雨の早朝
当たり前のように彼は入口から真っ直ぐにミサのテーブルへやってきた。
「ここ、座ってもいいかな。」
ミサが軽くうなずくのを確認すると同時にやわらかく微笑んでミサの正面に座った。彼は本当に変わりない、自分が違和感に思うことが不自然なほど。
彼のもとへウエイトレスがきて注文を聞いてゆく。
「赤ワインを、彼女にも・・・」
ごく普通に注文をしている彼を見ながら、ミサは外をみた。暗闇の中にはなにも見つけることは出来ない。2人は頼んだ酒が運ばれてくるまで黙っていた。
運ばれてきたその酒を口にした瞬間、ミサは顔をしかめる。
「まずい。」
「うん、まずいね。」
そういう割に彼は口でいうほどまずい表情はしていなかった。一口飲んでそれ以上ミサが飲もうとしないでいると、
「もらっても?」
うん、とも言わないうちから彼はミサの分も飲んでいた。
「おごってもらえると思ったのに。意味ないじゃない。まずいのに飲むの?」
いつのまにかミサは笑っていた。
「確かに、前飲んだやつのほうが、うまかったよ。でもこんな店で頼めばこんなもんさ。」
彼も笑う。ひどく愉快な気分になって・・・、2人で笑っていた。こんな気分になれたのはどれくらいぶりだろう。本当におかしくて、おかしくて、2人で笑った。
「私たち別れたんだよね。」
「ああ、別れたね。」
「なんで来たの?」
「別れたからさ。」
2人はまだ笑い続けている。
「君らしい。」
これは夢だろう。心の片隅でミサはそう思っていた。ワインは以然こっそり飲んだ時よりもおいしくない、そして“彼”もいる。ミサと彼は笑い合った。
「これは夢だろう?」
「ああ、夢だよ。」
なんてことでもないように肯定する彼が現実以上に現実らしい気がした。
「でも僕は僕だ。」
またしてもミサは笑った。あまりに彼らしい言葉に。
「君なら来るだろうね、たしかに。夢であっても、何であっても。」
言葉は続かなかった。でも彼との沈黙は嫌いじゃない。不安になる要素なんてここには存在しない、少なくとも言葉がなければ。でも・・・。
しばらくすると、ミサはゆっくりと口を開いた。半ば呟くように、半ば確認するように。
「私は東京にいくよ・・・、東京に行く。」
「そうだね。君ならできるよ。」
彼はミサを見ていた、やさしく、信頼に満ちた目で。
曖昧な笑みは・・・・ミサはわずかにほほ笑んだ後、静かに泣いた。
「君ならできる、君なら。」
彼はミサに触れなかった。彼は触れずにミサを抱きしめることができた。
「別れたから来たんだよ、僕は。それに君が考えるより、ずっと簡単なことだ。僕たちは別れた。だから君が東京にいっても、僕らは連絡を取らなくてもいいし、」
彼は笑った、取ってもいい、と。
言葉にならなくて、本当にどうしようもない。ミサはもう泣いていなかった。彼がミサの頭にちょこんと手をのせてそっと撫でる。
「時間だよ。」
最後まで彼はほほ笑んでいた。
*
雨音がうっすらと聞こえる。
ミサは外を見てはっきりと雨が降っていることを確認すると立ち上がった。6時半。日の出がでるにはまだ早いのだろうか。
夜のような暗さと街灯を見ると時刻を間違えそうだった。けれど日が昇ってもこの天気なら今日は明るくならないだろう。ミサはいつのまにか会計を済ませていた。
「ありがとうございました。」
形式的な文句とともに渡されたレシートを見るとコーヒー代しか請求されていなかった。
店を出ると雨が小降りになっているのをいいことにミサは小走りで公園に向かった。店から公園まではそうたいした距離はない。
だが朝食を食べていなかったことに気づきコンビニへ寄るとミルクの入った缶コーヒーを買った。公園の中央にある東屋の椅子に腰かけ、ミサは無表情にコーヒーを開ける。
雨は相変わらずパラパラと気のないように降りつづけた。
ミサは夜を考え続ける。昨日の夜、明日の夜、今日の夜。
明るくはなっても、太陽をさえぎる雲は晴れない。
もしも、もしもこの雨が本当の涙だったら、わたしはもう一度立ち上がって、そう、もう一度立ち上がって、・・・(そして)できるだろう・・・この雨がもし本当の涙だったら・・・。
さめきったコーヒーは地面に染み入り、雨に薄められてゆく。・・・登校する小学生たちから・・・聞こえてくる声は公園に響いた。
「わたしね、夢があるの・・・・」
もしもこの雨が本当の涙だったら・・・・
end