が曲がらないものかと心配したことがあるが、本人いわく人の見ていないところでは、常に左端を吊り上げてバランスをとっているらしい。なんのためにそんなことをしなければならないのか、さっぱり理解できない。
そういえば俺は上妻に用事があったな、と思い出した。
「なあ、弓道部の一年生で、毎朝朝練に出てて、自転車登校しているちっちゃい女の子っている?」
「朝練しているかはわからないけど、ちっちゃいのは一人いるわ。確か自転車登校だった気もする。で、その子がどうしたの、狙ってんの?」
「いや、狙ってるとか、なんでそういう発想につながるんだよ」
「まあまあ。でもお前が他の人に興味を示すなんて珍しいからな。よほど強い欲求でも覚えたのかと」
上妻の言う強い欲求というのが性欲だというのは、考えるまでもなくわかる。だがそれを口にすれば、また変な方向に解釈してくる。俺は無視して話を進めた。
「今朝駐輪場でその子と目が合ってな、そしたら何でか怯えられたんだよ。たぶん俺の目つきが悪いせいだと思うから、俺がそのことで謝ってたと伝えてくれないか?」
「初対面の女の子に、怖がるようなことしちゃったわけ?」
「やめろ、へんな引き抜き方で大声出すな!」
クラスの女子生徒が何人かが不審げ、というには警戒心と敵意が含まれすぎている視線を俺に向けていた。やめてくれ、俺はひっそり暮らしたいのに。上妻はよく通る声をしている。でかい声、という荒々しいものではなく、一本の矢のように空間を切り裂いて、遠くまでまっすぐに言葉を届けるのだ。昔の政治家がカリスマの拠り所としたような、天性の人を導く者の声だ。それを、下ネタがために使う。本当に勘弁して欲しい。
一転して真面目な声音で上妻が言う。
「なあ、自分で謝るんじゃだめなん? たぶんだけど、毎朝同じ時間に登校してるぜ、その子」
「そうなんだけどね。なんていうか、初対面の人と話すのが苦手なんだよ」
「いや、初対面じゃなくてもお前って話すの苦手じゃん」
「死にたいようだな」
一向に話が進まない。上妻と話すときはこれがスタンダードだ。関係ないくだらない話にばかり脱線する。しかし、だからこそ、なんだろうな。俺の話す相手は上妻一人しかいなくて、話すネタなんてそんなに持ち合わせていないのに、上妻との話題が尽きたことがない。昔から人の話に茶々をいれるやつだったが、こんなに頻繁に話の腰を折るような脱線はしなかった。そんなそぶりは全く見せないが、上妻は俺のことを気遣ってくれているのだと思う。俺はその手を振り払えるほど強い人間じゃない。だから今もこうして、その気遣いに気づかない振りをして外れた線路に乗っかるのだ。
こぶしを固めた俺に、そろえた指先を白鳥のくちばしに見立てて突っつくことで応戦しながら、上妻が提案する。
「そうだ。今日の放課後、その子に直接会わない? 道場に来るよ?」
弓道部の道場は、校舎裏の離れに建てられている。弓道部はその他の部活の生徒の視線から切り離された環境下にいるからか、ひどく閉鎖的な雰囲気をしている。いや、実際にはそんなことはないのだろうが、校舎裏全体がなんとなく「部外者お断り」と書かれたロープで囲まれているような印象を受けるのだ。
「弓道場に行くのは、ちょっとな。なんとなく空気が気まずくて、居づらいんだよ」
「カラオケに一人で行けるのに、弓道場には行けないって変なやつだな」
「ぼっち族ってのそういうものなんだよ」
「ぼっち族に転生したのか。どこぞの投稿サイトに、そんな小説がありそうだな。まあ、それなら仕方がないとしておいといて。面白い話を持ってきたんだよ。聞きたい?」
「唐突だな。残り時間も少ないし、今はいいや」
ホームルームが終わった後の一〇分間の空き時間は休み時間じゃない。次の授業のための準備時間だ。つい最近知った。その時間も残りわずかとなっている。雑談に時間を費やして、次の授業が始まったときに準備できていなかったら、本末転倒というものだろう。
「嘘ん。ここは話を聞く流れでしょ。ってか聞きなよ。むしろ聞く気なくても言うわ」
「最初からそのつもりだろうよ」
「うん」
上妻がしれっと頷く。こういったやり取りにもいい加減慣れてきたものだ。上妻の話を聞き流しながら、授業の準備を進めようとした。かばんに手を伸ばす。
「なあ、自分たちの力で空を飛びたくないか?」
が、その手が止まった。上妻の口から出た言葉があまりにも突拍子のないことだったからだ。
「は?」
きっと、余程間抜けな顔をしていたのだろう。してやったりという表情を浮かべ、上妻が続ける。
「飛ぶんだよ。飛行機を作ってさ。それもグライダーなんていう風で飛ぶようなもんじゃなくて、エンジン積むようなもんでもなくて、本当に人力で飛ぶやつをさ。どうだ、面白そうじゃないか?」
「それは――」
現実的に可能なのか? 飛行機を作るのってそんなに簡単なのか? 飛行機で飛ぶのに免許って必要ないのか? それ以前に、飛ぶ場所はあるのか?
いくつもの疑問符が頭の中を駆け巡る。導き出されていく解答はどれも、否定的なものばかりだ。だが、それでも。
「――面白そうだ」
「だろ?」
予鈴が鳴った。上妻は唇の端を吊り上げ、一度俺を振りかえり横顔で笑った。その表情がなんとなく勝ち誇ったようで、そのせいか、俺が負けたようで妙に悔しい気分になる。だが、しっかりと心の奥深く。理性という殻を潜り抜けた先の、少年だった頃の心に植えつけられた好奇心の種は着実に芽吹き、今この瞬間にも成長しているようだ。
空を飛ぶならやはり軽い材料になるのかな、それとも、強度を意識して金属を使うのか。金属だとしたらアルミだろうな。
授業が始まってもまだ、そんなことを考えていた。