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プロローグ

縦書きネットで読まれることを推奨します。

 世界が白い靄に包まれていく。

 交互に踏み込むペダルの感触は遠くなり、先程まで全身を蝕んでいた苦痛すらも、忘れてしまいそうなほど和らいでいた。


 インターハイ自転車競技、ロード部門。一〇〇キロを自転車で走り、先着を競うレース。八月一〇日の太陽は、この日に相応しい熱気で俺たちを苛んでいた。でも、今ではそれすらも、むしろ良かったのではないかと思えてくる。

 吐きそうなほど喘いでいた肺も、酸素が欲しくないのだろうか。思っていたほど苦しくない。体を包むのは、眠気にも似た心地よい暖かさだけだ。ゴールへと続く最後の平坦道が、緩やかな上り坂に見えてくる。それどころかさらに坂はせり上がり、壁かと思うほどに眼前にそびえ立った。だけど問題はない、これだけ調子が良ければ、傾斜がきつくなっていっても登りきれる。――いや待て。レース中に楽になれる、そんな訳あるか。平坦道が坂になる、そんな訳あるか。飲み込まれるな、現実に戻れ。


 いつの間にか息を吸うまいと縮み上がった肺に、空気を無理矢理送り込む。ビシビシと張り裂けそうな痛みが甦る。水の底から引き上げられたかのように、体が一斉に感覚を取り戻した。太ももは相変わらずの千切れそうな激痛を訴えていて、ペダルも回るのが信じられないほど固く重い。腹筋から背筋から尻まで、焼きごてを当てられたように熱い。意識がはっきりとしてきた。そうだ、これが、これこそがレースのクライマックスじゃないか!

 自転車から落ちそうなほど前傾していた体を、ハンドルにもたれかかるように引き起こす。気づかないうちに吐いたのか。車体から見慣れない汚れが筋を引いて落ちていく。


 くそっ、状況を確認しないと。前には誰もいない。後ろは、かなり遠くに他校の選手が揺れているだけだ。今から追い上げてきたところで、追いつかれることもないだろう。

 安心感から、少しだけペダルを回すペースが落ちる。とにかく脚が重い。限界まで使い切るタイミングが早かったようだ。ギアを下げようとレバーをクリックする。反応しない。もう一度クリックするが、チェーンが動く気配がない。故障か。直接目でギアを見た俺は、軽い絶望感を味わった。ギアは既に一番軽いものになっていた。頭を上げて周囲を見渡すと、観客一人一人の顔がいやにはっきりと見えた。尾を引いて流れるはずの景色が流れず、形を保って俺の周りで澱んでいた。


 このままフラフラ走って、ゴールまでたどり着けるかは甚だ疑問だ。むしろ途中で力尽きると考えるのが妥当だろう。山あり谷ありの一〇〇キロを、真夏日の太陽とアスファルトの照り返しの中で走ってきたんだ。ここで倒れたって、恥ずかしくはない。そんな考えが一瞬脳裏をよぎる。俺は即座に頭からその下らない考えを追い出した。これは個人レースだが、俺一人のレースじゃない。俺が楽したいからって、こんなところで負けるわけにはいかないんだよ。

 一人で走っていても、背負ってる想いは一人分じゃない。三年の村田先輩にとってこれは高校生活最後の大会だった。このコースを先輩も走りたかったに違いない。それでも、「実力は実力だ」と、二年生の俺にレギュラーを譲ってくれた。部長はただ、俺の目を見て「任せた」と言った。同期も後輩も、「お前なら獲れる。信じてるぞ」と、俺に託してくれた。俺は、ただの桜井瞬という個人なんかじゃない。幌南高校自転車競技部の代表だ。みんなの期待を背負って走ってるんだ。ゴール目前で諦めていいわけないだろ。


 心身ともに鍛えてきた。走り続ける根性を磨いてきた。鋼のメンタルを身につけた。俺はまだ、走れる。

 ゆっくりと迫りくるアスファルトを懸命に引き剥がし、左右に揺れながら全身を使って蝸牛の歩みを続けた。ゆらり、ゆらりと黒い壁が目の前で揺れる。


「あそこで落車とか、マジでねーだろ」

「順位が低いならまだしも、落車で失格はさすがにないわ」

 俺が倒れるまいと懸命にバランスを保っている中、近くで数人の男が囁いているのが聞こえた。どこかの選手が落車したのか。ここまで来て、もったいないな。しかし、俺には関係のないことだ、今は目の前のことに集中しろ。


「期待はずれもいいとこだな」

「村田先輩、超可哀想。めっちゃ練習してたし、先輩出てたら一〇位以内は獲れてたかもしんねーのに」

「完全に先輩の好意を踏みにじったな」

 誰の話だ。俺の他にも二年生でレギュラーをとったやつがいるのか。それより、どういうことだ。前輪が、ない。それどころか握っていたハンドルの感触までない。もたれかかるようにハンドルにかけていた俺の手には、一切の重みが感じられなかった。それどころか、俺の腕すらない。脚も、自転車も、何もかもがなくなっている。どうやら、目の前に広がっている黒色は、アスファルトではないというのか。じゃあ、俺はどうなっている、ここはどこだ、レースはどうなった。


「信じてたんだけどな」

「こうなるんなら、俺だってここで走りたかった」

「期待を、裏切りやがって」

 闇の奥から一条の白い光が差し込んでくる。太く、はっきりと、そして眩しく広がったそこに見えた光景に、俺は全てを悟った。日を薄っすらと通し、白く輝く救護テントの天井。大きく見開いた目から、温かな液体が一筋、頬を伝って落ちた。

 ――俺は、俺が落車したのか。

 先ほどから聞こえてきていた声が、黒い感情を孕み、意味を伴って俺の頭の中に入り込んでくる。先輩出てたら、期待はずれだ、踏みにじった、裏切った、俺だって、信じてたんだけど――。

「けどさ、あいつが落車して、なんだか清々したんだけど」

「わかる。自分だけ余裕って顔して、後ろ走ってる俺たちを振り返ったりなんかしてな」

「自主練もさー、なんか俺たちの練習が物足りないって言ってるみたいで、感じ悪かったよな」

 ――調子乗りやがって、人を見下すような、いいマシン持ってるからって、実家の金だろ。


 なんだ、それは。


 俺の中から、仲間に対して湧き上がりかけていた申し訳なさの気持ちは、あまりにも乾ききった不毛な感情を前に、一瞬で干からびた。次いで怒りが首をもたげ、そして。その頭を押さえ込むようにして、俺の心を恐怖が支配した。俺の何を知っているんだ、勝手に期待したのはお前らだろ、先輩本人がいないのに、好き放題言いやがって。そんな思いよりも、この確信ははるかに強く俺の心を縛り上げ、凍りつかせた。俺に期待していると言ったとき、彼らに悪意は微塵もなかった。それが彼らの本心で、そして今あけすけにぶちまけている悪意もまた、今の彼らの本心なのだ。彼らは俺に期待した。けど期待通りにならなかった。悪いのは俺一人であって、彼らは被害者だ。だから俺を憎めばいい。そんな理屈を自然と受け入れる。それが人間なのだ。


 人の肩の高さまで垂れたカーテンを潜り、かつて仲間だと思っていた少年が救護テントに入ってきた。傷一つないジャージと、焼けていない肌が滑稽なまでに似合っている。

「大丈夫か、みんな心配しているぞ」

「ごめん、本当にごめん」

「き、気にするなよ。桜井は十分頑張ったって」

 彼の肩を借りて立ち上がる。俺は、いざ皆の前に出たとき、俺はどんな顔をしてしまうのだろうかと考えながら靴を履いた。皆はきっと、何事もなかったかのように、実に自然に心配そうな顔をして、俺のことを労ってくれるのだろう。俺はきっとそれに合わせて、申し訳なさそうに責任を口にするんだろうな。俺もたいがいだ。


 所詮スポーツで鍛えた鋼の心は、人の心を前に、ひどく無力だった。今日で終わりにしよう、期待されるなんて、二度と御免だ。

ご閲覧いただきありがとうございます。

誤字脱字等ありましたら、感想でご報告くださると嬉しいです。

改行等に関しましては、変更する予定はありませんので、ご了承ください。

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